第4話 怒りの記憶(※三人称)

 。そう思ったのは、あの事件があった時だった。妖狐が人間の世界に攻め入った時、それが都のすべてを焼いた時。その悲劇が、地方の町にも届いた時だった。


 彼女は妖の作る地獄絵図、町の建物が焼かれ、人々の体が裂かれ、その飼い犬が踏み潰される光景に恐怖を、泣き叫ぶ程の恐怖を憶えた。ここに居たら、殺される。そんな風に思った。「両親と一生に早く逃げよう」と。彼女は母親の手を掴んで、家の父にも「逃げましょう!」と叫んだ。「ここに居たら、あぶのう御座います!」

 

 彼女の父は、それを無視した。郡司の護衛役を担っていた関係で、娘の言葉に「そうか」とうなずけなかったのである。彼は自分の妻に娘を任せると、自分の娘が追いかけている事も気づかないで(母の制止を振りきったらしい)、郡司のところに駆けつけた。「郡司様、ご無事ですか!」

 

 そう叫んでいる間に襲ってくる影。影は彼の背後を狙って、右手の爪を振り上げた。彼は「それ」にきづいて、相手の剣を捌いた。自分の後ろに郡司が立っている以上、この爪を通すわけには行かない。自分の命に代えても、郡司の命を守らなければならなかった。彼は相手の爪を防いでいる中で、後ろの郡司に「早くお逃げを!」と叫んだ。「ここは、私が防ぎます故」


 郡司は、それに従った。妖の力に怯えていた事もあって、それを聞く事しか考えられなかったからである。郡司は彼に自分の背中を託し、残りの護衛役と連れ立って、今の場所から逃げようとしたが……。敵にその逃げ道を防がれてしまった。


 目の前の敵に怯える、郡司。それに喜ぶ、目の前の妖。両者は互いの動きを窺ったが、護衛役の一人……つまりは少女の父親だが、それが両者の間に挟まれると、一方は「それ」に喜び、もう一方は「それ」に苛立った。「おお、良くやった! これで」

 

 助かるわけがない。護衛役は文字通りの手練れだが、その実力が妖に通じるわけはなかった。郡司の前で妖に切られる、少女の父。彼は「満足」と「無念」の間に立って、自分の娘に「ごめんな」と謝った。「こんなところで」

 

 死ぬ。それは娘にとっても、そして、郡司にとっても悲劇だった。二人は自分の立場こそあれ、彼の死を痛み、叫び、憂えた。「お前がどうして、死ななければならないのだ?」と。二人はそれぞれに母親の、あるいは、護衛役の人間に手を引かれて、今の場所から逃げ去った。「う、ううううっ!」

 

 ああああ! そう、獣のように叫んだ。馬の上に乗った後も、そして、母親の背中にしがみついた時も。悲しみの声を上げつづけたのである。二人は故郷の町から出た後も、暗い顔で彼の死を思いつづけた。「父上、父上」

 

 少女はそう、泣きつづけた。母親からは「泣くな」と叱られても、その涙を抑える事ができない。父の四十九日が終わっても、頭の中で「父」を考えつづけた。彼女は新しい家の中から刀を持ち出すと、母親の制止を振りきって、郡司のところに向かった。女子ながらも剣の稽古を受けていた事が、その復讐心に火を点けたらしい。


 彼女は兵士達の腕を潜りぬけて、郡司の前に進み出た。彼女の登場に驚いている、郡司の前に。「郡司様! わたくしに妖狐討伐の任をお与え下さい! わたくしは、剣を使えます。亡父より受け継いだ剣が!」

 

 郡司は、その続きを遮った。お前の気持ちは、痛い程に分かる。そう言いたげな顔で。郡司は少女の前に歩み寄ると、悲しげな顔で彼女の頭を撫でた。「お前の気持ちも分かる。だが、それはダメだ。父が与えた命をそんな風に使ってはいけない。お前は、家の未来を担っているのだから」


 少女は、その言葉に苛立った。父に助けられたのは、彼も同じ。それに代わって、命を繋いでいるだけである。自分だけの力で、今の椅子に座っているのではない。少女はそんな事を思って、郡司の顔を睨んだ。郡司の顔は、その眼光に謝っている。「卑怯者!」


 そしてまた、「卑怯者!」と怒鳴った。彼女は身分の礼節を忘れ、兵士達の制止も振りきって、目の前の郡司に「父のお陰で、助かったくせに!」と叫んだ。「お前は、文字通りの卑怯者だ」


 郡司は陰鬱な顔で、その怒声を聞いた。普通なら彼女の無礼を怒る彼だが、今の彼に彼女を叱る権利はない。彼女がどんなに怒っても、それをじっと受けとめていた。彼は周りの兵士達に目配せして、「それぞれの武器を降ろすように」と命じた。「菫」


