「深き文章。」~10代から20代に書いた詩
天川裕司
「深き文章。」~10代から20代に書いた詩
「深き文章。」
ひとつ、ここで、知恵のない文章をかこう。
聖書に記されていることは、まるで、私の友人との在り方に、関係のないことのようだ。個人はどうしても、他人(ヒト)を外見と偏見でおさめる。
私と友人とのはながさく会話は、どうしても愚かな話であり、時に、私がこれを好まなくても、今までの習慣から、それを許しては貰えず、私は、人に仕える破目になる。きっと、神が見られたら、かなしまれるような弄図であろう。私が、それらを思って、悔いて、神に祈りを捧げる時、その心のどこかで、絶望が在った。それは、この地に未だ命が在り、きっと、明日も生きなければならない、という、自分勝手な意志が、在ったからということに、私自身も、気付いている。やはり、人が、物事を感じる瞬間が長いのである。この世では、確かに、聖書の清さとは、関係のない物事が、沢山、起きているではないか。その事を避けては通れない人間は、やはり、目に見える方にその身を置いてしまうもの。親身になって考える物事は、得てして、自分に関係のあるところの物事(もの)である。人は、退屈を拒み、損失を拒む。個人(ヒト)の栄光は、どこにあるのか。千差万別である。しかし、そこでも私は思う。人は、人として在るべく、神が創造されたもの。その者の栄光というものは、決して、千差万別ではなく、一つところに集まっているように思える。人は、最初から最期まで、人なのである。神にも、悪にもならない。そしてそれは、傀儡ではなく、自分の内から出る不安や臆病が、その個人(モノ)を変えてしまうものであり、その者は、その人(ヒト)の枠の中で、憤慨し、哀しみ続けてゆくのである。神は、人を服されると言われた。そのとおりである。
しかし、そうだとすれば、そのことと、この世のことは、どう解決すれば良いのか。人が、一生をかけて、迷うことである。光か闇か、その二つに一つの地に、人は、行かねばならない。神は又、確実に、人に罰を下し、人に天を与えられるお方。その“二つに一つ”は、この世に確実に、存在する。又、聖書には、この世(地)が、悪に栄える地だとも、記されて在る。神は、その事実(コト)をも含めて、人を許して居られるのであろうか。そこまでは、私にはわからない。神の領域と、人の領域というのがあり、その境界線をどう説くかなどの努力は、最期まで人の労費に過ぎないのだ。時に、人は、錯覚する。そして、一生をかけて迷う、その人の労費(困惑)も、錯覚である。信仰は、信じ続けるしかなく、その他の迷いは、人を迷わせる。
…(創世記:第五章、二十四説、記)
エノクの死が、人に見えないのと同じように、人の死も生人(ヒト)には見えるものではない。しかし、その人の死について、人は困惑し、不安に思い、想像を置こうとする。“無”である、という人の言葉も、又、想像である。人は集団であり、個人(ヒトリ)である。人は、集団で思うことと、個人で思うこととを持っている。神に対しての思惑と、他人(ヒト)に対しての思惑と、どちらが重要かということは、この地では解決しない。人の一方的な思い込みと、神の多方的な思考との間に、差があらわれている。人は、どうしても、一つの物事に、説明をつけたがるものであり、未知である物事(コト)にも説明をつけようとし、わかった気でいることが、しばしばある。そんな時に、人の道は、曲がってゆく。その曲がった道を、その者(先導者)に従って、一緒に曲がってゆく者達も多い。例えば、偶像がそれである。金色の偶像を建て、その色の美しさにほのめかされ、人は、その偶像を信じる。そこには、その者達の労費はあるが、神は居ない。しかし、それは、人の所作であり、しばしば起ることである。一つの難事に接した時、その事はよく起る。しかし、その暗闇に居る人達でさえ、未だ、神の御手の内に在るということを、忘れてはならない。この地は、人の住む地であり、神の地である。
又、人は、この地にて、悪事をくり返してゆく。そのことについて、人は、幾度となく、困惑し続ける。一度、拭い去って、又、悪い種が生れて、再び、拭い去って、その悪は、消えることがない。いつも、人には、右と左とがあり、その右か左かを決めるのは自分の内にある。そして、そこに神が居なければ、その意味は成らない。詰り、信仰というものである。人は、男女を愛し、又、欲しがる者である。しかし、そこに神が在らなければ、そのことは歪曲してゆき、目が塞がれて、自分が何をしているのかがわからなくなってしまうものである。人は、よく、その左右の事を他人(ヒト)に聞き、それによって決めることを覚えている。欲を思えばきりがないのと同じように、そのことについてのくり返しも、又、きりがないものである。何故、この世に聖書という僅かな光の言葉がおかれていて、人は、尚、罪を犯す手を止(や)めないのか。ソドムの町には、ロトの家族四人が居り、そのところを神が滅ぼされるため、その夜の内に小さい町に向かって、ロトと、その家族は去って行かされた。