後編

 あき夕暮ゆうぐれかまげ。

 私はこの言葉を好む。

 だが残念なことに、この言葉を知る者はそう多くない。そしてこの言葉の意味を知る者はより少ない。

 私が思うに、秋と鎌はよくお似合いだ。

 秋が収穫の時期であるのは言わずも知れたことであり、鎌を手に取る機会も他の季節と比べて多くなるのではなかろうか。いや、技術が発達した今現在では、たとえ農家であろうと秋に握るのは鎌ではなくハンドルなのだろうか。

 疑問ばかりだ。

 だが今は、そんなくだらない自問自答を繰り返している場合ではない。自問はするも自答はしていないのだが。

 さて、時は夕暮れ。

 アスファルトで覆われた道路を歩む猫と女子高生がいる。

 猫は三色の毛皮を持ち、体中に蓄えた脂肪のような何かを揺らしながらテクテクと短い手足を駆使していた。本人は気付いていないようだが、その膨らんだ毛皮と毛皮の間に一弾のBB弾が挟まれている。

 その隣を歩く女子高生は黒くつややかな髪を風に揺らせ、お菓子やらが詰まったリュックサックを前に背負い、エアガンやらが詰まった縦長の専用ケースを後ろに背負っていた。名を空耳そらみみ狗尾えのころと言う。

 そんな奇妙なコンビは何やら談笑をしているようだ。


「え? ミサトくんとリサちゃん、付き合ってるの?」

「たぶんな。何だおめぇ、知らなかったのか?」

「全然知らなかった……。てかてか、何で猫さんが知ってるわけ? 今日初対面だったよね? 私すら知らなかったのに」

「見れば分かるだろ?」

「分からない分からない。見ても分からない。ちゃんと説明してよ」

「面倒だなぁ……。ほら、リサのヤツ、結構カワイイ格好してたろ?」

「リサちゃんはいつも可愛いよ?」

「そういうことじゃあねーんだよ。服装だ服装。リサ、めちゃくちゃ短いスカート着ていたし、ロングブーツも履いていただろ?」

「うんうん。着ていたし履いてたね。脱がしてやろうかと思った」

「…………」

「ごめんなさい」

「ありゃあ、彼氏のために張り切ったとしか思えねーな。あんな短いスカート、こんな田舎で着る女は滅多にいねぇ。ヤンキーだと噂されちまうからな。ロングブーツだって、大人っぽく見せたかったんだろうしよ」


 この猫、かなり失礼なことを言っている。

 独身かリア充か、田舎か都会か関係なく、めちゃくちゃ短いスカートを着る人は着る。確かにリサのスカートはめちゃくちゃ短かったものの……。ちなみにミサトは、そんなスカートにもロングブーツにも一切気付いていない。リサの努力は残念ながら、ヤンキーだと噂される以外の成果は残さなかったのである。


「えーでも、お互い敬語だったよ? 付き合ってるのに敬語で話す? 普通」

「それはお前がいるからだろ」

「え? 私?」

「お前にはバレたくないんだと思うぜ? 付き合ってること。だからお互いに敬語で話すことにしたんだろうよ、人前ではな。あの二人の敬語、なんか違和感あったしな」

「……なんで隠してるの?」

「それは俺にも分からねぇな。からかわれるのが嫌なのか、家庭の事情なのか」

「家庭の事情?」

「リサ、金持ちの家みたいだし」

「確かに、リサは有名な財閥のお嬢様だけど……。え? 私、そんなこと言ったっけ?」

「言ってねーよ、お前はな」

「私は? どういうこと?」

「リサのヤツ、アメリカでビッグバン撃ったことあるって自慢してたろ?」

「言ってたね」

「ビッグバンはな、隕石から作られた超高級二丁拳銃なんだ」

「ほへぇー」

「二十五万ドル、つまり約三千万円」

「ほへぇー!?」


 俺が人間だった頃はまだ発売されてなかったし、それに製造元はオークションに出すって言っていたから一億円は余裕で超えるだろーなぁ。おそらくだが、リサはオークションに出される前に試射という形で撃たせてもらえたんじゃあねぇか? 投資をだっぷりとしたうえでな。いーなー。ってかあの破壊的にヘタクソなリサが撃ったらとんでもねーことにならねぇか?

 と、猫は思っていることだろう。

 正解である。

 ほぼほぼ正解である。

 オークションに出された際は百万ドルを余裕で超え、四百五十万ドル、すなわち約五億千八百万円で落札される。

 そのオークションでゲストとして呼ばれたリサが(呼ばれた理由:投資)試し撃ちを行った。

 そして半壊した。

 二丁のうち片方のビッグバンが半壊した。

 マズル、フロントサイト、ダストカバー、バレル等の前部が弾け――グリップ、マガジン、マガジンリリースボタン、トリガー、ハンマー、リアサイト等の後部が残された。

 とんでもねーことになった。

 とんでもねーことしやがった。

 だが……どうやら、ビッグバン半壊のすべての責任をリサに押し付けるわけにもいかないらしい。

 本来、弾を装填せずに空撃ちする予定であったのだが――

 今もなお――リサの左手には火傷の跡が残っている。

 ただのヒューマンエラーなのか、悪意によるものなのか。それは不明である。

 ま、実のところ、リサはその日のうちに真相を突き止めているのだが……それはまた別の話なのでここでは語らないものとする。いつかリサに語ってもらうとよいだろう。


「そっかぁー、バレたらまずいのかぁー。富裕層は大変なんだねー」

「だからお前、からかったりするんじゃあねぇぞ」

「しないよそんなこと」

「……するなよ?」

「しないしない」

「…………言いふらしたりするなよ?」

「しないってば」


 これは嘘である。

 言いふらさないのではなく、言いふらす相手がいないのだ。

 狗尾は友達が少ない。

 狗尾はクラスで浮いている。

 読者の皆さんはすでにお気づきだろう。伏線は足りている。

 夏祭りの日に友達を誘わずに誘われずに一人で歩き、文化祭の日にクラスの出し物に参加せず参加できず、帰り道も一人で歩く。

 伏線は足りている。

 冬の日に誰もが無視する捨て猫に話しかけ、夏の日に誰もが野次馬となり盛り上がっているところで一人膝を抱え、秋の日にクラスが一致団結しているのに空気も読まずに一人抜ける――そんな性格だ。浮くのも当然であろう。

 伏線は足りている――嫌になる程に。

 その事実に猫は気付いている。

 否、この猫は……気付いていない、のか?

 そうだそうだ。この猫が気付くはずがない。

 この猫も以前は似たような人生を送ったのだ。しかも「自分は浮いている」ということにすら気付かないまま死んだのだ。そもそもこの猫に「浮いている」という概念があるのかすら不安だ。自分が浮いていることを知らずに他人が浮いていることを知る術はない。

 つまり、つまりだ。

 この猫は、同情や憐みで狗尾といるのではなく――


「ううぇーっへへっへへぇ! ううぇっううぇっ、うぇーっはっははっははははははははははははははははははははははははっはへいええへへへっへへへっへえへへへへへへ!!」


 笑い声が響いた。

 かなり変態的な笑い声がとどろいた。

 いつの間にか猫と女子高生は目的地である狗尾家に着いたのだが、着いた途端に、酔っぱらったおっさんのような声が轟いたのだ。いったい何事かと辺りを見渡し耳をすませるが……うん、これやっぱ狗尾家から聞こえるわ。間違いなく狗尾家から聞こえる。

 いったい誰だろうか。

 こんな酔っぱらったように大声で笑えば間違いなく近所迷惑である。ここは田舎ではあるものの、何故か家々がぎゅうぎゅうに密集しているのだ。何故だ。何故に広い土地を生かさない。


「…………まさか、な」

「…………まさか、ね」


 お互いに心当たりがあるらしい猫と狗尾は、年中鍵を掛けられることのない玄関を開け、慎重に足を踏み入れた。

 玄関には狗尾のものではない靴が乱雑に転がっていた。もちろん、猫のものでもない。

 廊下の照明はつけられておらず、リビングの扉から青い光が漏れてくる。笑い声も派手に漏れてくる。

 散らかった靴を見て確信を得た狗尾は、胸の底から喜びが湧き出る感覚を覚えた。一刻も早く会いたくて会いたくて、走り出すように一歩踏み出す。

 一歩、踏み出す。


「…………」


 一歩踏み出し、胸いっぱいの光の中に一滴の黒が落ちた。なんとなく不安だ。

 二歩歩き、光の奥深くに沈んだ黒が舞い上がる。このまま再会を果たして良いのだろうか。

 三歩運び、黒が腹に収めんとばかりに光を包む。今の私で会ったら悲しむのではないか。

 四歩引きずり、黒と光が混ざり合い底へ蓄積する。失望されるかもしれない。

 ドアノブを握ったところで――歩みは止まった。

 ドアの向こう側から、光と、笑い声が伝わってくる。

 バラエティー番組でも見ているのか、お笑い芸人の声が騒がしい。

 

