「白髪描写。」~10代から20代に書いた詩

天川裕司

「白髪描写。」~10代から20代に書いた詩

「会話。」

友人と話す言葉が、例え実のならない話であっても、私はし続けた。そういうことを話し合える友人達ではないのであろうか。その疑問は地に落ちず、ひたすら雰囲気を気にした。影響されやすい私は、しばしば道がわからなくなり、路頭に迷うことがある。そんな時、その会話は少なくとも私を勇気づけた。その日が今までに一日でもあった以上、その過去を消すことはできず、その事実は又明日にも生きて行くことになる。


「箴言達筆。」

作家、そういう職業の人に、高い低いはなく、又、一流三流もない。真実が一つであれば、作家も又一つである。


「箴言達筆。」

真実なる虚言をつくってみたい。そのことに、人は何とも言わないと思ったから。


「身内。」

どとうのような気忙の流れたあと、ゆるやかな身内の者達の笑顔を私は見た。


「私流者。(しりゅうしゃ)」

もんだいを起す者になりたい。日々、人達が葛藤するような、もんだいを起してゆく者になりたい。身内の者の中に居てもその色濃さは消えず、絶えず、怒りと、むなしさを憶えさせるようなその雰囲気を漂わす者になりたい。それは、日々生きる上での、不安と、それが引き金になる無冠の勇気から生れたものであった。


「白髪描写。」

二人の子供に長く居て、私は脆弱(ヨワ)くなりました。母親は父親を気遣い、その表裏で私のことをも気遣っています。父親は家族を気遣い、一滴程の水もりくらいは大目に見て居り、末をみて今を生きています。従兄弟の結婚式の時に送られた、父親の写っている写真を見て、私はほんのり心が和むのです。そこに写っている父親は何もしゃべらず、きちんと座っている。言葉のない空間が、私の想像に植え付けたものはそれでありまして、私は唯、その思い出を大切にしようと決意したのです。唯、明日をも含む日々の労力がその想像を煩ってあざ笑われるかのような気持ちに陥るのです。何ともないのに、何かを受けた振りをして、問題もないのに論争を起すことを努めたりして、その自我からの吹き出ものが消えないのです。又、私は一方で、他人(ヒト)の死に対して何らかの安堵を得ることに気付いたのです。それは、わざわざ出て行って自ら殺すものではなく、自然に、すなわち神が召される時というのに、その気持ちを憶えるのです。そしてそれは、基い、この写真のような静止した画図の雰囲気にそっくりであることに気が付きました。矛盾をも憶えます。

 私が両親に安心を得るのは、恐らく、その両親の思い出をこの手中におさめた時ではないかと恐れながら憶えます。そしてその恐れは、その日々の葛藤が空転させて、確信へと変わるものではないかと、二つの内一つの心を悩ませています。その止まったように写っている父親の写真は余りに心に残り、目に良く、少々のかなしさを伴うのです。

 もはや、私はその時、母親の事を考えることを疲れ果てていました。たった一つの言葉から、永遠の破綻を生むような、そんなたわいなくむなしい想像が私に襲いかかるのです。目に見えた死は怖く、目に見えない死はやさしく思うその私の心に、そんな私の希望さえも消えてしまうようなその絵図(えず)を見るのを不安に思ったのです。このことは、私が生涯かけて悩む事になるでしょう。


「復活の半生。」

僅かな小さい出来事が、私を苦しめる。あなたのなさった事はとても大きいのにも関わらず、私は日々の労費をむなしくさせています。他人からの評価を得ようと全身を注ぎ、又、他人からの尊敬を得ようと全能を試みている。その日々の努力を、あなたは無駄だと言われますか。私のところから出る物事は皆、自我のために燃えています。自分のためであり、この世間を生きていくために。人は、生きるために生きてゆかねばなりません。何事も金にかえられぬものなど、きっと、ここにはないのです。私は、この世間というものを知りました。私の耳には、私の口から出た言葉が一番正直のように聞こえます。どのような場所に居ても、私の言葉が生きて残るのです。私に、あなたの言われた御言葉はかけません。しかし、私は不安の内から、確信の内から、あなたを信頼し、信じたいと試みます。これでも私は自滅して行っているのでしょうか。先は、わけもわからず、幻につつまれています。唯、過去の栄華に携わって生きるのは、このところの人道にはそむいているようなのです。あの教会の主で居る牧師は、常に、あなたの御声を聞いているのでしょうか。それとも、聞く努力を努めて、私達と同じように、時に聞こえて、実際、聞こえていないのでしょうか。私には、あなたの姿がわからぬのと同じように、他個人(ヒト)がわかりません。それも信仰の内なのでしょうか。

