2章 第1話 終わりは突然に
私は両親の事が大好きだった。
仕事で帰りが遅いけど、帰ってくると必ず私の頭を「よしよし」と撫でてくれるパパ。
怒ると怖いけど、普段はとても優しい、料理上手のママ。
両親がいれば、他には何もいらない。
子供ながらに本気でそう思えるくらい、私は二人の事を愛していた。
でも私の五歳の誕生日、そんな愛する両親が急死した。交通事故だった。
あの日、私の誕生日ケーキを買いに行った帰り道、子供が急に車道に飛び出してきたのだ。慌ててパパがハンドルを切ったら、その先に停車していたトラックに運悪く突っ込んでしまった。
私は後部座席に座っていた為、運よく生き残る事が出来たが、両親はダメだった。頭から血を流し、ぐったりとしている両親。
それでも、緩慢な動きで車内を見回し「ひか……り、ひかり」と、か細い声で私の名前を呼ぶパパとママ。
そして、私の姿を見つけると、その顔に安堵の笑顔を浮かべていた。
二人は私が無事だと知ると心底安心したように笑い、最後の力を振り絞る様に「ごめんね、幸せになってね」そう一言だけ言い残し、そのまま息を引き取った。
その日私は、五歳の誕生日に両親を失い、心に深い傷を負い、一人ぼっちとなってしまった。
幸い父方の親戚に私を引き取ってくれるという人がいた為、天涯孤独の身にはならずに済んだが、当時の私にそんな事を考えている余裕など、当たり前だがなかった。
だって、五歳で突然愛する両親を失ってしまったのだもの。
そんな私が、ショックで心を閉ざしてしまったのは、当然の結果だったと言える。
新しい家族、家、環境をなかなか受け入れる事が出来ず、いつしか私は誰とも喋ろうとしなくなってしまったのだ。
私を引き取ってくれた伯父さん達は、何とか私の心を開こうと色々と喋りかけてくれたが、私はそれに応える事も出来なかった。
そんな気力もなかった。
そしていつしか「時間が心を癒してくれるだろう」と、伯父さん達は私に話しかける事をあまりしてこなくなっていき、私もそれを良しとしていた。
しかし、兄さんは違った。
私を引き取ってくれた伯父さん達には一人息子がいて、私にとっては義理の兄にあたる人だ。
兄さんは心を閉ざす私に、毎日懸命に話しかけてくれた。
今日は学校で何はあったとか、自分は何が好物だとか、逆に私は何が好物なのか? とか。
ちなみに私の好物はハンバーグだ。
とにかく毎日毎日、兄さんは時間があればいつも私に話しかけてきた。
最初は何も感じていなかったが、それが徐々に煩わしく感じ始めた私は、一度文句を言った事があった。
自分で言うのもなんだが、結構キツイ事を言った自覚はある。
当時の兄さんは、少し困った様な曖昧な笑みを浮かべて謝るばかりだった。
少しだけ罪悪感を感じたけど、これで話しかけて来なくなるだろう。
そう思っていたのに、あろう事か兄さんは、次の日からも懲りずに何度も何度も繰り返し話しかけてきたのだ
最初は呆れていた私だが、何度も話しかけられる内に、少しずつ、本当に少しずつだが、私は兄さんに心を開いていった。
最初は一言二言、それが一文二文と少しずつ増えていき、気付いたら私は新しい両親とも普通に話せるまでに回復していた。
全ては兄さんのおかげだ。
そんな兄さんに、親愛を超えて恋慕の情を抱くようになるのに、さほど時間はかからなかった。
幸い……幸いと言って良いの分からないが、兄はモテる方ではなかった為、彼女などまともに出来た事はなかった。おかげで私は嫉妬に狂うなどとは無縁だった。
いつかこの想いを伝えよう。大学を卒業したら、きっと。そう心に決めていた。
そして、あと一年で大学生活も終わり。そんな年だった。
兄さんが行方不明になった。
家の近所の交差点でトラックの衝突事故が起きて、兄さんの車が巻き込まれてしまったかもしれないと、近所のおばさんから連絡があった。
夕飯の支度をしていた私は、その連絡を受けて心臓が止まるかと思った。
兄さんが事故にあった。
それを理解するのと同時に、私は夕飯を放り出し、急いで事故現場に向かった。
脳裏に浮かぶのは、十年以上前の光景。私の両親の命を奪った事故の光景だ。
もうあんな思いをするのは絶対に嫌だ! そんな思いと共に、少しでも早く足を動かす。兄さんの無事を確認する為に。
五分も経たず事故現場に辿り着くと、そこには絶望の光景が広がっていた。
車体の後部が割れ砕け、原形を留めていないトラック。
前面が潰れ、エアバッグが飛びだしているトラック。
そして、その間に挟まれて、文字通り「ぺしゃんこ」に潰れる兄さんの車。
鳴り響くサイレンの音。
警戒線を引く警察。
事故を見に集まった野次馬の山。
今はその全てがどうでもいい。今はただ一つ。
「兄さん‼」
気が付くと、私は事故現場に向けて走り出していた。
一刻も早く兄さんの無事を確認したい。これは何かの間違いで、実はあの車は兄さんの車と同じ車種というだけかもしれない。
とにかく今は、一刻も早くあの車の元へ。
しかし、もう少しで辿り着くという所で、誰かに行く手を阻まれた。事故処理をしていた警察だ。
