第2話 出逢い

◆第2話 出逢い

  

 ー 2023年9月2日(土曜日) 渋谷 ー

 

  『次は渋谷ー渋谷ー、お出口は左側です』

 

 青年は慎重な足取りで電車からホームへ降り立った。

 

 夏の本場である8月を終えた9月を迎えても、一向にこの蒸し暑さは収まることを知らなかった。

 

 青年は改札口まで人混みに流されるように歩いた。歩みを進めるごとに額に汗を滲ませた。この汗は、人混みによって引き起こされる熱気によるものなのか、依然として30度を超える気温によるものなのか、それとも階段を降下するという運動によるものなのか、あるいはその別の何かによるものなのかは、区別がついていなかった。

 

 

 『来週の土曜日の9月2日 14時に渋谷ハチ公前で待ち合わせですね。アプリで人と直接お会いするのは初めてですのでとても緊張しますが、Satoshiさんとお会いできることを楽しみにしています。』

 

 青年は幾度も幾度もスマートフォンを取り出しては画面を凝視する所作を繰り返していた。

 

 「ハチ公前、着いたなー」青年はそう呟くと腕時計にちらりと目をやった。

 

 13時52分――。14時まではまだ少し時間がある。青年はすぐ近くにあるベンチに腰を掛けながら行き交う人々の往来をぼんやりと眺めていた。

 


 〔ピコーン!〕



 ドキリとした。青年はわずかに自身の左肩が無意識に跳ね上がったことを自覚した。

 

 『Satoshiさん、後3分ほどでハチ公前に到着する予定です。恰好は黒色のワンピースに白色のジャケット様の羽織物、それからピンク色のバッグと黒色の日傘を持っております。Satoshiさんはもうハチ公前にご到着されておりますか?』

 

 『はい、つい先ほどハチ公前に到着したところです!自分は茶色の七部丈シャツに黒っぽいズボンを履いています。靴の色は黒です!ご到着されましたら、『マッチーズ』のアプリからお電話いただけると幸いです!暑いのでお気をつけてお越しください!』

 

 青年は時間が経つにつれて鼓動が高鳴りを増していることに気づいていた。

 

 「俺、緊張……してるのかな……。」しかし青年はそれは何に対する緊張なのかを自分の中では適切に解釈できていなかった。ただ、恐怖心と高揚感という相容れない感情が自らの頭を渦巻いていることだけは感覚的にわかっていた。

 

 青年は極力平静を保とうと、無心を心がけた。そうして改札を方を見ながら、元のように人の往来を意識的に眺めた。

 

 

 

 

 

 カツッ、カツッ、カツッ――。

 

 雑踏の中、ある一つの足音が異様に大きく聞こえるように感じた。

 

 聡はその足音の方角に顔を動かさずにゆっくりと横目をやった――。

 

 「(黒い日傘にピンク色のバッグ……。顔は傘で隠れてよく見えない……。)」足音は徐々に大きくなり響き、その足取りはハチ公銅像へと向かっているように思われた。傘の下からは、真っ白で今にも折れてしまいそうな細くて長い手足を覗かせていた。その足音の主は、バッグからスマートフォンを取り出し、周囲に目配りをしながら、ゆっくりと操作をしつつこちらの方へ向かって歩いて来ていた。

 

 

 

 傘があがった――。

 

 

 

 聡はその方角へスッと顔を向けた。

 

 3秒ほど時が止まったような感覚がした――。

 

 ぱっちりと開いた大きく透き通った瞳と、青年の大きく見開いた目はばっちりと合った。

 

 電話は不要だった。が、青年は緊張のあまりすぐに言葉を発することができなかった。

 


 「あの……すみません。もしかしてSatoshiさんでしょうか?」その美しい声音には一種の恐怖心と警戒心が宿っていることを聡は悟った。そして半歩下がるような姿勢を意識してゆっくりと立ち上がった。

 

 「は、はい、僕がSatoshiです。あなたがSachiさん……ですよね?」

 

 「はい、Sachiと申します。お会いできて大変光栄です。」

 

 お互いがお互いをなぜ認識できたかについては特段触れることはなかった。それは、外見的特徴を事前に伝えておいたためであると、青年は自分に言い聞かせた。

 

 「あ、ありがとうございます……。」

 

 言葉に詰まる――。そして数秒の沈黙が二人の間を流れた。

 

 「今日も暑いですね。お約束の通り、近くのカフェでお茶をしながらゆっくりお話しませんか。」

 

 彼女のその微笑みを含んだ言葉で聡は我に返った。

 

 「そ、そうですね!すみません、ちょっと緊張してぼーっとしちゃってました。汗 アハハ……。あ、あそこにあるムーンバックスでお茶しましょう!」

 


 青年は緊張以上の動揺を悟られぬよう、極力彼女の顔を見ずに、それでいてエスコートしているかのような半身の姿勢でカフェに向かって歩きだした――。それがこの場で青年が考えうる最大限の振る舞いであった。

