1部3章 日常の続く町にて
《ポラック》が見えてきて、心の内が安堵で満たされていくのがわかった。
じわっと全身に広がっていく温かい気持ちが溢れるかのように涙が滲んで、でもそれを零れさせたくなくて、オレは掌や手の甲で乱暴に目を拭う。
よかった。本当によかったぁ。
ひとまず安心できる。
ゆっくり休める。
妹を休ませてやれる。
「――あっれ? アンタ、一時間ほど前に出て行った剣士さんじゃないか!」
村を囲う柵の切れ間――つまり村の出入り口に近付くと、若い男が快活に声をかけてきた。男がつい今の今まで世話をしていた栗毛の馬が、ジッと黒い目をオレたちに向けてくる。
「先ほどぶりです」
女性が村の中に入りながら男に返した。
オレたちも――灰色の愛馬も全身が中に入ったところで、カノジョは歩みを止める。
「ん? キミらは……」
男性と目が合う。キミら、というのがオレたち兄妹であることは間違いない。
とはいえ、何をどう言えばいいのか判断できず、オレは口ごもるしかなかった。
「とりあえず宿へ行きたいので、またこの子を預かってもらっても構いませんか?」
「世話料はもらうけど、それで構わないのなら全然イイぜ!」
「もちろんです。ただ、すぐにまた発つ予定なので、エサやりと蹄の手入れは不要です。水だけ飲ませてあげてください」
「わかった。じゃあ、水の代金も加算させてもらうってことで、今から三十分経つごとに銅貨一枚! それでイイよなっ!」
「はい。よろしくお願いします。みなさん、降りてください」
「は、はいっ。シルキア、先に降ろすぞ」
オレは妹の両脇を抱え、グッと持ち上げる。「あっ」しかし、疲弊しきった身体では上手く持ち上げられなくて体勢を崩してしまい、反射的にヤバイ!という想いが声で出た。
と、女性が両手を伸ばし、オレたち兄妹を支えてくれた。
「一人ずつ、降ろしてあげます。まずは妹さんのほうから」
「じゃあ、後ろの嬢ちゃんはオレがやってやるよ!」
シルキアが女性に抱えられる。
女性とは馬を挟んで反対側にいる男が、オレの後ろの子に両手を伸ばす。
嬢ちゃん、って言ったよな。
女の子だったのか。
まあ、だからなんだって話なんだが。
シルキアが地面に立ち、オレの後ろにあった気配も消えた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
素直に感謝して、女性に身を任せる。もしも健常なときだったら、自分で降りれますから!と恥ずかしさを覚え抵抗していただろう。しかし今は、とにかくありがたい気持ちしかなかった。
それほど、満身創痍なのだ。
地面に立つと、すぐにシルキアがくっついてきた。
オレは頭をぽんと一度撫で、その手で妹の右手を握る。
「では、これを」
女性が腰に提げていた小さな革袋から、銅貨を一枚取り出した。
受け取った男性が満面の笑みで「確かに!」と応え、灰馬の手綱を掴んだ。
あ、そういえば!
オレは勢いよく俯いて、自分の腰辺りを見た。
女性が革袋を弄る様を見て、バチッと思い出したのだ。
グレンさんから受け取った革袋のことを。
……よかった。ちゃんとある。
町から逃げてきて、ずっと、過酷なことの連続だった。
だからすっかり頭の中から存在感がなくなっていたが、グレンさんから渡された革袋は変わらずズボンの腰紐に括り付けてある。
よかった、失ってなかった……。
安堵しながら、落ち着いたら中身を確認しないとな、と心に留める。
「行きましょう」
歩き出す、女性。
オレは妹の手を握り直した。
※
村の様子は、とても和やかだ。
《コテキ》が……近くはないが遠くもない町が、魔族の襲来を受けたとは思えない様相。
……コテキで上がった煙が、あの何本もの黒煙が、見えてないのか? 誰も?
村人は、誰も慌てていない。焦ってすらいない。
誰しもが自分の日常を送っている。
……なんか、モヤッとするなぁ。
村の人たちは何も悪くない。
頭ではわかる。
ただ自分たちの日常を送っているだけだ。
でも。
でも……なぁ。
こんなもの、なんだろうか。
自分たちが見聞きできるところで問題が起きたわけでなければ、いつもと変わらない日常を過ごす。
人間とは、それほど鈍い生き物だろうか。
……そんなものか。
そうだ。オレたちだって、ずっとそうだったじゃないか。
魔族との戦いは、これまでもずっと起きていた。
国土のどこかでは、日々、繰り返されていたことだ。
いや、別に問題っていうのは、何も魔族との争いだけじゃない。
国の各地では、酷い自然災害が起きてもきた。
そのたびに……何か大きな問題が起きるたびに、一応、町役場やギルドに情報は流れてきていたし、町民にもそれは伝えられた。オレも町の外の問題についていろいろ聞いたことがあった。
怖いねぇ。
心配だねぇ。
可哀想だねぇ。
そうやって、みんな、話していた。
話しながら、ある者は洗濯物をし、ある者は日向ぼっこをし、ある者は食事をしていた。
みんな、自分の生活に直接関わることではないから、惨事を語りながら日常を続けた。
この村のこの様子も、それと同じだ。
《コテキ》が破壊されようが、この村の日常とは直接関係しない。もちろん商売の付き合いとかはあっただろうからそういった問題は生じるだろうが、今すぐ何がどうなるわけではない。だから、昨日と同じ日を繰り返す。
何もおかしなことはない。
それが人というもの、人の営みというものなんだ。
……教えたほうがいいのかな。
魔族の襲撃を受けたことを。
空を見上げれば目に入るあの黒煙は、恐らく戦場であることを。
村民の誰かに言ったほうがいいのだろうか。
……どうなんだろ。言えば、怖がらせることになるだけか?
魔族襲来によって《コテキ》が破壊されたと言えば、さすがに動揺が走るだろう。 大人たちは昨日と同じ日常をやっている場合ではなくなるはずだ。
早く避難しよう、となるかもしれない。
……せっかくの日常、わざわざ壊しちゃダメかな。
早く逃げたほうがいい。
逃げるのが早ければ早いほど、命が助かる確率が上がる。
でも、魔族がこの村に向かっていないのに逃げるということは、何も問題が起きていないのに村を、故郷を、日常を捨てることにしかならない。
オレが下手なことを言ってしまえば、そのせいで、穏やかなこの日常が壊れてしまうことになりかねない。
いいのか、それで。
予防は大事だ。だからといって、病気から身を守るために外出なんて一切しないのは、明らかに間違っている。
……わからないな、何が正しいのか。あの人に任せればいいか?
《コテキ》が魔族の襲撃を受けたことは、助けてくれた女性には伝えてある。
村民に伝えたほうがいいことであれば、カノジョが言ってくれるんじゃないだろうか。
だってカノジョは、悪党どもを容易く射殺すほどの弓術の使い手で。ここに来るまでの間には、魔族との戦いについて詳しそうな発言だってしていた。間違いなく相当な場数を踏んでいる……。
オレなんかよりも、判断能力が高いに決まっている。
「――ここです」
ああだこうだと悩みながらも足は動かしていると、ふと女性が立ち止まった。
そこは、木造の二階建ての住居の前だった。
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