「危ないから下がって!」
「通して下さい! 兄さんが……兄さんがあの中にいるかもしれないんです!」
「……お嬢さん、もしかしてあの中の誰かの親族の方ですか?」
「あの間に挟まれているのは、兄さん――兄の車かもしれないんです!」
私は間に挟まれた車を指差しながら訴えた。
とにかく今は一刻も早く兄さんの安否を確認したいのに、この男は退こうとしない。
「そうですか……。大変申し上げにくいのですが――はい、こちら小林です、どうぞ……何ですって? それは本当ですか?」
私の邪魔をしていた警察が、突然イヤホンに向かって何か話し始めた。
「そうですか、分かりました。一応形式上、扱いは行方不明という事になりますかね。この状況では、生存は絶望的でしょうが。はい、それでは」
通話をやめ、警察―—小林といったか。小林さんが再び私に視線を向けてきた……その瞬間、言い様のない悪寒が私の全身を駆け巡った。
何か嫌な予感がする。この男の言葉に耳を貸しては――。
「お嬢さん。失礼ですが、あなたのお兄さん、もしかして「近衛海斗」という名前じゃありませんか?」
その瞬間、世界の全てが止まってしまったかの様な錯覚を覚えた。
確かに私の兄さんの名前は近衛海斗だ。
私が今の家に引き取られてから、ずっと一緒にいてくれた、愛する人の名前だ。間違いようもない。
でも、何故この男がその名前を?
「……その顔、どうやら間違いない様ですね。大変申し上げにくいのですが、あの車は近衛海斗さんの車で――」
「いや! それ以上言わないで!」
信じたくない! 信じられない!
だって、だってあんな、原型も留めない程に潰れてる。あの中にいて、生きているなんて到底思えない。
いや、まだよ。まだ死んだって決まった訳じゃない。兄さんはきっと生きている。
そうだ。事故の衝撃とかで、兄さんはきっと車外に投げ出されてしまったに違いない!
それなら、まだ可能性はある。この目で兄さんの安否を確認するまで、私は絶対に諦めない!
けど、この男が次に口にした言葉は、私の想像を遙かに超えるものだった。
「それが妙なんですよ。運転席にも、それどころか車内、それに車外のどこを探しても、近衛海斗さんの姿が見当たらないんです」
「……え?」
兄さんが、いない?
重症だとか、その……死んだとかじゃなくて?
「運転席に残された大量の血痕から、誰かが――恐らく近衛海斗さんが乗ってたのは間違いない筈なんですが」
意味が分からない。兄さんがどこにもいない? それじゃあ兄さんは一体どこに行ってしまったのか。
まさか、神隠しにでもあったとでもいうの?
分からない、分からない、分からない。
「――っ! お嬢さん、しっかり!」
小林さんの声が聞こえてくるが、そんな事はどうでもいい。
気付くと私は全身から力が抜け、その場に倒れ込んでいた。そしてそのまま夜の闇に意識を奪われるかの様に、私の意識は段々と遠ざかっていった。
「えっと……こういう時、何て言うんだっけ? 確か「知らない天井だ」だったかな?」
兄さんの影響で、オタク文化という物に触れ続けてきた私は、ついそんな事を考えてしまう程度には染まっていた。
でも、今はそんな事どうでもいい。
私が目を覚ますと、そこは自宅の自室ではなかった。真っ白な天井、ベッド。六畳一間程の広さの部屋に床頭台とテレビが一つ。
まさに「病室」といった部屋だった。
という事はつまり、ここはどこかの病院の個室だろうか?
「でも、私何で病院に?」
イマイチ働かない頭をフル回転させ、状況を整理する。
確か私は自宅で夕飯の支度をしていて、近所のおばさんから近くで事故があったと連絡がきて、それに兄さんが巻き込まれてしまったかもしれないと聞いて……そうだ。
段々と思い出してきた。
確か私は、事故現場で色々と信じられない事が続いて、それで。
そう、それで確か、兄さんの車には誰も乗ってなかったって話になった筈。
あの時は気が動転していてショックを受けたけど、今になって考えると、これは私にとっての希望だ。
誰も車に乗っていない。それはつまり、兄さんはまだ生きている可能性があるという事だ。
もしかしたら無駄かもしれない。
こうしている今この瞬間にも、兄さんの遺体が事故現場で発見されているかもしれない。そしたら全て終わりだ。こんな世界に未練などない。
その時は、潔く綺麗に終わろう。
でも、もしまだ行方不明扱いのままなら。わずかでもその可能性があるなら。それなら私はその可能性に残りの人生の全てを賭けてもいい。
私にはもう兄さんしかいないのだから。
私を引き取ってくれた伯父さん達も、一年前に二人共病気で亡くなった。恩を返す相手は、兄さん以外もういない。
だったら、私の残りの人生全てを賭けてでも兄さんを探し出してみせる。その為にも。
「こんにちは、失礼しますよ……おや、もう目を覚まされましたか」
「どうも」
まずはこの小林という男に詳しい話を聞く必要がある。
私――近衛光は、小林という男に向き直った。
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