世界巡る昼と夜の物語

棒王 円

堕ちたる少女 【2025.01.30 改稿】




 遥かな青空の彼方から轟音が響いている。バラバラと建材の欠片が空中に落ちていく。白い雲を突き抜けて建物に雲を纏わせながら巨大な空中都市が落下してくる。

 その落下場所を目掛けて、荒野の上を真っ黒な大きいバイクが走っていた。


 バイクを運転している男は目に掛けていたゴーグルの中で、空中都市から目線を外さずにバイクを操っている。荒野の土を巻き上げながら全速力のバイクは落下するであろう場所を目指しているが、空中都市の落下速度は早まっていた。

『お願いよ!ヨル!何とか助けてあげて!!』

 バイクを運転する男の耳元のインカムから叫ぶ声を聞きながら、男はバイクが倒れないようにハンドルを切る。

 急いではいるのだろうが、バイクのスピードでは巨大な物質が重力に落とされる速度に追いつく事はない。

 男が見上げる中、落ちてくる建物から白い煙が立ち上り、斜めに傾いでいる天空都市は、落下速度が緩まらない。

『NO2は子供ばかりなの!お願いよ!ヨル!!』


 その声を聴いてゴーグルの中の瞳がしかめられる。

 止めるにはあの場所に入らなければならないだろう。もしくは重力を打ち消す装置があれば。男のバイクが天空都市に近付くと、インカムをしていない方の耳に鳥の鳴き声の様なものが聞こえてきた。

 それはヨルのインカムから響いている声と同じ音律。


 巨大な物が落ちている風巻く落下音が聞こえるほどバイクが近づけば、その鳥たちの声は遠くに近くに聞こえて来る。知らない人が聞けば南国の森の中にいるような環境音に聞こえるかもしれない。しかし、ヨルと呼ばれた男の耳には数多の絶叫として聞こえていた。


 タスケテ、タスケテ、ダレカ!!

 重なる声はまるで一つの音のように、熱と爆風の中に響き渡る。止められるかは分からない。けれどアクセルを限界まで開ける。バイクのエンジンが軋む音を出すが、かまう時ではない。

「無理だ、コトリ、あれは、もう」

 猛スピードのバイクを制御しながら、ヨルがインカムに呟く。

 見上げていたヨルの視線の先で、天空都市が地面に衝突した。ドンと大きな音がして地面が震える。その衝撃で炎と熱と爆発と土と風と。あらゆるものが落下場所から吹き荒れて、円状に広がった。

 ヨルがバイクに急ブレーキをかける。ギャリギャリとタイヤが軋み、バイクは半円を描くような軌跡で止まった。


 天空都市は、その重さ故に落ちた場所からどんどん潰れていく。

 下部の岩はすべて崩れ、その上に立てられている都市部の建物も衝突の衝撃と重力に逆らう事なく潰れていく。

 何度も何度も何度も爆発を繰り返し、天空都市NO2は崩壊しながら炎をまき散らす。


 バイクに跨ったままそれを見つめているヨルのインカムからは、泣き声しか聞こえない。

 片足を地面につけたまま、ヨルは小さく息を吐く。バイクの振動音が身体を伝って響いているが、聞こえているのは断続的な爆発の音だ。


 ヨルがインカムを触る。コトリと呼んでいた相手とは違う周波数に合わせて、口を開いた。

「…天空都市が落下をした。場所は秘匿とする。自分たちの警ら範囲で振動が起きたと慌てる人たちがいたら、地震だと伝えて混乱を避けてくれ。以上最重要項目とする」

『了解しました』

『了解です。警らに行ってきます』

『分かりました』

 数人の声が聞こえてから、ヨルはコトリの周波数に戻す。まだ泣いている声が聞こえる。

 NO2がおかしいとコトリからヨルに連絡が入ったのは数時間前だった。それまでの間にも色々な事が行われたのだろう。都市に残っていたのは技術者と離れたくないと言った住人と、育てられている最中の赤ん坊だけだったと、コトリはヨルに告げた。大多数は他の空中都市に逃げることが出来たと。