その時に、そのロトの妻はうしろをふり向いたので、神はその妻を、塩の柱にされた。その以前に、神は、アブラム(アブラハム)とこの町の滅亡について、暫く、語っている。例え、その町に、良い人が四十人、…三十人、…二十人…、居たならば、神は、その町を滅ぼすことをしないであろう、と。結局は、そのロトの家族の妻を除いた者達だけがその滅亡から、ノアの守らされた人々のように、逃げることができた。今、現在、一九九九年のこの町は、まさに、そのソドムとゴモラの地のようになろうとしている、と私は予感している。絶え間ない悪行のくり返しと、神を見ない者達が、盛んに、みなぎっている。その中に、私も生きている。私は、正直、不安に思う。決して、そのわき道にそれて行かないということを、神の前で守れるものだろうか。又、その改悛の数が増していっても、そのことの初心を忘れることがないであろうか。あなたがたの言葉は、いつも、私に近いが、あなたがたの心は、いつも、私から遠くはなれている。まるで、暗い闇に覆われたような空の下で、居るような気持ちである。私の心の中では、絶えず、心に悪事を覚えた時に、その言葉が重くのしかかる。例え、他人がそれをしたからといって、それが自分のために正しい事と思い込むのは、まちがった事である。それも、きっと、曲がってしまうもととなろう。
多くの、この事を煩う作家が居る。その者達のかくものは、決って、人の心を揺がすものであり、深く思い込ませるものである。私は、その内の一人をも知っている。例えば、太宰治という者は、多くの若者のところに現れ、箴言を言い、規律を言い、又、死というものを、美的に思わせるような事を言った。それ故に、その者の思った事に親身になり、自分の事のようにそれらを捕え、自分の口から出た物と、錯覚する。人を信じ込ませるものは、ここにもある。だが、私は、この事に深く足を踏み入れたりはしない、と、自分と神の前に一度誓った。又、もう一度、誓った。自分をこの世に生んでくれた者は、父であり、母であり、又、神である、と、強く、信じた故である。いまいちど、この事に足を踏み入れて果てることのないように。その者達の表す真実と、神の既に表されている真実とが、すれ違う事がしばしばある。そのどちらにつき従うか、その前に立った人は、私が過去迷ったように、迷う。この世の錯覚は人に真実と見え、この世の真実は人に錯覚と見えることがある。人は思う。要らぬ詮索であるが、あの、始めに創られた栄光の地にて、蛇が見つける中央の木さえなかったなら、人は、これ程、苦痛の淵に陥らなかったのではないか。蛇の誘惑は人にとって毒であり、あの中央に生(は)えた一本の木でさえも、人にとっては毒であったと。その言葉には、きっと、多くの者達が賛同する。そして、又、その者は集って、公儀の場を設ける。そのでき心は、やがて、その者達の中で大きく成長してゆき、その者の内から、神に対して、激しい呪いの言葉を吐く者が生れるであろう。神なき教えは、知恵ある悪魔をつくる、という格言(ことわざ)が、今日にある。まさに、それがそれである。その者達は、神と話すことを知らず、他人(ヒト)と話すことしかしない者達である。そして、その集いは、一人の正義の者もはじき返す。やがて、それが大きくなって、ソドムやゴモラのような地が、再び、起るのである。ここでも、人は、一つの事を知らねばならない。あのロトの家を訪れた二人のみ使いがそこに泊り、集まってきた群衆達の前で為した神の業(わざ)の事を。窮地に立たされた時、人はきっと、迷う。しかし、その時、自分が一人だと思ってはならない。自分の命を神にあずけ、真実に祈れば、神はそこに居り、その人の事を救って下さる。その時に、孤独という人の亡霊は、その人の前から消え失せるのである。多くの作家、哲学に生きる者達の言葉には、それといった人の言い伝えに過ぎない哲学という人を錯覚させる媚薬のようなものが、しばしばある。先の太宰や、芥川、安部公房、川端康成、夏目漱石、三島由紀夫、梶井基次郎、永井荷風、遠藤周作、又、森鴎外、彼等がかくものは達筆で、人に、勇気と落胆を与えやすいものである。又、そこでも、様々な派別を設け、人にそれを尚、価値在るものに見せた。人から出る物は最期まで人の物であり、神から出る物は最期まで神のものである。人の哲学は、人の命を知らず、又、価値を見えなくさせる。人から出るものは渇いてしまい、神から出るものは永遠に渇くことはない。