「…………………、……。………………………………」


 そんなのは嫌だ、怖い。

 不安で不安で不安だ。

 喜ばしいはずなのに、喜ぶべきなのに。胸の内に満たされた色は、静かに積り、溢れ出そうとしている。嬉しい、不安だ、嬉しい、不安だ。ごちゃっとした、複雑な心境。ごちゃっと、ごちゃごちゃと、混ざっては積もり混ざっては積もる。

 お父さんが死んだ二年前から今まで帰って来なかったくせに、ほったらかしたくせに、なんで今になって、何の連絡もなく突然帰って来たの――と、あらゆる感情が怒りへと集束し始める。

 歓喜と不安と不満が溢れ出ようとした――その時、


「さっさと開けな、狗尾」


 一匹の猫が、ちょこんと、肩に乗ってきた。


「おめぇは何だ、あれか? 開閉恐怖症か? そんなもん無理やりこじ開けりゃあいいんだよ! さっさと開けてさっさと進みやがれ」


 ちょこんと、というよりはドスンと乗ってきたせいで、バランスを崩しそうになる。

 だが、持ち直すにはちょうど良い衝撃であった。

 左肩は極端に重くなったものの、胸の奥はすっと軽くなるのがわかる。


「急かさないでよー、今から開けるからさ」


 狗尾は右手に力を込め、ドアを開けた。

 リビングの照明もまた廊下同様に消されたままで、テレビの青い光が唯一の光源となっていた。だが人物を見分けるには、それで随分である。その人物が自身の親であるならば――なおさら。

 さて、そこいたのは。


「うぇーへっへっへへへへへっうぇっははハ――よお、狗尾。待ちくたびれたぜ」


 狗尾の母。

 生みの親にして育ての親、空耳 彼尾花かれおばなである。

 実に豊富な体型に、実にあでやかな黒髪。乱れた黒スーツ。振り返った姿が、テレビによって生じる逆光によって危険な色気を放っている。そしてまた、酒瓶に囲まれ床に座ったその様が、不思議なほどによく似合う。

 分かりやすく言うと……働く女のかっこよさ。

 伝わるように言うと……かっこいい。


「随分と遅かったじゃあないか。このアタイを待たせるとはいい度胸――おん?」


 狗尾は彼尾花へと、一歩ずつゆっくりと、だが着実に近づいていく。

 彼尾花は、娘の、ただならぬ雰囲気に気付いた。

 気付いたものの、別にどうしようとは思わない。

 酒が回ってきたのだ。

 彼尾花はお酒に強いほうである。しかし、娘が帰って来る三時間前から日本酒と缶ビールのオンパレードを満喫していたのだ。酔わないほうがどうかしている。

 おー、反抗期か。

 その程度にしか思わない。

 ま、いきなり帰ってきたらこうなるわな。罵声を浴びせたくなるのも無理はないし、殴られようと蹴られようとアタイは何の文句も言えねーな。

 その程度にしか考えられない。

 いや、ここは母親としての威厳を保つためにも言い返したほうがいいのか。うんうん。そうだな、そうしよう。

 挙句の果てにはそこに至る。

 勝手に見透かす私が悪いのだが、なんというか、その……幻滅したと言わざるを得ない。……いや、よくよく考えたら『言われたら言い返す』というのは至極当然である。

 至極当然な思考に失望する私。

 私は、いったい、何を期待していたのだろうか。

 この大人に、何を期待しているのだろうか。


「あ? んだよ、狗尾。アタイに文句あんのか……うおおおおっと!?」


 ある程度、近づいたその時。

 手を出せば確実に当たるまで近づいたその時、その時であった。

 狗尾が飛んだ。

 突如として跳んだ。

 娘は母親の胸へと跳び込んだ。

 予想外すぎた展開に対処できず、彼尾花はそのまま仰向けに倒れる。倒されるがまま、抱かれるがまま。クマのぬいぐるみのように。そのまま馬乗りにでもされて殴られるのだと思った彼尾花は身構えるが、そのような気配はない。抱き着かれるだけ。狗尾はただ抱き着いたまま動かない。ぎゅっと、抱き着いたまま動かない。酒が回り思うように動けない彼尾花に、もはや抵抗の術はない。

 もしできることがあるとすれば……。


「うおーい!? おいおいおい、どうしたんだよ狗尾。いきなり抱き込んできやがって! お前は何だ、あれか? 思春期によくある……退行? ってやつか!? 話せ、話せば分かる! いやもう話さなくてもいいからとりあえず放せ! 放せったら! 放せっつってんだろおおおおおお!?」


