1部5章 巨大バエ討伐の剣が最期のひと振り 5

 セオ=ディパルは、攻撃の手を休めなかった。

 耳障りの極みのような悲鳴を上げながら自分から逃げようとする相手――ブゼルデスという巨大バエとの間合いを詰めつつ、直剣による刺突を繰り返す。

 蠢く眼球を一つまた一つと突き刺すたび、青紫色の体液が辺りへと飛び散った。


 立派な翅があるにも関わらず二本の足で地面に立ち、飛び上がるのではなくわざわざ地面の上を後ずさっているのは、あまりにも馬鹿すぎる。

 所詮は、蟲か。いや、蟲の中でも、相手に寄生する生態の種は賢いだろうから、ブゼルデスというこの種が間抜けなのだろう。もしくは、この個、というべきか。


 ……やめておこう。

 こういった分析は、油断をもたらす。

 油断は禁物だ。

 コイツらは人を殺す獰猛な種なのだから。

 こちらの体調だって全盛とはほど遠いのだし。


 セオは、刺突では決め手に欠けると考え、思い切って右手を左肩のほうへ振り上げる。こうすることで右腕によって胸は守られ、加えて上半身が捩じられることによって斬撃の威力が増す。カノジョお気に入りの斬り方だ。

 一歩、右足を大きく踏み込んでブゼルデスとの間合いを一気に縮めながら、捩じることによって溜めていた力を解放する。右腕を全力で振り、剣先を走らせる。


 確かな手ごたえ。

 剣は、眼球が無数に並ぶその頭部を、斜めにバッサリと切り裂いた。

 先ほどまでの刺突で散っていた量とは比較にならないほどの体液がドロドロと零れる。

 ひと際、凄まじい雄叫び。

 効いているのは、間違いない。

 しかし、浅い。全然、浅い。あれでは致命傷にはならない。


 であれば、繰り返すだけ。

 もう一撃、もう一撃、もう一撃。

 致命傷となる一撃を与えられるまで、剣を振るうまでだ。

 変わらず翅を宝の持ち腐れとした逃げ方で離れようとする敵を、追撃。

 今度は左足を大きく前に踏み出しつつ、上半身ごと思い切り右後ろへ捻って剣を右上高く振り被り――


 ドクンッ!


