「全滅への脱出。」~10代から20代に書いた詩

天川裕司

「全滅への脱出。」~10代から20代に書いた詩

「全滅への脱出。」

 今年、一九九九年の、七の月に、人類が、世界が、滅ぶ、という預言が在って、皆、心のどこかで、それを気に止めている。それはきっと、皆がどこかで、それを願っているからであり、その全ての一掃に、甲斐ない努力なる日々のうっぷんを、晴らそうとする衝動があるからである。皆と運命を共にできるのなら、と、一人に生れてきた事への反発の安堵を、得ようとしているからであると、私は思う。もはや、それでしか、現在、人間に生れてきた幸せを謳うのは、無理であるからと、きっと、そのどこかで、誰か、呟いている。例えば、細かなことでいえば、人の健康である。例えば、それでいえば煙草。この地球上の、大半の人が吸っているであろうとされる煙草は、現在、値上がりまでしており、きっと、人に愛されている。しかし、煙草は、現実、徐々に人の健康の寿命を縮まらせる元となり、死にゆく身体にしていっているのを、個人は、見逃すことはできない。きっと、煙草を、始めて吸った頃の元来の健康な身体に戻りたいと思う者も多かろう。その、徐々に、徐々に、健康を失ってゆく、いわば、タイム・リミット地獄からも、その日(最後の日)の存在で以て抜け出せるのだ。煙草を吸っている者全員が、思うことであろう。現実は、現実である。受け止めねばならない。あと、又、一ついえば、放射能などの汚染である。これは、細かなものから、多大に大きなものまであり、結構、その影響は広い。その細かなことをいえば、例えばゲームである。又、パソコンなどのコンピューター、テレビである。特に、テレビなどは皆が見るものであり、誰も、そこを避けられはしないだろう。皆、そのことで、議論せねばならぬのだ。その画面から出てくる、僅かな放射能の粒子で、人は様々な病気に落とされてしまう。(病名は、ここではあげない。)数えきれぬ程の病への可能性から、逃れることのできるのは、やはり、所謂、非・現実のその再臨の日の存在の業である。又、多くの、病に伏せている者達がこの世には居る。その者達が、気を強くして、真意に、仲間意識を持てるきっかけとなるのは、その再臨の日の到来である。と、思う。結局、同じように、皆がこの地から去るのだから、一人として、そこには残るまい。そして、全ての人にたくされている問題として、一つ、未来への努力というものがある。例えば、皆がしている仕事。又、その地へと足を踏み入れてゆく、その前の段階の者達の努力。詰り、生活をしてゆくための、今の生活というものである。金がなくては、皆、生活はしてゆけない。“この国の掟は金である”という、もの言いをどこかで聞いたが、それは、当っているように思う。“ペンは剣よりもつよし”という言葉を、未だ、信じている者は誰も居ないのと同じように、“愛”だけでは生活してゆけぬことを、皆はもう知っているのである。金のためならどんな汚いことでもやる、言った或る若者の姿も、その正直な様がよく分かる。結局、死ぬまで金なのである。ここでは、昨日、今日と、保険金疑惑や、強盗や、相続遺産の奪い合いや、金に関しての事件簿が、頻繁に起きている。それは、その事実を裏付けている揺ぎのない証拠にもなるのではあるまいか。結局、この地とは、そういう地だったのである。そのことを、そこに生きる人は、認め去るを得まい。だから、結局、金を奪った者は、可哀想である。

 この世に残されている聖書には、“盗んではいけない”という下りが、ちゃんとあるのだから。あの、ノストラダムスの大預言も、聖書からとった言葉達であると、聞いたことがある。私が知っている聖書の“黙示録”にも、この世の終りをかいており、“七つ”という数字が、よく目についた。この世は、七の月に終るという。何か、そこにも関連があるのではないかと、私は密かに思うのだ。まぁ、きりのないことではあるが。そうした、人間の間の問題も、その日を境に、一掃される。まぁ、これは、その前に述べた煙草や、放射能の問題とは程度が異なるが、そうした問題があるのも、ニュースで知られる殺人の事や、私的制裁の事など、弱肉強食の事などを思うと、納得しなければならないだろう。あと、環境問題もその中に含まれる。大気汚染、水質汚染、土壌汚染、汚染、汚染、汚染、ばかりの連続であり、そこで逆にきれいになったものは一つもないのである。ビルディングのきれいさすら、既に、汚染されたむなしさを見ているようなものである。この世は常に、表裏一体であり、良いことの裏にはコインのように、悪いことが面をのぞかせるものである。唯、人は、これも又、煙草の原理(心理)と同じような態で、唯、その時の便利さに走っているだけで、その解決法などは、考えられぬのである。過去最近テレビで、人の暗さを露呈した番組があって、私はそれを見ていたのだが、そのドラマの台詞の一句で、「なぜ、こんな(汚い)世の中になったのか、わかりますか?」といった問いに対しての応えで、「人間(ヒト)が、長く生き過ぎるから、」という返答を用意していたものがあった。私はその時、それが美しい少年が言っていたものであるから、唯、美しいままに死ぬことが良い、といっただけの意味だと捕え、その時の応えとしてはそりを合わさなかったのではあるが、今、これをかいていて、その言葉への新たな応えを見つけた。それは、“長く生きすぎる、”といったその意味が、唯、きれいなまま….、というだけのことではなくて、私が先程述べた、この世の環境問題の説にも含まれるのではないか、と改心させられるものであって、もしかすれば、その私の受けたことは飛躍的なものなのかも知れないが、その言葉が当っているという節を、私は一人で見つけることができたのだ。詰り、その長く生き続ける者達のための家をつくるために、そぎおとされる森林ばっさいの事実から放たれる、空気の汚染というものである。人が増え続ければ、人の住む地の確保によって、土地が不足してゆくのは目に見えているものであり、最近、小子化の事実が流行ってはいるけれども、その可能性をみれば、明らかに、問題は住居不足の方ということになるのである。まぁ、これは、私の唯の妄想ではあるけれども、その意味で一理、あるとは思える。結局、問題であるのだ。又、逆に死という方面から考えてみるのも良いかも知れない。人が、何故、本能で死を恐怖の対象としているのか。