 ぎゃーぎゃーと騒ぐ、それくらいである。

 胸の底で蓄積したあらゆる感情が、猫によってほぐされ、二年ぶりに母を見たことによって一気に溢れ出した――感情と感傷が混ざり合い爆裂した結果が、『母に思いっきり抱き着く』という衝動を引き起こしたのだ。

 その気持ちは分かる。分かるのだが……我慢してほしいものよ。

 うーん、むずがゆい。

 その様子に驚き呆然としていた猫であったが、しばらくすると、はっとして動き出した。

 棚を足場代わりにして壁のスイッチを押し、照明をつける。白い光が部屋を満たす。

 本当にその人物が彼尾花なのか確認したかったのだ。

 猫の目ならば暗闇の中であろうと、問題はない。だがなるべく、人間の視界と同じ世界で確認したかった。彼尾花を最後に見たのは――二十一年前の、人間だった頃なのだから。

 明るくなったところで、猫の視界はモノクロなのだが。

 よかった――お前だ。

 猫はようやく確信した。

 こいつは彼尾花だ――と。

 そう安心したところで、再び混乱する。

 おい待て、何でお前がいるんだ? なぜこの町にいる? どうして――空耳家にいる?

 猫の頭を疑問符が飛び回る。疑問符と疑問符がぶつかり合い、砕け散り、また新たな疑問符を生み出す。今までの伏線と、自分の記憶を繋ぎ合わせる。混乱と困惑の海から大切なヒントを釣り、縫い合わせる。

 考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて、思い出して思い出して思い出して思い出して思い出して思い出して思い出して、合わせて合わせて合わせて合わせて合わせて合わせて合わせて、削って。

 分かった、そういうことか。

 その答えは、至極単純であった。


 答えは――“俺のせい”だ。


 そんな猫の脳内に気付くわけもなく、狗尾は彼尾花の胸に埋めていた顔を起こした。

 そして抱擁したまま問う。


「どうして帰って来たの? 仕事があるんでしょ? 大丈夫なの?」

「お? おう、仕事の事なら心配ないぜ。長期休暇みたいなもんだ」

「そうなんだ、よかった……」

「なにせ、会社が潰れっちまったからな! うぇっへへ!」

「そうなんだ、よかっぶぁああああぁぁあああああああああぁ!?」

「国際宇宙ステーションなんか買っちまうから経営破綻すんだ。アタイはちゃーんと警告したのによ! ぶっは! 酒がうまいぜ!」

「え? ちょっと、えええ……?」

「聞いておくれよー、狗尾。同僚のやつがな、宇宙ステーションを買い取って宇宙ホテルにしようってバカなこと言いだしやがったんだ! 上の連中も乗り気になってな、莫大な予算をつぎ込んだものの、ちっとも足りねぇ。次から次へと請求書が来やがる。その請求書に従った結果が経営破綻! うぇっハー!」

「…………」

「だって国際宇宙ステーションだぜ? いくら六年前に引退したっつっても、そりゃあ予算たりねぇよ! 経理であるアタイの言う事聞いておけば、こんなこと、絶対にならなかったね!」

「…………」

「というわけで、アタイは今“ニート”だ」


 “ニート”という単語の重みを理解している者は極めて少ない。

 狗尾も今知った。

 だから電気を消していたのだろうか、これから家計が苦しくなるのを見越して――と狗尾は思った。だがどうやら、その推測はちょいとずれているようだ。


「おっと、そんなに青ざめる必要はないぜ。狗尾。ぶっはは! お前、青ざめると面白い顔になるのな!」

「……青ざめる必要はないって、どういうこと?」

「机の上、見てみろよ」


 狗尾が机に目を向けると、その上には、大量の手紙やら茶封筒やらが山積みになっていた。

 差出人は……有名な企業から聞いたこともない会社、この国の公企業から外国の行政機関まで様々。


「企業からのお誘いだ。我が社で働いてくれってよ」

「……これ、全部? 百通はあるよ?」

「五百通だ」

「……五百」

「どうやらアタイは――求められているらしい」


 そう言うと、彼尾花は高らかに笑った。

 娘である狗尾は知らなかったようだが、彼尾花は、企業の間では少しばかり有名である。

 通称『赤字殺し』、または『リストラ製造機』。

 説明は……省く。

 その後、狗尾と彼尾花はしばらく雑談をしていたのだが、ふと、彼尾花があることに気付いた。

 猫だ。

 我が家にデブ猫がいる!

