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カフか

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 都心の駅のトイレは、街同様治安が良くない。

 個室に入れば、空の缶コーヒーやスタバのプラスティック容器が平気で置いてある。

これが無料の生理用品なら、どれだけ佳いものかと藤子(とうこ)は、いつも考える。

 容器に少しだけ残った飲料は、アンモニア臭を含んだ空間で、排泄物と化している気がした。

人の内面をしまい込んだような場所、普段なら我慢してでも家のトイレを使う。

しかしそれでも、むしろこの空間が現在の藤子には好都合だった。


 数時間前、大学の講義を受けていた藤子は、不安な気持ちでいっぱいだった。

前日の夜中から、原因不明の吐き気に襲われ、講義に関しては文字を見るのが精一杯で、意味が全く頭に入ってこなかった。

 前の席では、自分のセンスに自惚れているであろう、所謂下北系ファッションの男子学生二人が、鼻にかかったにやけ声で、大学内のトピックに夢中になっていた。

普段ならただの雑音だが、今日は言葉として藤子の耳に入ってきた。


「井口先輩って知ってる?」「ああ、留年した先輩だろ」「ガキできたらしいよ、しかも俺らの学年の子と」「まじ、相手誰?」「多分、聖奈か結依じゃねって噂らしいよ」「確かにあいつら二人最近大学で見ねえよな」「……でもさぶっちゃけどっちもブスじゃん。よく抱けるよな」「顔なんか隠せばどうにでもなるんだろ」「確かに。どうせなら巨乳がいいよな」


と、学内の爛れた話から好みのグラビアアイドルの話題に、移り変わった。

 

 井口の話は、鼓膜に張り付いて離れなかった。

自分の吐き気に、井口のそれと重なる心当たりがあったからだ。

 

 大学が終わると藤子は、電車に乗って三駅先の渋谷で降り、改札を出て、ドラッグストアに向かった。

定期内なのでもしかしたら、大学の人に見つかるかもしれないと思ったが、不安なときほど都塵に、まみれていたかった。

 初めて買う検査薬は、絆創膏やマスクが並んでいる棚の隅の方で、薄く埃をかぶっていた。

普通は、生理用品とか女性が見るコーナーにまとめてあるものだと思っていたので、十分ほど焦燥感に駆られながら、藤子は物を探し回った。

無事購入し、検査薬が入った紙袋を握りしめ、若者の群れに紛れ、再び駅の改札を通った。

 