 それでも残った者たちをどうにか助けられないかと、相談されてヨルはバイクで追いかけていた。何も出来ないだろうと思いながら。


 見守る中、数時間後に、いくらか爆発が収まってきてからバイクを発進させる。

 バイクの速度を落とし、潰れている空中都市のまだ燃えている残骸に近付くが、熱で土も溶けていてバイクでの接近は不可能な場所でバイクを降りると、ヨルは歩いて更に近付き、煙と煤が空気に混じっている壊れた都市を見上げた。


 美しいドームに覆われていた建物群はことごとく潰れ壊れ、数多のガラスも道路に降り注いだのか、ささって溶けたガラスのカバーのように、歩く足元で固まり切らない硬さで沈み潰れる。


 近代的な造りの何もかもが崩れ壊れ、まだそこかしこで何かが爆発している。ヨルはゴーグルについた煤を指で一回拭ってから、都市の中央にあった巨大な建物に入っていった。受付だったであろう入り口には炭化した人型が転がっていた。その奥で小さな火の手が何かを燃やしている。残った市民が最後にここに立てこもってでもいたのだろうか。

 ヨルは踏まぬように避けながら、施設の奥を目指す。

 施設と言ってもほとんどは壊れて天井も壁もなく、瓦礫を乗り越えて進んでいるのだが。


 コトリの言う通り、子供を飼育している施設だったのか、入った部屋には壁辺り一面に小さな飼育カプセルの残骸が積み上がっている。中身はとうに水気が無くなり干からびていて、それが何だったのか想像もできない状態だった。

 ヨルは慎重に内部奥に相当する場所に足を運ぶ。


「誰もいないな」

 呟いたヨルの声にインカムから溜め息が聞こえる。

「他の都市は大丈夫なのか?」

 黒く炭化しているものを踏まないように避けながら、解けたガラスドアを手で押さえて部屋の残骸を進んでいく。


『他のナンバリングには緊急点検をさせているわ』

「そうか」

 奥の部屋にも壊れた飼育カプセル。羊水代わりの液体と千切れたような中身。まだ部屋の隅で燃えている人型。目線を外すことなく、それらすべてをヨルは見つめる。パチパチとインカムをしていない耳には物が焼ける音が届く。繋がる部屋にはまた、壊れたカプセル。頭を少し振ってからヨルは最奥の部屋に入る。

 最後の部屋に入った時に、ヨルの耳に音が届いた。

 ぴい、ぴい。

 その音源に近寄りながら、ヨルはインカムに声を掛ける。

「黙ってくれ、コトリ」

 現状を報告していたインカムの向こうのコトリが口を閉じる。静かになった耳元に小さな声が届く。


 ぴい。

 端にある壊れかけのカプセルにヨルが近付く。強化ガラスの中に、擬似羊水といびつな何かの塊。それが小さな声で誰かを呼んでいる。

 ヨルがカプセルを触ると、中の生き物じみた塊が動き、ヨルの手の方へ縋るように近づいて来た。しかしそれは弱々しい動きだ。



「……いたぞ、生き残り」

『え、ええ!?本当に!?』

 インカムから驚く声と喜びで泣き叫ぶ声が響いた。そのあまりの音量にヨルの肩がびくっと動いた。少し頭を振ってから片目を閉じて、ヨルがインカムを触る。

「耳が破れる。叫ばないでくれ」

『カ、カプセルナンバーと状態を教えて!』

 コトリに言われてカプセルの下に刻まれている数字列を伝える。向こうで資料を検索しているのか、しばらくコトリの声がしない。ヨルはゆっくりと数字列を指先で撫でる。それは意味のない羅列で、名前では無いようだ。


『うん、女の子に進化する前の状態の子ね。カプセルは大丈夫そう?』

 本体は表面に少しくぼみがあるが、罅とかの異常は見当たらなかった。ヨルはたくさんのチューブが繋がっている先を見るが、どのチューブも汚れて破損している。本来は循環しているであろう液体が止まっているのか、中の液体は少し濁っていた。そのせいなのかカプセルの幾つものランプが点滅していた。