 

 

 

 ◇◆◇◇◆◇

 

 カラン――。

 

 コップの中の氷が溶ける音がした。その頃にはカフェで1時間半ほどが経過していた。

 

 青年の緊張は少しずつほぐれていた。

 

 聡と女性のゆったりとした会話は依然として続いていた。

 

 聡の『アイドルの子』を観た感想から始まり、お互いの愛読書や出身地、生まれ月、勤め先での仕事内容、なぜ読書を好きになったのかーーなど、極めて当たり障りがなく、かつ共通的なテーマについて言葉を交わしあった。

 

 「ところで、Sachiさんはなぜ僕なんかに『マチリク』を送ってくださったんですか?」

 

 「そうですね……。読書がお好きとのことで、趣味が合いそうだと思ったことと、純朴そうなお方に見えたからです。」

 

 「(純朴そう……?)あ、そうなんですね!ありがとうございます。僕もSachiさんと趣味が合いそうだと思いまして、『マチリク』を承諾させていただきました!メッセージングも含め、今こうして直接お会いしてお互いの好きなことについてお話できているのがとても嬉しいです!」

 

 「ふふっ。そうですね。私も同じ気持ちです。」

 

 上品な笑い方だ――。それでいて、話していても全く嫌味な感じがなく、とても話しやすい方だ。むしろ、なぜこのような女性がマッチングアプリをしているのかが不思議に思われた。

 

 「あの……、Sachiさんはどうして『マッチーズ』を始められたのですか?」聡は言葉を発した後、この質問にまるで意味がないことにすぐに気がついたが、彼女の事情を知るためにより適切な、この表層的な質問以外のものを思いつくことができなかった。

 

 「そうですね……。2年程お付き合いしておりました男性とお別れしてから、出会いが全く無く、お付き合いできるお相手を探すためにアプリを始めました。」

 

 愚問。極めて当然の返答である。が、青年が真に彼女に問いたかったことについての『答え』が含まれていたことに、刹那の喜びを感じると同時に一抹の後悔と強い好奇心が掻き立てられた。

 

 「そうなんですね!お付き合いされていた男性とお別れして新たな出会いを探しにアプリを始められたんですね!あの、、その元交際相手の男性の方とは、何が原因でお別れになられたのですか?あ、もし気分を害してしまいましたらすみません。差支えのない範囲でお伺いできたらと……。」

 

 彼女は視線を右下に逸らした――。まずいことを聞いてしまったのか?確かにもし辛い別れ方をしていたら、初対面の相手に根ほり葉ほり聞かれるのは嫌な気持ちになるに決まってるよな……。

 

 「す、すみません、大変失礼なこ……」

 

 「いえ……。お別れした原因は、極めて個人的な事情によるものでして、完全なる私のエゴのためです。今でも、元彼には申し訳なく思っております……。」

 

 「そうなんですね……。初対面にもかかわらず、野暮なことをお伺いしてしまいすみません……。」

 

 「いえいえ。全然大丈夫ですよ。Satoshiさんは何がきっかけで『マッチーズ』を始められたんですか?」

 

 「自分も同じく出会いが全然無くて、それで日々自宅と職場の往復だけで一向に僕に彼女ができる気配がないことを職場の先輩が心配してくれて、『マッチーズ』のことを教えてくれたんです。」

 

 「そうなのですね。後輩思いの素敵なご先輩ですね。でも、Satoshiさんはおモテになりそうなのに意外でした。これまではどういった女性とお付き合いされてこられたのですか?」

 

 開口一番の「いえいえ、全然……!」という言葉の後に続くべき回答には窮した。

 

 「そうですね、まぁ高校時代のクラスメイトや大学時代に知り合った友達とかとですかね……。」ーー否、全くの嘘である。青年はこの虚栄心に罪悪感を覚えながらも、これが最も相応しい答えだと自分に言い聞かせた。

 

 「色々な方とお付き合いされてこられたのですね。それでも過去は過去ですから、お互いこれからさらに良いご縁に恵まれるよう『マッチーズ』を頑張っていきたいですね。」

 

 振られた……のか……?青年は彼女の言葉の一言一句に対して含意を見出そうと躍起になっていた。しかし、次第に青年の頭は想像事で一杯となり、今にもオーバーヒートしそうであったため、遂には考えることをやめた。気づいた頃には青年は言葉を発していた。

 

 「あの、Sachiさん、もしよろしければですが、RINEライン交換していただけませんでしょうか……?」

 

 「はい、是非連絡先交換させてください。後、Satoshiさんがもしよろしければ、次またお会いするお日にちを決めませんか?」

 

 青年は混乱した――。と同時に、心の底から強烈な何かが沸き上がってくることを感じた。

 

 その後のことはよく覚えていない。ただ、今、彼女の連絡先が青年のRINEに登録されているという点と、2回目の彼女と会う約束を取り付けたという点についてだけは、疑いようのない事実であることを彼のスマートフォンが証明していた。

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