1部5章 巨大バエ討伐の剣が最期のひと振り 4

 ――ブブ、ブブブ、ブブブブブ

 ――ブブ、ブブブ、ブブブブブ

 ――ブブ、ブブブ、ブブブブブ


 壁に反射する音のせいで、方向感覚が狂っていく。三百六十度、周りすべてを音に包囲されているような感覚は、胸をぎゅ~~~っと締め付けるような苦しさを与えてくる。

 ……それに、この甘ったるい臭い、吐きそうだ。

 この空間の危険なところは、鼓膜を強打し続ける不快音だけではない。

 吸えば吸っただけ鼻奥に、気管に、肺にねっとりと絡みつきそうなくらい濃密な甘い臭気は、『甘い』ことに違いはないからそう表現するけれど、もはや猛毒の類だ。


 息苦しい。

 くらくらする。

 気持ち悪い。


 今すぐにでも座り込んで、目を瞑って、両手で耳を塞ぎ、息を止めたい衝動に駆られる。

 このままここにいたら、気が狂ってしまいそうだ。

 それくらい、この空間は、この環境は、人体にとって害のある凄まじい場所だった。

 が、そんな中を、ディパルさんは進んでいく。

 松明を掲げ、直剣を腰の位置に、いつでも突き出せるよう構えて。

 ゆっくり、慎重な足取りで進むその背中からは、恐怖心なんて感じられなかった。

 場数、か。

 これが踏んできた場数の違い、というものか。


 ――ブブ、ブブブ、ブブブブブ

 ――ブブ、ブブブ、ブブブブブ

 ――ブブ、ブブブ、ブブブブブブブブブブ!


 ずっと一定調子だった羽音が、突如、ひと際強くなった次の瞬間。

 猛烈な向かい風が吹いた。

 顔に激突する風圧に、オレは堪らず顔を背けてしまう。

 上半身が後ろへ傾くほどで、慌てて、左足を大きく下げて踏ん張る。

 細めた目に、辺りの暗さが一気に増したのが見えた。

 突風で松明の火が脅かされてしまったのだ。

 やめろ! 消えるのだけはやめてくれよ!

 そう、心の内で悲鳴を上げ、願い、縋る。

 ――パチッ、パチパチパチッ。

 一瞬、間違いなく消えた火だったが、すぐに勢いを取り戻してくれた。巻いた布にしっかりと油を染み込ませたおかげだろう。自分の仕事を褒めてやりたい。

 が、今はそんな暢気な自画自賛をしていられる状況ではない。

 何が起きたのか。

 ディパルさんは大丈夫なのか。

 顔を、視線を、正面に戻す。


 ぎょろぎょろ、ぎょろぎょろ、ぎょろぎょろ。

 真っ先に見えたのは、蠢くもの。

 ディパルさんの持つ松明の明かりの中に、それらは見えた。

 正体はすぐにわかった。

 わかったから、背筋が冷たくなった。

 無数の眼球。

 数え切れないほどの小さな眼球が、一つ一つ意思を持っているかのように、あっちへこっちへ忙しなく動いている。蟲には複眼という特性があると学んだことはあるが、あんなものも複眼と言えるのだろうか。魚の眼球が無数に集合しているようなものだが。

 恐ろしい。

 でも今、何より恐ろしいのは、その恐ろしい存在がディパルさんの傍にいるということ。


 ディパルさん!

 そう、オレは悲鳴を上げそうになった。

 しかし、それよりも早くカノジョが動いたことで、オレの悲鳴は喉奥で霧散した。

 直剣が宙を裂き、眼球集合体を突き刺したのだ。

 その動作はとても滑らかで、焦りとか怖さとかそういったものは一切感じなかった。

 並大抵の人なら、こんな状況で、あんな気色悪い存在が傍に現れたら、もっと喚き散らしたり、やたらめったら無茶苦茶に武器を振ったりするものだろう。


 何度か、オレやシルキア、ネルたちと町の近くの森で遊んでいたとき、獰猛な獣や蟲に襲われたことがあったが。そのとき助けに来てくれた大人たちは、守備隊の人たちは、もっと慌てていた。とにかく相手に命中することを願って、大声を上げながら武器を振り回していた。日頃の、武器の構え方や振り方の鍛錬なんて意味がないと言わんばかりに、雑に。

 それを、格好悪いだとか、微塵も思ったことはない。

 生きるために、守るために必死なら、むしろそうなることが正しいとまで思った。


 けれど。

 けれど今のディパルさんの動作を見て、違ったのだと考えを改める。

 ちゃんと強い人は。

 ちゃんと戦うことを知る人は。

 日々の鍛錬で身に付けた技を、ちゃんと使うことができるのだ。

 どんな状況であり、どんな相手であっても。


 ゴギャアアアアアアアアアアアア!


 鈍い雄叫びが響き渡り、耳に刺すような痛みが走った。

 松明に灯された中、眼球どもがディパルさんから離れようとする。そのとき、ゆらりと灯りの中で揺らめくものがあった。本体だ。眼球にばかりオレの意識は向いていたが、今ようやくその本体を、不明瞭ではあるが確認することができた。

 率直に言って。

 ハエ、とはまったく思えなかった。

 というより、蟲とすら思えなかった。

 魔族、と言ったほうが納得できるくらいだ。

 それほど、今見えたものは、気色悪い存在だった。


 気色悪い存在――ブゼルデスが、眼を刺された悲鳴を上げながら後退する。

 それに合わせるようにして、ディパルさんは間合いを詰めていく。

 やはりその身体の動きに、人を畏縮させる要因である『緊張』や『焦燥』『恐怖』といったものは感じられない。

 躊躇いなく距離を縮めつつ、鋭く突き出される直剣。

 一回、二回、三回、四回と、剣先が眼球に突き刺さる。


 確実に仕留める。


 その強い意思が、ひしひしと伝わってきた。

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