 ――激しい胸の痛みに襲われた。

「ッ、ゴホッ! ゲホッゲホッ!」

 咳き込む。一度、堰を切ってしまえば、もう意思の力では止められない。

 全身の力がすべて『咳をする』という動作に集約してしまう。

 直前まで予定されていたあらゆる動作が否定され、咳をするだけの身体となってしまう。

 捻ることで力を溜めていた上半身は、そんな窮屈で苦しい体勢を維持できるわけもない。捻ることはやめた上半身は、咳き込むたびに大きく震えるだけの肉と化す。

 カァン!と、甲高い金属音が鳴った。振り上げていた直剣が地面を打った音だ。


「ゴホッ、ゴホッゴホッゴホッ! カハァ! ゴボッゴボッ!」

 両手が塞がっているためいつものように塞げない口から、大量の血が溢れ出る。

 胸の激痛は、もはや、全身の激痛であった。

 患っているのは胸のはずだが、酷くなったここ最近は、胸が痛むと思ったらもう数秒後には身体のどこが悪いのか判断できないくらいの痛みに襲われる。

 全身が毒されている、と言うべき症状だった。


 咳き込むたび、セオの頭の中が霞んでいく。

 何も考えられなくなっていく。

 今何をしているとか、ここがどこだとか、そういったことさえも。

 それは戦場において明確な隙だ。

 しかしカノジョ自身にもどうすることもできない。


 突如、セオの左脇腹に強烈な痛みと衝撃が走る。病のせいで全身が痛むけれど、外部からの痛みは、感覚器官はまだ生きているため新鮮に感じられた。

 吹き飛ぶ、カノジョの身体。


 ブゼルデスの胸部、そこにはパッカリと口のようなものが開いていて、そこから一本の舌が伸びている。あまりにも長く、紫色の、不気味なもの。

 それが、セオを突いたのだ。

 いくらブゼルデスが蟲の中でも思考機能に劣るとはいえ、生物としてこの機を逃すわけがなかった。大抵の生物には、命には、防衛本能としての闘争本能が備わっているから。


 セオの身体は数メートルを低空飛行し、三度地面で弾み、滑り、止まった。転がることはなかったため、直剣と松明を手放さずに済んだのは、ほぼ奇跡と言っていいだろう。

 服の下にできた幾つもの擦過傷や打撲の痛みを新鮮に感じながらも、カノジョは即座に起き上がろうと身を動かす。それは熟練の剣士だからこそ、多くの場数を踏んだ強者だからこその振る舞いだった。並大抵の者なら、いくら鍛えていようが実戦経験に乏しい者なら、悶絶することしかできなかったというのに。


 膝立ちになる――刹那。

 向かってくる強烈な圧を感じた。

 カノジョの抜群の動体視力が、圧の正体を捉える。と、同時に。カノジョの防衛本能が抜群の働きを見せた。直剣を盾代わりとして、上半身の前に立てたのだ。

 ギィン!と、強烈な衝撃が刃を震わせ、右手を痺れさせる。

「ッ」

 重圧に、振動に、麻痺に耐えられず、直剣が弾き飛ばされた。

 槍のように突き出されたブゼルデスの舌に、病に毒されボロボロの身体では……全盛期と比べて遥かに弱くなってしまった握力では、耐え勝つことができなかったのだ。


 ――カァン!

 左斜め後ろのほうで、金属音が鳴った。直剣の落ちた音。もっと飛ばされたかと思ったけれど、そう遠くはない。あれなら、少しの隙を作ることができれば、すぐ拾える。

 戦場・戦闘慣れしているセオの脳内では、自らが取るべき次の行動が導き出されていた。

 松明を脇に置いて左手を空け、まだ痺れの残る右手では腰にある短剣を抜く。

 ヤツは恐らく接近してこない。間違いなく、また、舌の槍で突いてくるだろう。

 そのとき、やるべきことをやる。

 それだけだ。


 眼前で感じる、空気の揺らぎ。

 来たっ!

 集中した視界の中、猛烈な速度で向かってくるもの。

 ヤツの舌だ。

 タイミングを計る――今だっ!

 膝立ちの体勢から屈む恰好へと移りつつ、全身を右へと逃がしていく。そして、舌の槍を紙一重で躱し、空けた左手を伸ばして掴む。

 握った! 逃がさないため、歯を食いしばって握力を、今出せる限り最大限に発揮。

 けれど、ぬめるし、引く力の凄まじさもあって、掌から抜けてしまいそうだ。

 早く、早くしなければ!

 短剣を振り上げつつ舌に身を寄せ、思い切り振り下ろした。

 舌に突き刺さる短剣。


 ギャギャギャギャギャアアアアアアアアアアア!


 その雄叫びは、刺されたことに対する悲鳴か、憤怒か、はたまた両方か。

 舌が引き戻される。熱いものに触れたら反射的に手を引っ込めるのと同じように。

 逃がしてたまるか。

 舌から離した左手でも短剣の柄を握る。

 圧し掛かるようにして、全体重を短剣にかけた。

 ズジュズジュズジュ!と、肉が裂けていく。セオの体重を受けて短剣の刃は奥へと沈み込んでいく中、ブゼルデスが舌を引くことによって舌が裂けていくのだ。

 自分が引けば引くほど痛みが増すからか、ブゼルデスは舌を引くことをやめた。


 変わらず醜悪な雄叫びを上げるだけで、舌の動きがピタリと止んだ。

 それもまた、セオにとっては明確な隙、好機だった。

 軽く跳び上がり、倒れ込むようにして、さらに力を重みを短剣に加える。

 刃はとうとう舌を貫通し、さらに、押し込み続けることで切っ先は地面まで達した。

 そのまま地面へと突き立てる。少しでも深く、深く、深く深く深く――


 もうこれ以上は刺さりそうにないと判断したセオは、短剣を手放して立ち上がる。

 まずは傍にある松明を左手で拾う。

 次は直剣だ。確か剣はあっちに……と脳内で目星をつけた方向へとふらつきながら歩き出し、すぐに駆け出す。剣は、剣剣剣、剣は……あった!

