1部3章 逃げる先でも災難 1

 魔族を燃やし滅した炎――ルシェル=モクソンの、炎と見間違うほどの華美な赤橙のドレスのなびく様が見えなくなったとき、胸の内に安堵が広がった。

 それは奇妙な、極めて奇妙な感情だった。

 魔族から助けてくれた人がいなくなることに安心するだなんて……。

 でも、その安心は確かに胸に広がったもので。

 その感情は、なんら間違いのないもので。

 ただただ、自分自身で納得のいかない、気持ちの悪いものだった。


 ……まあ、いい。とにかく今は、早く動かないと。

 何はともあれ、助かった命。

 モタモタしていたら、また、何が起きるかわからない。

 安全を確保できたのなら、それを失わないうちに次の行動に移るべきだろう。

 オレは妹が隠れている大木の洞へと近づいていく。


「シルキア、シルキア、もう大丈夫だ。出て来られるか?」

 洞前に屈みこんで、中を覗きながら両手を差し出す。

 両手で頭を覆って両膝を立て、土中で眠る幼虫のように丸まっていたシルキアが、眉間に細かな皺がたくさんできるくらい強く瞑っていた両目を開けた。

「お兄ちゃんっ!」

 四つん這いになるや、すぐに両手を伸ばしながら抱きついてきた妹。

 オレはまず両肘の辺りを掴んで少し引っ張り出してあげてから、カノジョの両脇をしっかりと持って抱きかかえながら立ち上がる。


「怖かったな、怖かったな、でも、もう安心だ」

 首に華奢な腕を絡めて密着してくるシルキアの薄い背をポンポンと優しく撫でながら、言い聞かせるように……自分にも言い聞かせるように繰り返し呟く。

 ギュッと、これ以上は密着のしようもないのに身動ぎしてさらに抱きついてきたシルキアは、今は自力で歩くこともできそうになかった。

 オレは妹を抱きかかえたまま、辺りを見回し、方向を決めてから歩き出す。

林を抜けて《イツミ川》へと出るために。


               ※


 とくに何事もなく、川へと出ることができた。

 ……まだ赤いのかよ。

 川はまだ赤く染まっていた。むしろネルと見たときよりも濃さを増しているような気がする。濃さと言えば、臭いもキツイ。血の、独特な臭いだ。

 ……それに、たくさん、流れてるし。

 黒いものが、肌色のものが、肉っぽいものや臓物っぽいものが、見える。

 幾つも、幾つも、幾つも。


「シルキア。目、瞑ってて。なんなら眠っててもいいぞ」

「ん~ん」妹は首を左右に振った。けれど、オレの胸元に顔を埋めてはいる。

 眠りはしないけれど、顔を上げるつもりもないようだ。

 それならそれでいい。

 こんな気持ち悪く恐ろしい光景を見せたくなかっただけだから。

 この不快な臭いも、オレの身体に鼻をくっ付けていれば、そう意識しないで済むだろう。


 ……渡ったほうがいいって、言ってたよな。

 対岸に渡ってから、しばらく真っ直ぐ進んで、上流のほうに行け。

 そう、炎のカノジョは言っていた。

 上流のほう、つまり、ここから最も近い都市で最大規模である《リーリエッタ》に向かって、と。そこで再会しようと、約束を交わしたのだ。

 その約束は果たさなければならない。


 ――ルシェル=モクソンは殺さなければならないから。

 ――あの力を使う者を生かしておいてはいけないから。


 …………殺す? 

 ……違う。

 違う違う違う!

 何わけわかんねぇことを。

 クソ!