 そして今、ゴミ箱の様なトイレの個室で、ショーツを下げ、検査薬のパッケージを見ていた。

 清掃員にバレないように、流水音ボタンを、ボリュームマックスにして押す。

 パッケージの説明によると、細長い検査キットにはピンクのキャップが付いており、それを外して、シートの部分に尿をかけると、三分後に結果が出る、とのことだった。

 男のように、狙いを定めて排尿したことなどはないので、ちゃんとシートに当たるか自分の股を覗き込みながら、検査キットをセットした。

いざシートにそれを染み込ませているのを見ると、藤子は僅かに、羞恥心を感じた。

ピンクのキャップを付け、水平な場所を探し、右手にあるトイレットペーパーホルダーの上に置いた。

 ここから三分、流水音の中じっとしているのは、不安で耐えられそうになかったので、イヤホンをつけ、中村佳穂の『KAPO』を聞きながら、結果まで待つことにした。


 先月の今日、誕生日を迎えた藤子は、二十歳。

つまり、成人していた。

 これで検査キットの丸窓に、一本線がでたら大人の私へ責任という槍が、躊躇なく突き刺さるだろう。

考えては、藤子の脳みそを、赤い槍が、小突いて揺らす。


 講義のときに感じた心当たりは、最近マッチングアプリで、知り合った、横谷という男だった。

 横谷は二十七歳でいて、フリーのシステムエンジニアを、やっている男だった。

 食事をしているときは、真面目で堅そうな男なのに、ホテルに入ると、性欲で頭の中が埋まり、見境のないところがある、そんな人間だった。

 目を閉じても、手相占いができそうなくらいくっきり皺のきざまれた、乾いた手で、藤子の頭を撫で、二つの胸を包み、乳房を僅かに摘む。

ゆっくりと下準備をすると、横谷はようやくシャツを脱ぎ、ベルトを外す。

脱いだ衣服を、全部ベッドの下に落とすと、金属やら、布の擦れた音が響いて、藤子もさらに艷やかな気持ちになる。

 横谷は、藤子の胸を押しつぶすように覆いかぶさりながら、パネル横のゴムを取り、嚙んでパッケージを、破り開ける。

性教育ビデオの、手本のように着けられたゴムを見ると、経験値の差を感じる。

 そして、挿入してからは、いつもの様に時間が来るまで、汗だくでお互いに抱き合った。

 水分補給とお手洗い以外は、時間がもったいないと横谷のポリシーなのか、肌に隙間ができることは、少なかった。

 横谷はたまに、紙袋を持ってきて、買ってきたアダルトグッズを、藤子に試したりすることもあった。

それくらい性に関して、奔放であり、見境がないのだ。

 その彼は先日、胸に出したいから生でいれさせてほしい、と裸で天井を仰いでいる藤子に言った。

体の中の線が緩んでいる状態で、回数を重ねたセフレに、しかも少し好意のある相手に、そんな要求をされたら。気づいたときには、

「いいよ」

と口から漏れていて、藤子の溢れた想いを、しまい隠すように、横谷はストローが通りそうなくらいの穴に、自分のものを、捩じ込んだ。

 初めてゴムをしないでした気持ちは、直にものを、擦り付けられている感覚が、ひっきりなしにやってきて、不安な気持ちと、性によるドーパミンで、正常な判断が、できなくなっていた。

 

 嬌声と吐息、色んな音が、密室でくぐもりながらも、横谷は寸前のところで、ものを乱暴に抜き、藤子の胸へ、水溶き片栗粉の様な液体を出した。

 

 外に出したから、問題はないと思っていた。

ホテルからの帰りの電車で、スマホをぼんやり眺めていると、何気なく目に止まった記事に、藤子は、心臓を握りつぶされたような感覚に陥った。

 記事には『先走り汁には性病のリスクだけではなく、思わぬ妊娠をしてしまう可能性がある』と、記載されていた。


 中村佳穂の、淡々としたメロディーは、湿気のない代々木公園を、想像させる。

 私は今、別の大学に通ってる友達二人に、声をかけて、レジャーシートと、人生ゲームを持って芝生の匂いを吸い込みはしゃぐ、そんな想像をしていた。

そこに行きたいのだと、強く、現実逃避した。

 その間にも、藤子の心拍数は、上がっていく。

 幸いこの間、トイレは混み合ってる様子もなく、清掃員の忙しない仕事の様子だけが、ドア越しに、伝わってくる。

 歌詞が上へ滑るように表示される画面を、見る。


 あと一分。


 恋人でもない異性とすることが、人生を振り回す出来事になるなんて、覚めた頭で考えれば、絶対取らない選択肢だと、わかるはずなのに。

 悔いても残り、二十秒。

 モスグリーンの壁一面を見つめ、後悔と、焦燥感で出た涙を、足下の剥がれたタイルの中に、落とした。

 すると、イヤホンから激しいドラムの音が、聞こえてきた。

 三分経ったのだ。

 目を閉じて、深く、深く、呼吸をし、手探りで、右手にある検査キットを、やっと掴む。

息を吐ききると、藤子はそっと、目を開けて丸窓を見た。

終了を示す赤線の隣の丸窓は、一点の曇りもない白だった。

「よかった……」

 安堵から出た言葉はまるで、吹雪蔓る冬の軽井沢に、裸で、一人放り出された状況が一変して、月冴ゆる中発した様に震え、沈静していた。


 しばらく便座に座り、放心していた藤子は、やっと、検査キットを紙袋にしまい、ショーツを上げた。

 紙袋は、トートバッグの中に入れ、アンモニア臭のする空気を、鼻で一つ吸い込み、平然とした顔で、ノブを引き個室から出た。

手を洗おうと、出口側に行くと、さっきまで忙しなく動いていた清掃員が、前髪やら目の皺やら、気にしながら、鏡に、べったりとしていた。

 ようやく出てきた藤子を、目の端で捉えるなり、鏡と向かい合わせの時には、持ち上がっていた顔の筋肉を下げ、口はへの字に曲げて、掃除用具を持って、仕事の続きへ戻っていった。

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