 右手で拾い上げ、地面に突き立てた短剣をチラ見。


 ブゼルデスの舌は、凶器も同然だ。

 ただでさえ尋常でなく長いその舌は、かなり伸縮性に富んでいて槍のようになる。舌の先端は丸みを帯びているため貫通性能はほぼないに等しいが、突き打たれるだけでも破壊力は高いものがある。一撃に致命傷はなくとも、連撃を浴びれば骨は砕かれるほどに。

 けれど、弱点もある。

 伸縮……つまり前後の動きには秀でているが、上下の運動には極めて弱いのだ。ワニのあの極悪な顎が、口を閉じる力は強力であっても開く力が弱いのと同じようなもの。

 だから、ああして何かで貫き、地面にでも留めてしまえば、怖くはない。

 湿度の極めて高いここの地面は恐らく柔らかめだろうから、いずれ杭代わりの短剣も抜けてしまうだろう。しかし、それはすぐ起きることではないはずだ。

 大丈夫。

 ヤツを絶命させるまでの時間はある。


 セオは、舌のすぐ左側を、平行して駆けていく。

 カノジョの口の端から、まだ乾いていない血が糸を引いて後方へと流れる。

 全身が痛い。でも、痛いということは、まだ戦えるということだ。


 死んでいなければ、守るために、戦える。


 松明の明かりを浴び、ぼんやりと、ソイツの輪郭が浮かび上がった。

 ゴギャギャと、未だに叫んでいる。人の平均的な長さの三分の一ほどの長さしかないが、蟲にしては長いし太い四本の手足を――手足、そう、手足。コイツは蟲に分類されるし、間違いなく巨大なハエといった外見なのだが、基本的に二足歩行をするのだ。二足歩行をし、二本の手で物を掴むのだ。本当に気色悪い生物である――忙しなくばたつかせている。

 ブブブブブ!という羽音も、ずっと大音量だったが、今はひと際だ。

 焦り、が感じられた。

 蟲も焦るのかはわからないけれど。

 命の終わりが近いことを。

 最期が差し迫っていることを。

 コイツも感じているのかもしれない。

 だから、叫び、両手両足をバタバタし、翅を最大限に震わせている。

 やれることをとにかくやれば助かるんじゃないか、と。


 生きたいよな。


 同情とかではない、淡々とした思いが芽生える。

 コイツだって、生きていくための糧として、子どもたちを狙ったのだ。

 そこに悪意なんてない。生きるためにした、それだけのこと。

 でも、その子どもたちだって、まだ生きられる。

 その子どもたちに生きて欲しいから、自分はここにいる。

 お互い様だ。

 命のために、命を奪い合う。

 それだけのこと。


 来た。

 完璧な、間合い。

 右手の直剣を、開きっ放しの口の中へ、思い切り突き込む。

 剣先が沈む感触。しかし肉の厚みのせいか、沈む勢いはすぐに弱くなる。

 高まる、雄叫び。唾なのか、口内にできたばかりの傷から溢れた体液か、飛沫がカノジョに浴びせられる。

 松明をその場に落とし、左手でも柄を握り、力強く踏み込んで、剣を突き込んでいく。

 ズブ、ズブ、ズブと、刃が沈んでいく。少しずつ、着実に。

 そして――フッと、いきなり剣が軽くなった。抵抗がなくなった。


 静かになる空間。

 羽音も。

 雄叫びも。

 止んだ。

 ばたついていた手足は、しぃんと萎れた。

 死んだのだ。


 剣を引き抜こうとするも、簡単には抜けない。

 ぐらりと蟲の死体が前に傾いた。

 慌てて両手を柄から離し、後ろに跳ぶ。

 ドスンと重量感のある音を立て、死体は倒れ伏した。

 これでは、剣は抜けない。

 ……まあ、いい。


 もう自分には不要だろう。

 もう自分が剣を振るうことはないだろうから。


 親友の娘を、故郷の子どもたちを救うために、巨体なハエを討伐した。

 それが、皇国軍人として戦い、部隊を任せられるまでに出世した自分の振るった、最期の剣。

 イイ終わり方だ、本当に……。

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