「チューブが切れそうだ。カプセルのランプは大体が赤く点滅している」

『助けたいわ。お願いして良いかしら、ヨル』

 当然のように言ってくるコトリの言葉を聞いて、ヨルはカプセルから手を離し、インカムの方の耳に目線を投げる。


「……ここで出せば、天空都市には戻せない。それで良いのか」

 ヨルの言葉にコトリが黙る。

「地上の空気に一回でも触れたら、天空には帰れない。それがルールだろう?」

 天空人と地上人は同じ空気が吸えない。それは遥か昔に分断されてからずっと変わらぬ決まり事だった。


 まだどこかで爆発が続いていて、白い煙がたなびいている。この粉塵まみれの煙をひと口でも吸ったならば、天空都市には入れない。地上で生活する人間には耐性があるが、天空人には無いのだ。

 天空人が条件を満たして地上に降りることは出来るが地上人は絶対に天空都市には入れない。それも昔からの決め事だ。

 カプセルを見ながら、ヨルはコトリの返事を待つ。


『…それでも』

 絞り出したような声が、インカムから聞こえて来た。

『それでも、生きて欲しいわ』

 ヨルは目を閉じて溜め息を吐く。その言葉は大人の身勝手で子供に選択の自由がない。かと言って子供に選ばせてやる時間もなかった。生命維持装置は既に壊れかけていて、修理は出来そうもない。

「……分かった、請け負う。移動させる人型を降ろしてくれ」

『ありがとう、ヨル。じゃあ、降下地点を送るわ』


 インカムから響く小さな機械音を聞きながら、ヨルはチューブからカプセルを切り離し、片手で抱えて歩き出す。時折何かの確認のように、ぴい、と腕の中から鳴くそれに、指先でカプセルの表面を軽くたたきながら返事をしつつバイクまで戻った。

「振動と大きな音がする。我慢してくれ」


 通じているかどうか分からないが、一応断りを入れてからバイクを発進させる。メーターの横に付いているレーダーに物資ポッドの降下地点が点滅している。コトリが送って来た座標は時間がないと分かっているために、随分近くに降ろしてくれるようだ。


 遠くから流星のように物資ポッドが落ちてくる。中身が壊れないようにゆっくりと、しかし時間が無いために出来るだけ正確に。そんな動きをしたポッドの傍にヨルはバイクを止めた。


 物資ポッドには、接続用の機械と、小さな人型が入っていた。

 ヨルは止めたバイクの横に自動ハウスを出して、家の中で安全に接続作業をする。リビングに機械を置いて人型を開き、沢山あるコードを人型に付けて、一緒に送られて来た擬似内臓を各場所にしまい込む。カプセルのランプの点滅がずいぶんゆっくりになっているが、ここで間違いは出来ないと、慎重にすべてを収めた。

 カプセルを開けて、中で泳いでいた肉塊を脳幹と首、胸元に伸ばしながら設置をすると、ちょうどしまい込んだ時間で、飼育カプセルの点滅が消えた。

 身体の中で肉塊は神経を伸ばし始めたので、ヨルは人型を閉じる。閉じられた人型は見る限りは地上人と変わらなかった。見守るヨルの前で人型は小さく口を開き、息を吸った。


 間に合ったと溜め息を吐いたヨルの耳に、くすりと笑い声が聞こえる。

『…頼んだわね』

「ああ、分かっている」

 それきりコトリの通信は切れた。

 コトリの立場からすれば、今は一秒でも早く天空都市の落下と振り分けられた天空人の処置をしなければならないだろうに、一人の生存者の為にここまで時間を割くのは、いつものコトリらしくないなと思ったが、こんな異常事態に何時も通りも難しいかとヨルは首を振る。

 それからベッドに寝かせてある小さな少女を見て、溜め息を吐いた。


 生まれたての子供がいる場所で吸えないと、ヨルは外に出て煙草を咥える。小さな大陸の町もない場所で、ヨルの口から白煙が零れて空に消えていく。

 視線の先の遠くにはまだ燃えている天空都市の残骸。異常な音をさせていまだに内部で潰れつつある、取り戻せない美しき都。辺りが暗くなっても炎がチラチラと光って幻覚のように都市の名残りを浮かび上がらせる。

