前略、吾輩は猫である。
隠涙帽子
Prologue ≪プロローグ≫
First End
(前略、
――
――
――どうか、幸せになっておくれ。
――どうか、皆の分まで幸せになっておくれ。
――皆の分まで、幸せになっておくれ。
(Repeat)
(Repeat)
(Repeat)
(I'm sorry. I'm sorry. I'm sorry)
二〇〇九年十一月十日、夏。
ブラジル、サンパウロ州サンパウロ市。
一人の日本人男性が歩いていた。
彼は真っ黒なスーツを着こなしており、一見すると真面目なサラリーマンのように思えるだろう。しかし、伸ばしっぱなしのくねくねとした髪が顔全体を覆っていてホームレスのようにも見える。
別に彼だって、好き好んでこういう髪型をしているわけではない。生まれつきである。
昔は、よくクラスメイトから『わかめの千切り』とからかわれた。
彼は先ほどから携帯電話に意識を向けており、画面を睨んでいる。
なにやらメールをしているようだ。
ホームレスではなかったようで、取引先と仕事の話をしていたのだが、やがて彼はため息をついた。
画面には取引先から送られたメールが表示されている。
メール内容は『また明日お話しましょう』。
取引先でトラブルが発生したようだ。
彼は繰り返しため息をつき、携帯電話から顔を上げる。
そこで、彼は、とある違和感に気付いた。
暗い。
暗すぎる。
いくら深夜の外とはいえ、あまりにも暗すぎる。
視界に入る、すべての高層ビルが照明を消している。
見渡す限りの、すべての信号機が沈黙している。
歩いてみるも、すべての
唯一の光源は、携帯電話と、走り去る車のライトのみ。
まるで、この街全体が、夜に飲み込まれたみたいだ。
どうしてこうなった?
なにが起こっている?
そんな彼のもとへ、一本の電話が。
突然のバイブレーションに驚きながらも、取引先からだと思い、すっと切り替え通話ボタンを押す。しかし、その電話は取引先からではなく――病院からだった。
その病院には、妻が――妻の
「はい、
彼は焦りを隠しながらそう名乗った。
一方、電話越しの医者は焦りを隠しきれていない。
それどころか、電話が繋がったこと自体に驚いているようだった。医者がクライアントの前で焦りを見せてはいけないのは、医者自身がもっとも分かっているはずだが。
「どうかされましたか? 妻の身に、何か?」
医者からの報告を聞き――彼は走り出した。
その際に落とした携帯電話から医者の声が呼び止めるものの、彼には、もはや届かない。
これで、これでやっと、ついに――罪を
彼は一心不乱になって暗闇の中を走った。夜に閉ざされた街を無我夢中で駆け抜けた。役立たずの街路灯、暗い高層マンションを何本も何十本も通り過ぎる。
目的地は――妻のいる病院。
早く、早く会いたい――!
彼は走って走って走った結果、目的地付近へと辿り着くことができた。
車道を挟んだ向かい側に病院が見える。
あとは、この、白と黒の横断歩道を渡れば――。
彼は、一刻も早く、会いたい気持ちで足を運んだ。
しかし彼はこの日、妻に会うことはなかった。
もしもこのときに――横断歩道を渡る前に、左右をきちんと確認していれば……妻に会えたのだろうか。信号機が沈黙しているのを警戒して、もう少し思案していれば――死なずに済んだのだろうか。
大型トラックが焦りの混じった笑みを浮かべる彼に激突する。
大型トラックに殴られた彼の体が宙を舞う。
派手に跳ね飛ばされ、重力に引っ張られ地面に叩きつけられる。人の体には計二百六本の骨があるそうだ。二百六本。何故それほどに必要なのか長年の疑問だったのだが、なるほど、確かに必要だ。206本程度ではまったく足りない。
骨が折れる音を産まれて初めて耳にした彼は、どうやら生きているらしく、状況を把握しようと辺りを見渡す。見渡したかった。首が動かない。今、彼の首は皮だけで繋がっている。
脳が血液を求めている。
生存本能が叫んでいる。
脳から分泌されるアドレナリンが彼を臨戦態勢にしようとするが、それはあまりにも遅かった。いくら脳の処理速度が高まり視界がスローモーションになったところで、体が反応しなければ意味がない。
大型トラックのタイヤが迫って来る。
ゆっくりと迫って来るように見えるが、実際は、かなりスピードがある。
ブレーキ音がスローで聞こえる。せたくそなクラシック音楽のようだ。ド素人が弦を痛めつけるかのようにチェロを演奏している。
大型トラックのタイヤが迫って来る。
このままでは、彼の頭は大型トラックの重量に耐えきれず押し潰されるだろう。
しかし、タイヤが押し潰したのは彼の頭ではなく、彼の胸だった。
大型トラックの運転手が彼を避けるためにハンドルを切ったのだ。
だが間に合わない。
前のタイヤが彼の肺を潰す。
肺から押し出された空気が彼の喉を通り、子猫の鳴き声に似た悲鳴を出させる。
アドレナリンを消耗しきったのか、言い難い激痛が彼を締め上げた。
死ぬときは気持ちいいと聞いたが……それはデマだったらしい。
さて、“前のタイヤ”ということは“後ろのタイヤ”もあるのだが――後ろのほうは描写しなくてもよさそうだ。
後ろのタイヤに踏まれる直前――彼は死亡した。
ショック死である。
(
(“責務を果たせ、胎児よ”)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます