ボタンアタック99

鳥尾巻

先輩、ごめんなさい

 薄暗い部屋の中に自分の荒い呼吸が響く。ベッドの上で背中を丸めて座った僕の目の前には大量のボタン。色とりどりの透き通った小さなプラスチック片がシーツに散らばり、まるで悪い夢のように僕の興奮を煽り立てた。数分後、すっきりした半身とは真逆の罪悪感が僕に襲い掛かる。


「最低だ……」


 幾分醒めた思考に戻った僕はポツリと呟いた。本当に僕は最低だ。このままではボタンに欲情する変態になってしまう……。


 それもこれも遠山先輩が魅力的過ぎるのがいけない。いや、人のせいにするのは良くない。

 新入社員の僕は、遠山とおやま萌々子ももこ先輩に初めて会った時から彼女に目が釘付けだった。正確には彼女の桃のような、いや、メロンのような、いや、小玉のスイカくらいはある大きな胸に、だ。女性の胸をジロジロ見るなんていけないことだ。でも水色のブラウスを押し返す大迫力の魅惑の小高い山から目が離せなかった。

 入社して配属先の部署に挨拶に行った時、僕の教育係になった先輩は、優しく微笑みかけてくれた。


「あなたの教育係の遠山萌々子です。よろしくね」

 

 セミロングの髪をゆるく巻いて、少し垂れた目尻と、目元と唇の横にある黒子が色っぽい。「あなたの」という言葉に特別な意味はないのに、すっかり舞い上がった僕は慌てて自分の名前を噛んでしまった。


「あ、あ、青木けっけっ、あの、圭太けいた、です」

「ふふふ、そんなに緊張しないで。よろしくお願いします……、あっ」


 僕に向かって頭を下げた先輩が声を上げた途端、額に小さな衝撃を感じた。身を屈めた拍子に元々はち切れそうな胸元のボタンが弾け飛び、僕の額を直撃したのだ。しかしそんなことはどうでもいい。開いたブラウスから覗いた艶のある谷間と白いレースの下着が一瞬で目に焼き付いて、僕はあんぐり口を開けたまま固まった。


「ごめんなさい、大丈夫? ボタンすぐ飛んじゃうのよ。みっともないわね。あれ? ボタンどこ行ったのかな」


 前を抑えながら屈んでボタンを探す先輩に倣い、慌ててしゃがんだ僕は手伝うふりをして先輩を盗み見る。色んな意味で大変そうだなと思ったけど、こんな綺麗な人が教育係になったことは幸運なのかもしれないとすぐに思い直した。

 ボタンは結局見つからず、先輩はロッカーに置いておいた予備のブラウスを着て過ごしたようだ。

 昼に研修から戻った僕がふと足もとに目をやると、そこには水色の小さなボタンが落ちていた。さっき先輩が着ていたブラウスと同じ色だ。僕は後で返そうと思いながら、それをポケットに入れ、そのまま忘れてしまった。


 先輩の席は僕の隣だ。「何かあったら質問してね」と言ってくれる。彼女が身動きするたび、とても良い匂いがして毎日そわそわしてしまう。しかし、質問すると身を乗り出して僕を覗き込むタイミングで高確率にこめかみをボタンに直撃される。

 これはわざとだろうか、天然だろうか。オフィスカジュアルにしても、カットソーとかなんかあるだろ。なんでボタンのある服ばかりなの? おっぱいボタン爆撃機なの? そもそもブラウスのサイズ合ってないんじゃないの?

 落としたボタンを一緒に探すたびに、僕の懊悩は深まっていく。大抵は僕の机の下に落ちているボタンを拾っておくが、着替えに行っている先輩に返すタイミングを逃してしまい、ポケットの中に仕舞いこむのが日常となった。

 先輩はあまり細かいことに拘らない性質なのか、ボタンが見つからなくても気にした様子はない。どんどん溜まっていくボタンコレクションをいつ返そうか悶々とする僕に気付く様子もない。

 まとめて返したら気持ち悪いと思われないだろうか。「ボタン溜めて何してたの? きも」。蔑んだ目で見つめられながらそう言われることを想像して、背徳感に背中がぞくぞくする。

 先輩=おっぱい=ボタンの図式が出来上がり、その他にも妄想が膨らみ過ぎて、並べたボタンを見るだけで興奮するようになってしまった。やばいやばい、性癖がねじ曲がっていく。僕は腹の底が焦げるような危機感を覚えながらも、それをやめることが出来ずにいた。

 今日で溜まったボタンは99個。違うんだ、先輩の事は心から尊敬している。でも女性としても好ましく思っていることも確かだ。このままではいけない。本当に変態になる。ここは潔くすべてのボタンを返上して、先輩に懺悔しよう。僕は強い決意を固め、ジッパー付きの小さなビニル袋に全てのボタンを入れた。


 次の日、昼休みにまだ席にいた先輩に声を掛けた。その日の先輩はボタンの三つついた薄ピンク色のカットソーを着て、膝丈の白いスカートを穿いていた。


「せ、せんぱい! 少しお時間よろしいでしょうか!」


 あまりに緊張していたせいで声が裏返ってしまったが、幸い周りには誰もおらず、話の内容を聞かれることはなさそうだ。僕はポケットに忍ばせた袋を握り締め、先輩の隣に立つ。


「どうしたの? 青木君。何か質問でも?」


 先輩は不思議そうに首を傾げ、僕を見上げた。僕の立ち位置だと、細い首筋から艶のある髪が胸元に流れ落ちて、見事に膨らんだ二つの山に掛っているのが見える。いや、駄目だ。今はおっぱいのことは忘れろ。


「先輩、すみません! ボタン見つけたのに返しそびれてました!」

「……」


 差し出したビニル袋の中身を見て、先輩が沈黙する。何を考えているんだろう。引いたかな。永遠にも等しいその時間に、冷や汗が流れる。


「ちょ、やだ、なにそのボタン」

「すいませんでしたあああ!」

「あははははは」


 青くなった僕だったが、先輩はいきなり笑い出した。お腹を抱え、苦しそうに笑い転げている。そしてあまりに笑い過ぎたので、胸元の三つのボタンが弾け飛び、その一つは真っ直ぐに僕の額を直撃した。これ何度目? 僕は額を擦りながら、落ちたボタンを拾って先輩に渡す。とりあえず怒ってはいないみたいだけど、目のやり場に困る。


「ごめんね、そんなに飛ばしてたんだ。拾ってくれてありがとう青木君」

「いえ……」

「青木君に迷惑かけちゃったし、私も少し服装考えなくちゃね」


 そう言った先輩だったが、次の日会社に着てきたのは、大きなおっぱいがより強調される白いニットのカットソーだった。

 これ、ボタンより性質悪くない?


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