 それは何日も続き、天空都市NO2は地上で沈黙した。



 ベッドの上の少女が目を覚ましたのは、日が何回か昇り中空に差し掛かった頃だった。見守るヨルの前で、グイッと寝返りを打った。それからぱちりと目を開く。

 周りを見回し、布団の感触を手で触り確かめた後で、自分を見ているヨルに気が付いた。

「ぴい。ぴぴい」

 それは天空人の言葉だが、ヨルは地上人の言葉で返事をした。

「…そうだ、俺が助けた」

 ヨルが天空人の言葉を理解出来るように、少女も地上人の言葉を理解出来た。それはあらかじめ入力された知識なのだが、少女に違和感はない。

「ぴ?ぴいい、ぴ?」

「お前が居た場所は壊れた。お前の他に生存者はいない」

 言葉を理解して少女が息を飲む。ヨルはまだ無表情に少女を見たままだ。


 少女が目覚める間に、ヨルは二回目の探索を落ちた天空都市で行なっていた。生き残っていた天空人もいたのだが、その殆どが虫の息で、治療を拒んだ。地上では生きたくないとヨルに告げた。その意思を尊重してヨルは誰も助けなかった。

 だから生存者は少女一人だ。



「ぴ…」

 眉を顰めて悲しそうな顔をしている少女は、ヨルの説明を理解している。当事者としては正しい感情なのだが、生まれたての生物としては驚くべき行動だ。

 ヨルは努めて無表情のまま、自分の傍らに置いてあった機械を手に取り、少女に目を合わせる。

「無事に目覚めたお前に、最後に、しなければならない事がある」

「ぴ?」

 首を傾げる少女に、ヨルは小さな首輪状の機械を見せる。細い装身具は機械を繋げただけの見た目で、少女が着けるには無骨ともいえる代物だ。

「これを首に付けて欲しい。これは地上の民の言葉の翻訳機だ」

 少女はその首輪をじっと見ている。実際に聞く方は理解しているようだが、話すことは出来ていない。その矯正のための機械だが、話し方を教えるのとは違う事がたった一つあり、それが最重要だった。

 ヨルは機械を持ったまま差し出すことを戸惑う。今のように話していては、地上では命が奪われる。その事実が分かっていながらも、実行を促すのは少女には酷だと、ヨルには思えた。


「これは聴話一体型だ。付けると天空の民の言葉を喋られなくなる。意味が分かるか?」

「…ぴい。ぴいいぴぴい、ぴい?」

 首を傾げて質問をする少女に、ヨルが肯く。

「そうだ。お前は天空には戻れない。だから言葉は必要ない」

「ぴぴぴ?」

「此処は地上だ。お前はもう地上の空気に触れている」


 ヨルの言葉に、少女がくしゃりと顔をしかめた。あらかじめ入れ込まれた知識には、もちろん追放に関してもあるのだろう。天空人にとっては地上に行くのは堕天と等しかった。

「ぴい、ぴぴ、ぴ」

「……ああ、すまない。お前の意思は確認しなかった」

 少女の瞳から涙が零れる。それが無色透明な事にヨルはほっとしながらも、顔色を赤くして怒っている少女に一つ肯く。生まれてくる場所を選べないのは、どの赤ん坊も一緒だが、少女には抗議をする事が許されていた。

「ぴい!ぴ、っぴい!!」

「そうだな」

 激しい言葉を言いながら涙をボロボロと零す少女に、ヨルは肯く事しか出来ない。

 天空人は生きる場所である天空都市に誇りを持っている。それは遠い昔の上流階級の人類のように。いきなり地に降りろと言っても、拒むばかりなのだ。都市が落下して命が助かる方法が他にないと分かっても。実際に少女以外の天空人は全て、地上では生きたくないと選んだのだ。