 頭に浮かんだことに困惑する。

 さっきから、本当に、意味がわからない。

 カノジョは救ってくれた人なんだぞ。

 カノジョは命の恩人なんだぞ。

 殺すだなんて、そんなこと、していいわけがない。

 ましてや、殺さなければならない、なんて言い方をするほど、オレには何もないはずだ。

 〇〇しなければならない、だなんて。使命や責任の持つ者が使う言葉なのだから。

 オレにそんなものは、ない。

 カノジョ相手に、そんなものなんて……。


 もう、思い浮かんでも、意識して無視しよう。

 頭がどうにかなっているとしか思えないことなのだから。

 ……とにかく、渡るにせよ渡らないにせよ、上流のほうに行けばいいってことだよな。

 上流のほうへと顔を向ける。

 黒煙が幾筋も上がっていた。黒煙は上空へと伸びていくにつれ一体化し、青空を鈍色へと変えている。

 ここから《リーリエッタ》までのあちこちで戦いが起きていると言っていた。あの黒煙は戦いの証だろうか。あの筋の数だけ、戦場ができているということだろうか。


 ……ネルは大丈夫だろうか。

 馬車も多分、《リーリエッタ》に向かっていると思う。

 町からは馬車であっても到着するのに一週間はかかるはずだ。

 あの黒煙に、戦火に、巻き込まれていなければいいが。


 ……モエねぇは、どこにいるんだろう。

 モエねぇが町を出て、まずどこへ向かったのかは、そういえば聞いていない。

《リーリエッタ》のほうに向かったのか、もしくは別の方角へ進んだのか。

 いや、どちらにせよ、安心安全という状況ではないだろう。

 モエねぇだって、旅立ってからまだ一日やそこらしか経っていないのだから。

 むしろ、ちょうどあの黒煙の辺りにいそうで、怖い。


 もし、もし死んでたら……。

 ゾッとし、ぶんぶんと頭を振って否定する。

 考えるな、そんな恐ろしいこと。

 考えるな。


 とにかく今は、自分たちのことだ。

 まだ到底、安全とは言えない。

 自分たちが、せめて妹だけでも、安心できるまでは己のことだけに集中しよう。

 川を見て、黒煙を見て、また川を見て、オレは川へと近づいた。

 戦場には近づかないほうがいい。遠回りできるならそうしたほうがいい。当然のこと。


 川岸に立つ。

 真っ赤な川を見下ろす。

 水底は見えない。どれほどの血が上流のほうで生み出されているというのか。

 草履の裏で、ソッと、水面に触れてみる。

 波紋が立ち、消える。


 ……何の反応もないけど、大丈夫だよな?

 水底まで見通せないせいで、仮にそこに何かがいてもわからない。

 だから怖い。

 肉食の魚とか、毒を持った貝とか、いないよな? 元々ここにはそんなもの生息していないはずだが、今は潜んでいないとも限らない。生態系は複雑で、不変ということはあり得ないから。環境が変われば、生物も変わる。人間だってそうだ。

 上流のほうから獰猛な生物が下りてきているかもしれない。

 下流のほうから危険生物が上がってきているかもしれない。

 可能性はある。全然ある、こと。


 悩んだ末、突っ切ることにした。

 身体はくたくただが、ここは鞭打つしかない。

 よく遊んだ川だ。いつもは、深いところでも、水位は臍を超えるか超えないかくらいだった。血が混じることで水量は増しているだろうが、それほどの変化はなさそうに見える。

 川幅も、ここはそう広くない。何度も歩いて渡ったことがある。

 行こう。


 シルキアを抱え直して、両手でギュッとしてから、深呼吸を一度して右足を踏み出す。

 ちゃぽん――足首まで赤い水に浸かった。「う」躊躇いが芽生える。けど、意を決した。

 次に、左足を前へ。次、右足。左足、右足、左足――。

 流れてくるものを意識しないで。

 対岸だけを見据えて。

 一心不乱に、少しでも早くと、足を踏み出していく。


「――はぁぁぁ」

 何事もなく渡ることができた。

 水中から出たところで、自然と長い息が漏れた。

 張り詰めていたものが、ほんのちょっとだけ緩んだ気がする。


「お兄ちゃん?」

「ん?」

「疲れちゃった? シルキアのせい?」

「そんなことないよ。お兄ちゃんは全然平気さ」

 ポンポンと背中を優しく叩き、少しでも温もりが伝わればと背中を優しく撫でる。


「……ごめんなさい」

「謝ることなんて何もないよ」

 本当に、何もない。

 シルキアはぐりぐりと、オレの胸に額を擦り付けてくる。

 何がなんでも、守らなきゃいけない。


 何がなんでも。

 生き残りたい。


 オレは歩き出す。

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