 今更ではあるが、彼尾花は凍ったように身動きしない三毛猫に気付いた。明らかにメタボである猫と目が合う。猫はドアの横に置いてある棚の上で微動だにしない。

 何だあれは。何故猫がいる。


「おい、狗尾。猫がいる」

「あー、あの子は猫の猫さん」

「……え? 拾ったの?」

「…………うん。去年の冬に。ねえ、うちで飼って……いい?」

「まぁ、うん、別に飼っていいんだけどもよ。性別どっちだ?」

「オス」

「オスの三毛猫か。珍しいな。……玉取るのいくらだっけ」

「あ、やっぱ取るんだ」

「そりゃあ、もちろん……ん? んん?」


 と、ここで彼尾花が眉をひそめた。

 狗尾を横に退かし、猫へと近づく。そして両手で猫を持ち上げた。猫の胴体は重力によって引っ張られもちのように伸びる。ずっしりと重かった。

 猫の顔をじっと見つめる。

 猫は困惑しているようではあったが、抵抗する様子は見られない。

 無言のまま見つめられ、猫はますます困惑する。

 時計の針の音が聞こえる。

 自分の心拍の音が聞こえる。

 カチ、カチと。

 ドクン、ドクンと。

 やがて――彼尾花はひとちる。


 “お前、何で生きてんだ?”


 その言葉が猫の心を容易くえぐる。

 気付かれた。正体を、見破られた。喉の奥に、何かが詰まる感覚を抱く。あらゆる欲求と思いが外に溢れ出そうだ。それらがこの女によって脆くなった理性の壁を打ち砕こうとする。

 いやだめだ、決して喋ってはならない、肯定してはならない。猫の中の理性に限りなく近い本能がそう叫ぶ。だが、喉の奥で、感情が暴れている。否、もはや怪物かいぶつだ。怪物と化したそれらは自由になろうと暴れまわっている。喋って、すべてを喋って自由になりたい。楽になりたい。喉の奥の怪物はどんどん大きくなる。猫の喉では、それを収めきるには無理がある。とても無理だ。無茶だ!

 ほら、溢れ出す――


「もーう、お母さん。猫に存在意義を問わないでよ」


 溢れ出す直前、狗尾が声を発した。

 猫の葛藤には一切気付いていない、陽気な声だった。

 彼尾花が声に反応し振り向く。

 その瞬間。

 猫は彼尾花の手から暴れて抜け出し、ドアのドアノブへと飛びついた。飛んだ勢いに任せドアノブを回しドアを開け、そのまま暗闇へと消えた。

 リビングには、娘と母のみが残された。



  ■  ■  ■



 暗闇の中、三毛猫が階段を上がっていた。

 モノクロの視界の中、色あせった記憶が横切る。

 明かりの消えた街路灯がいろとう。慌ただしい医者の声。大型トラックのクラクション、ブレーキ音。子を舐める母猫ははねこの舌、母乳を求める子猫こねこの鳴き声。

 二十年と一年前の記憶。

 人間だった頃の記憶と、野良猫だったときの記憶。

 生きるのが嫌だった頃の感情と、生きるのに必死だったときの感情。

 そして罪悪感ざいあくかん

 猫の小さな肩に、重く、伸し掛かる。

 あのままあの場所にいたら、彼女らの前にいたら、この記憶と感情と罪をすべて吐き出してしまうかもしれない。いや、絶対に吐く。確実に吐く。

 それは駄目だ。

 これは、俺が全部、抱える。

 俺が独りで抱える。

 そんな義務的な思考が猫を満たしている。

 昔から、ずっと。

 今も、なお。

 猫は階段を上がりきり、廊下を進む。

 大して長くはない廊下をゆっくりと歩く。散歩しているときよりも、はるかにゆっくり、と。

 狗尾の部屋。のドアの前。

 狗尾の部屋に限っては、ドアノブにしがみつく必要はない。

 狗尾が気を利かせ、いつも半開きにしてくれているのだ。

 その気遣いすら、今はただ重い。

 半開きすることによって生じた隙間から、猫は狗尾の部屋へと、入っていく。

 

 そこには私がいた。


 私と――私のあねと、私のあにがいた。

 前にも言った通り、紹介はしない。

 シニガミを理解するとシニガミになってしまうからだ。

 そういう世界の定理だ。仕方あるまい。

 開かれた窓から部屋へと、満月の光が入り込む。

 背中に浴びる冷たい夜風が心地良い。

 白いカーテンが風によって揺らめき、こすれ合う音がする。

 ムードは良好。

 目の前の猫は、私たちを見て、大変驚いているようだ。

 猫に睨まれたねずみのようにピタリと動かない。

 事前にお知らせしたはずだが。

 私は少しばかり息を整え、小さな猫に言った。


「やっほー! シニガミだよ! 断罪編だんざいへん、始めよっか♪」

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