又、人はねたんだ。自分に愛する者が居なかったからである。人は、神の時を待てず、自分の欲のために、それを欲しがった。人の年は若く、男であった。彼は、まわりの女と共に居る男から離れ、自分は暗い地に行こうとした。いまいちど、愛する者が欲しかったのである。女を知ったのは一度であり、複数の女と触れ舞う隣人を見ると、自分とは異人のように思え、やはり、又、そこから離れた。しかし、欲が彼の内(ナカ)にあったため、彼は又、女の事を思うようになっていった。又、世間に氾濫している悪事には、そのことをも含んでいた。彼は、その世間の在り様を見て、幾度か、それに沿おうと努めた。しかし、それが、どこかで悪事だと知っていたため、彼は離れていた。それさえも、神の御心だと思っていた。しかし、彼は、それでも、一度汚れたその時を忘れることができず、一生、悔やみ続けることになった。そして、或る晩、人は、自分の欲望を捨て去ることを望み、神に祈り始めた。「どうか、私の欲望をあなたが拭い去って下さい。私はそれのために、幾晩も、汚れた悪義に悩まされるのです。このことは私を変え、私の一生さえも、低く、醜いものにしてしまいます。どうか、私を憐れむなら、私の内からこの欲望を取り去って下さい。私は、幾程も、疲れました。」しかし、時は未だ来ず、人は寂しいところに在ると思った。その無情なかけひきから、又、悪が囁き、その人を悪いところへ誘うようにした。彼は上を見上げ、下をも見下げた。又、右を見、左をも見た。しかし、彼は、何分、理性が宿っていたため、それ以上、悪くはならなかった。同じように、幾晩も、悩み続けていたからである。光は未だ見えず、闇が覆っていた。その闇の中で為す自分のすることを、どうか神の側から離れないようにと祈り続けた。しかし、彼は、明日を煩うことをやめることはできなかった。その日の調子にて、彼の思い込む度合いも変っていった。
一方、その理性につけ込んでくる悪の事を、彼は気付くようになった。浅いところでは理性が邪魔になる思いを覚え、深いところではその意気走った自分の孤独に価値を置くことを覚えたのである。孤独は人を歪め、良くない発想を覚えさせることを、彼は自ら知った。彼の右手は人を求め、左手は人を拒んだ。その無益な争いは、彼の内でずっと続いていた。悪がそうさせたからである。しかし、彼は、そのことを悪の仕業だとは信じずに、自分の決意の故だと、かたくなになっていた。彼は、自分でそのことを拭い去ることができなかったのである。その故に、又、他人(ヒト)を恋しく思うようになっていった。一人の孤独を覚え、それに身を持ち崩し、又、明日を煩い始めたからである。そこには、自分も居た。他人(ヒト)を恋しく思った自分も居た。人は、苦痛から目を離すことができなかった。その孤独はやがて、その人の頭上から天を覆い、地をも覆い尽きることになる。人は、そのなりゆきを黙って眺めるだけでは居れなかったのだ。何かを口にしたいとも思い、何よりも、人がそこに居てくれることを望んだ。人の思うところにはその時、人の家族は入っていなかった。若い年頃の故に、自立心が人を苛んだからである。自分が欲深い者のように思えたが、又、自分がこの地に生きていることを覚え、それ以上深くは考えなかった。その時、死を恐れたのである。又、同時に、自らの時間の労費に気付いたのである。人は、素直に生れたままの本能とを携え、その理性の憶える善意の線を、消そうと試みた。又、悪いところへの一歩を踏み出そうとしたのである。既に、まわりの人々は、その言葉を捧げていた。しかし、彼は、聖書を知っていたため、又、ソドムとゴモラの町を思い出し、いっそ、そこからぬきん出ようとも試みた。しかし、日々のためらいが、彼に大事を思わせ、その勇気を与えなかった。その勇気とは、彼の憤った末のまちがったものだと知らされたからである。彼は、ゴモラの地に居る。
「夢のたわごと。」
思春期の時のような、形而上のものに熱を上げてのめり込む程の力は、もはや、ない。全てが無駄だと思い、知っている故に。しかし、人が言う夢というものには、そういうものが取りつけられているものではないか。そんなことで夢中になったって唯、恰好悪くて、クールっていうのからは、程遠くはなれたものになってしまう。諦めが肝腎。諦めたその姿勢こそ、クールであり、格好良い。夢も何もないのさ。何のために生れてきたのか、唯、生きるために。金こそ、皆の夢である、と、この世は見せる。結局、その時間が長すぎて、盲目に陥ってしまい、当り前のことだとそれを受け入れる。疑う余地もない程に。誰にも立場が必要である。金が必要である。地位、名誉、…..。その世間の一歩手前で止(とどま)ったため、私は、一瞬夢を失った。その記憶が長い。どこへ行こうとも、その暗い記憶がついてまわる破目になった。他人(ヒト)も結局、諦め顔とクールな顔の行ったり来たりで忙しくて、他人(ヒト)の事なんてやはりかまっていられない。皆、何かの形で、その両方を通るものだと思うから。そう思うと、男と女の夢(ロマンス)でさえも、かなしいもののように思えてしまう。男が夢を追うものなら、同じように女も自分の夢を追うものではないのか。その夢が、この世に触れて男になってしまって…。(あ、でも愛情は又、別なものか。)まぁ、何にしろ、その一見、馬鹿げた努力が、その人の夢だと思う。それを続けていかなきゃいけないんだ。年をとっても。
「深き文章。」~10代から20代に書いた詩 天川裕司 @tenkawayuji
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