 少女の抗議の声に、ヨルは反応せずに見つめているだけだ。その態度は怒っていた少女を徐々に沈下させた。ぐすぐすと鼻を啜りながら、ちらりと少女はヨルを見る。

「ぴい」

「うん?」

 静かな口調で問いかけられて、ヨルも静かに答える。

「ぴい、ぴ」

「装着を拒めば、か?」

「ぴ」

 ヨルは目線を握っている首輪型の機械に落とす。

「……処分だ。それ以外の選択肢はない」

 ピタリと少女のすすり泣きが止まる。

「なるべく、楽にしてやる。苦しくないように」

 少女がヨルをじっと見ている。ヨルは視線を下げたまま少女を見ない。

「…ぴい…」

「地上で天空人が見つかれば、生きたまま惨い殺され方をするだろう。理解する人もいる。けれどその数はとても少ない。ほとんどの人が無益な憎悪を抱えている」

 少女がじっと見ている。ヨルは顔を上げないが、近くに居る少女にはヨルが苦しそうに話している事が伝わっていた。

「天空人が考えている以上に、地上の民は天空を羨んでいる。自分たちを見捨てて天に昇った人類を」

 ヨルの言い方に少女が肯いた。それはヨルには見えていない。口をぎゅっと閉じたヨルを少女はしばらく眺めた。

 ヨルが自分を助けた人物だと少女は分かっていた。助けてくれた人物が迷いなく苦痛なき処分を選ばなければならない事態が、この地上には在るのだと、ゆっくりゆっくり理解した。


 自分は誇りの為に立ち去れるか。

 それとも、目の前の人物が与えてくれた生命を謳歌すべきか。


「ぴいーぴ!」

 小さく肯いてから両手を差し出して、涙目のまま少女が笑う。

「そうか。…すまない」

 ヨルが少女の首に首輪型を取りつける。パチと音がして少女がびくっと動く。痛みが多少あったのだろうが、ヨルはその接続部分を指でなぞる。ゆっくり人工皮膚の下に埋まっていく機械の行方を観察している。最初の痛み以外は痛くないのか、少女は動かずにヨルを見ている。ヨルの指先が離れると、少女はヨルを見上げたまま首を傾げた。


「…終わった?」

 ヨルに少女が話しかける。

 可愛らしい高い声だが、天空人の声帯とはかけ離れた地上の音律。

 少女自身がその言葉に驚き、ヨルを見上げる。困った様な顔をしてヨルが頷く。

「終わったようだな」

 肯きながら少女が手で自分の首を触る。そこにはつるりとした肌があるだけで、首輪型の機械の痕跡など、何処にも感じられなかった。

「変な感じ」

「そうか」

 ヨルを見上げたまま、少女が笑う。その顔を見てヨルは頭を撫でる。生きることを選択してくれて良かったと、心底安堵しながら何度も少女の金髪を撫でた。


 気になったのか少女が時を刻む時計を見る。ベッドルームにあるのはヨルの趣味の旧式の時計だったが、その針の動きを少女は不思議な生き物を見るように、じっと見つめている。ヨルも時計を見てから、少女に尋ねた。

「何か食べるか?」

「うん。お腹空いたね」

「そうか」

 ベッドから起き上がる少女を連れて、ヨルは一階のキッチンへ入る。少女は薄いワンピースに裸足だが、子供用品はさすがに置いてないので、後で買わなければならないなと、ヨルは少女を見ながら考える。


 水を入れた鍋を火にかけて、ナイフを手に持ったヨルに少女が問いかける。

「ねえ、あなたの名前は?」

 ストック箱から野菜を出しながらヨルが答える。

「ヨル」

「ヨル。うん、分かった」


 名前を確認した少女は何度か肯いて口の中でヨルと反復している。これからお世話になる相手の名前を忘れる訳にはいかないのだろう。

 その質問があったのなら続くであろう質問を、野菜を切りながらヨルは待ったのだが、少女は先の質問で満足してしまったのか聞いて来ないので、ヨルは勝手に告げる事にした。

「お前の名前はディナと言うそうだ」

「私はディナ」

 不意に聞いた自分の名前に、少女は驚いた後に満面の笑みで、また何度も繰り返す。

「それは誰が付けてくれたの?」

「天空人の長だ」

 ディナは目を開いて泣きそうになる自分の目元を擦る。

 思い出も記憶もない天空から、一つだけ貰った贈り物。それはいらないから地上に出されたのではなく、仕方なく送られたのだと、そう思えるような。


 感極まったディナは、料理をしているヨルに後ろから抱き付く。そんな事をされると思っていなかったヨルは、切りそうになった指先を確認してから、斜めに振り返りディナを見降ろす。

「…早く、食べたい、なあ」

 顔を見られないようにヨルの背中に顔をうずめて呟く鼻声のディナの催促に、ヨルは小さく微笑みながらディナの頭を撫でて、調理の続きを始めた。



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