それは、私が思うに、一つ、こうである。それは、現実(この世の中)をしか知ることのできない人間の、意識の届かない余りにも飛躍過ぎた、死後という未知への、個人的である故の、恐怖である。人は死ぬ時、知れされている常識で考えれば、一人である。詰り、孤独である。それに、未知が重なり、おおいかぶさって来るものであるから、尚、そのことに恐怖を覚え、悶く衝動を抑えずには居れないのである。詰り、その知らされる常識の中で、そういう、一人(孤独)、(未知)、という事実が貼り付けられている故に、人は怖がらなくてはならないのであって、その一人、(孤独)、(未知)、という事実が、その知らされる常識の中でくつがえされれば、人は、自ずと、その状態から脱け出せて、又、違った状態にまみえるのではないかと、その脱出を予感するのである。人は常に、常識に縛られている者であり、その常識がつくった規律を守らねば生きてはゆけぬ者である。所謂、常識の傀儡とでも言えば良い。その現実を背負って、人は、生きてゆく。その背負っている常識というのの中に、その先程述べた意が含まれているのである。それは、主流のところに立っている幹であり、それがある限り、その延長に違った明るさはない。とにかく、この現実はそうした現実によって進められているのだ。誰も、うなずかねばならない。そこで、先程までの論題であるが、詰り、その知らされる常識の中で、例えば、再臨の確実さが謳われれば、そのことから、人は孤独ではなくなり、一人で苦しむ未知への煩悶などもなくなり、そういった類いの問題から脱出することができるという常識を、そこに生れさせることができるのである。そういった問題ですらも、解決するのだ。皆が、一緒に死ねば、或る意味、人は孤独から解放される。又、一説では、人は誰もが、その全滅で以て安堵を得る思想を持っている、ということを、聞いたことがある。それは、母親からだった。どこかの新聞の記事で読んだのであろうが、確かに、その事実が薄いとは言えまい。否、むしろ、濃いと、私は思う。十人、人が並ばされていて、その中に自分も居て、その内の誰か一人を、何かの罰のために、銃で撃たれて殺されるとすれば、その知識の中で、例え一瞬とは知っていても、恐らく、たじろぐだろう。まさしく、一人なのであるから。それが、世界各国の、人類とが同様に殺される、となれば、生き残るという方が、逆に、一人のように思えて、寂しいという一念を抱くのではないだろうか。実は、再臨(最後の日)の時、人々は、神の印が押されている者が、先ず、天国に上げられ、その残った者達には、暫くの時間(日々)が与えられて、その間に改悛の余地が与えられているのであり、最終的に残った者達が居るその地が、地獄になるのだ、という話を聞いたことがある。これも、又母親からだった。その天国に上げられる、というのが、どういうものか見知らぬものではあるが、その者達の(神の印を押された者の)失踪するのは、知らない間だというから、それをまともに考えれば、ぞっとする事実である。無論、クリスチャンがまともじゃないといわれる現実(こと)も、仕方がないことである、と自覚する。再臨、この世の終り、というものを考える時、一説は、そこを通らねばならないものであると、人の在り様を思う。終ったらどうなるのか。この次はあるのか。輪廻転生というものが、この世では謳われていて、その事実は、人の命の生れ変わりの説を説いているものであり、死後の世界(未知)への安心を生れさせてしまった。本当のところがわからない以上、きっと、幾ら唱えてみても、その安心は得られぬものであると、人は知っている。

それ故に、信仰というものがこの世にある。唯、ひたすら信じぬいて、できるだけ、自分の身をそこへ近づけてゆく努力である。その努力ですら、毎日の疲れにしてしまっている者もいる。とにかく、どこへ行ってもその努力から逃れられぬ人間(ヒト)が思うことは、その努力から逃れきれる突破の扉である。それも、一人でだけではなく、複数同じにであれば、尚の事、良い。良く見知った友人と、或いは、愛し合った男女と、共にその淵をくぐるのであれば、これ程良い死滅は考えられるこの世ではないのではないか。と思う。生きた満足は、その者の死に方によって、全て、一掃されるという。死ぬ時が幸せであれば、その者は、つよい男気の中で在る者であると。そう思って、私は、その世界の一掃を見たいと思う。勿論、その時には、他の誰かはさておき、自分はとりあえず神の下へと上げられるのを願いながら。所謂、表面的な論である。

(一九九九年 七月に、筆)

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「全滅への脱出。」~10代から20代に書いた詩 天川裕司 @tenkawayuji

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