 私は今、生涯の生業を哲学をかく者と決めようかとして居ります。あなたは言われました。不毛の地をさ迷う哲学は、人の言い伝えに過ぎず、それだけに戸惑ってしまうものだと。私はもはや、罪の中に居ます。その哲学の中に、何か光のようなものを感じました。そのものはやがて私の目をもくらまし、恐しい闇の地へと私をいざなおうとしたのです。私はあなたの前に、この信仰を吟味します。そして、どうしても救いようのないものと、少し、決めかかっています。どうして、私がこういうことを思うのでしょう。私の中に何が宿っているのですか。私はあなたに祝福され、喜ばれる者になりたいのです。


「雪。」

外には雪が降っていた。その白さは、ことごとく寂しくなり、私の目には唯冷たいものとだけ、感じられた。私には過去があった。卑しく、他人(ヒト)には言いたくない過去である。その過去の故に、私は嘆き苦しんだ。その雪でさえ、その慰めには何の役にも立たなかった。皆、唯、呑み食いしただけで去ってゆき、そこには唯はじめからある私だけが残って居り、その者達は戻っては来なかった。四年の歳月である。その四年の内に、その者は大きく変り、私は見えないところへ行った。淀んだ労費だけがむなしく燃え盛り、あとにはこれを消すための水は、渇いていた。外にはひとつぶてのかたまった雪が、溶けるのを待っていた。


「偏見と安心。」

聖書を読んだ。それも少し、読んだ。他の本にはない光のようなものを感じた。母親には、それを霊感のものであるから、と一時言っていたが、それでも、私は、この世にて、これ程のものが存在するのかと現実を見て驚いた。そこには、人を信じさせるような不安や恐れの在り様が、ひとつ、ひとつ、記されていた。しかし、私には、それまでのその聖書を通しての幼い日の思い出があった。それは、私の心から出るひとつひとつを、勝手にかたどっていくものとなり、偏見を生ませた。私はその体験(経験)を、時に卑しく思い、時に、都合の良いように取った。唯、読んだことのない聖書をはじめて近寄って来て聞いて読んだその目には、それ以上のものはない、と密かに見えたのだ。そこに、一人への安心を覚えていた。


「現代情偏。」

ユダの悩みの故に、又、激しい苦役の故に、逃れて行って、もろもろの国民のうちに住んでいるが、安息を得ず、これを追う者がみな追いついてみると、悩みのうちにあった。

                              (哀歌:第一章、三説)


人の栄華は、奴隷となったその主を、さげすみ、離れ、その主の頬に涙が流れていようともそれを慰めることはせず、その友はこれにそむいて、その敵となった。

                            (哀歌:第一章、一、二説)


「文章。」

我のかくことは、全てが初めてのことである。


「憂い。」

人は思った。何か良いものをかきたい。この人の後世まで、語り継がれて、それを読んだ者が例え一人でも、幸福に満ちるような良いものを、かいてみたい。そうすれば、今まで、私のした悪い事も良い事も皆、良いものの内に入るような予感がするから。又、人は思った。人のために良いことというのは、人を刺すものであるか。又、人を守るものであるか。人は、一度、いや、数えきれぬ程、世間の波というものに呑まれてきた。それ故に、その時、人は、生来からある真実というものに、うとくなってしまっていた。そのもととは、他人(ヒト)の批評が加算されていた。又、人は筆を置きたくなってしまっていた。かくという自信が失くなってしまったからだ。唯、真実をかきたいという意志だけでは、この世での事はかけぬものなのか。人は、激しくかなしんだ。この世の真実というものは何か。「もしも、それがこの世にたった一つであったとしたなら、もう、既に、誰か他の人がそれをかいてしまっているでしょう。既に、かかれてしまっている事を、今、私が再びかいたとしても、それは他の人から見れば、何の価値もないものです。私は又、憂いの淵へと身を落し、やがては、その者達を遠方から呪うまでになってしまうでしょう。」人は、一度そこから去ろうとした。

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「白髪描写。」~10代から20代に書いた詩 天川裕司 @tenkawayuji

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