 少女の名は、「すみれ」と言うらしい。「これは、お願いだ。私の命に代えて、その命を重んじて欲しい。お前には、お前の命がある」


 菫は、それを無視した。郡司の言葉は、どこまでも理想論。安全な場所から安全な事を言う、ただの戯れ言でしかない。父の力で得た、ただの屁理屈でしかなかった。菫は郡司の方に背を向けて、屋敷の中から出て行った。


 屋敷の外は、曇っていた。朝の時点で曇っていたが、それ以上に曇っていた。菫は雲の重圧を感じる中で、自分の家に帰り、家の母に「ただいま」と言い、自分の刀を持って、その刀身に「私がやる」と言った。「父の敵を、妖狐の首を取ってやる。みんな命を狂わせた、あの妖狐の首を」

 

 この私が取ってやるんだ。彼女はそう自分に言って、妖狐討伐の準備をはじめた。そうする事で、自分の気持ちを落ち着けるように。彼女は真剣な顔で討伐の準備を続け、それがすっかり整うと、家のみんなが寝静まった夜を狙って、討伐の旅に出掛けた。

 

 だが、世の中はそんなに甘くない。旅の準備は完璧でも、肝心の旅が駄目だった。旅の途中で出会った盗賊達には荷物を奪われるし、親切を装った村人達には「馬鹿だろう」と笑われるし、たまたま入った宿には「身売りかい?」と笑われるし。今の仲間達と出会う前には、地方の武士達から「止めておけ。お前じゃ、妖狐に勝てないよ」と笑われた。「少しかじったくらいで。お前みたいな奴は、すぐに犬死にだ」

 

 菫は怒った顔で、その言葉に泣き崩れた。勇気を出して、あの町から飛び出したのに。待っていたのは、辛い現実と弱い自分だけだった。彼女は自分の非力を嘆いて、最初は「それでも、頑張る」と思ったが、やがて段々と、でも確実に「自分じゃ駄目だ。自分は、何もできない」と思いはじめた。「自分では、妖狐に勝てない」と。夜の風に涙を流す中で、そう本能的に感じたのである。


 自分の腕では、旅を続けられない。どこかの強者、野武士の連中に殺されるのがオチだ。旅の途中で得た知恵や知識を使っても、集団相手には決して敵わない。ましてや、自分の家に帰る事も。郡司の命を破った自分は、誰がどう見ても重罪人だった。


 重罪人に帰る家は、無い。そこで待っている、自分の家族も。彼女は自分の信念、妖狐討伐の夢を忘れて、野武士の一人に身を落とした。「もう、どうでも良い。国の事も、未来の事も。私は、私の事だけを」

 

 考える。そう言って、自由に生きた。自分と同じような仲間と出会って、彼女達と一緒に暴れた。奪える物を奪い、壊せる物を壊した。彼女は、自分の欲望に従いつづけた。だが、そんな時に……。


 彼女は自分の剣を抱いて、風流人の顔を思い浮かべた。あの忌まわしい、将軍の顔を。自分には真っ直ぐすぎる、顔を。夜風の中にふと、思い出したのである。彼女は今の時間に意識を戻して、正面の景色に向きなおった。「知らないくせに」

 

 私は今まで、どんな目に遭ったか? 貴方には、一つも分からないくせに。朝廷の将軍職に就けたのも、(彼にも彼の経緯があるのだろうが)卑怯な手を使ったに違いない。そうでなければ、自分と同い年くらいの少年が将軍になれるなんて有り得ない事だった。菫は鞘の中から刀を少しだけ抜いて、その刀身に月光を映した。「切ってやる」

 

 あんな男、この刀で切ってやる。もう二度と立てなくなる程に。体のすべてを切り刻んでやるんだ。アイツの傍に居た陰陽師も、コイツの餌食にしてやる。菫はそう決めて、地面の上から立ち上がった。「おい!」

 

 仲間達は、その声に顔を上げた。今までも怒鳴られた事はあるが、こんな声を聞いた事はない。普段なら「どうしたの?」と聞きかえすところを、今は「どうした?」と驚いてしまった。少女達は互いの顔を見合い、そしてまた、菫の顔に視線を戻した。菫の顔は、「闘志」と「戦意」に燃えている。「何かおかしな事でも?」

 

 菫は、その質問を無視した。頭の中に殺意が渦巻いていた所為で、それに答えるのを忘れていたからである。彼女は真剣な顔で、今の場所から歩き出した。「ごめん、行ってくる。アイツの事、やっぱり許せない。私の誇りを傷つけた……。私は、絶対に勝たなきゃならない」

 

 だから、行かせて? お願い。そう言って、仲間達の方を振りかえった。今の言葉に固まっている、仲間達の方を。彼女は自分の正面に向きなおって、森の中に消えて行った。

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