1部2章 イツミ川、バラバラで赤 1

 今日の寝起きはよかった。

 原因不明の吐き気に襲われるようなこともなく、オレは快適な夜明けを迎えられた。

「……くぁ~~~あ……ふぅ」

 布団の上で上体だけ起こしたまま欠伸を一回。

 隣からは妹のシルキアの寝息が聞こえてくる。覚醒の気配はまったくない。

 室内の明るさからして、どうやら今日もいつもよりは早起きらしい。昨日よりは遅い時間みたいだが、まだ寝ていてもいい時間だ。

 昨日は随分と早起きさせてしまったし、起こさないように気を付けないとな。

 なるべく衣擦れがしないように注意しつつ、存在感をできるだけ薄くしながら動く。

 立ち上がって、草履を履く。


 と、不意に、違和感。

 なんか……静かじゃないか?

 普段は聞いていたはずの音がない……みたいな感じ。

 その場で、きょろきょろと辺りを見回す。

 ……あ。

 父親のいびきがしないんだ。

 壁なんてないのかと思わせるほどうるさいあの轟音が、まったく聞こえない。

 違和感も大きいはずだ。


 いないのかな。

 もう守備隊の仕事に出ているのだろうか。

 それとも、何か別の用事で?

 そんな答えの出ないことを考えながら、部屋から出て行く。

 通路に出て、便所に向かう。誰もいないが、ほかの住人の発する様々な音はいつも通り聞こえてきた。だからこそ、父親のいびきがしなかったことへの違和感が大きくなる。

 用を足してから、長屋の出入り口へと向かう。


「……ん?」

 外に出ると、なんだろう、妙なものを感じた。

 いつもと違う。何が、というのはわからない。でも、昨日よりは、絶対に違う。

 周囲を窺いながら、今日もグレンさんの家へ向かうことにした。

 長屋の外壁に沿って歩を進める。今日は昨日よりも少し肌寒いな。


「――あっ」


 不意に、声がした。何かを発見したような声だ。

 ネルの声に聞こえたが……まさかな。

 こんな夜明けに活動しているとは思えない。カノジョがお寝坊だと言っているわけではなくて、今が早起きにしたって早起きなのだ。

 別人のものに違いない。

 となれば、仮に誰かへの呼び掛けだとしても、オレに対するものではないだろう。

 歩みを止めないで、先へと進んでいく。

「へっ⁉」

 いきなり、左手を掴まれた。

 変な声は出たし、全身がびくんっと震えた。

「なっんだよ!」と、勢いよく振り返る。


 ネルがいた。


「え? ネル?」

 まさかさっきの声が本当に親友だったとは。

「来て」と、ネルはこっちの腕を引いて歩き出した。

「え? は? なんだよ」

突然のことに対する不満を、相手のペースで事が運んでいることへの文句を口には出しつつも、逆らうだけ時間の無駄だろうからついて行くことに。

 連れて行かれたのは、すぐ傍の路地。

 ほかに誰もいない。建物の陰になっているため、さらに肌寒くなった。


「おはよう」

「ん、おはよ」

 挨拶をされて、オレは挨拶を返した。

「よかった、アンタが早起きしてくれて」

 よかった? どういうこだ。

「お前も随分と早起きだな」

「う~ん、起きたっていうか、起こされたっていうか」

「は? 起こされたなら、こんなところいていいのかよ」

 家事か仕事かわからないが、親に起こされたというなら、こんなところに一人でいる意味がわからない。何かをやらされるために早起きさせられたのだろうから。


「アンタさ、なんか、町、変だと思わない?」

 絞った声で、ネルが言った。

 表情は真剣そのもの。疑い深い眼差しまでしている。

「まあ、オレも長屋から出たとき、なぁ~んか、ん?とは感じた」

 具体的に何が引っ掛かっているのか。

 そこはわからないが。


 共感してもらえたことが嬉しいのか、ネルは笑みを浮かべる。が、それもまた、すぐに真剣な面持ちに変わった。オレには、ただ違和感があるというだけで、真面目でいなければならないなんて気持ちはない。しかし、カノジョは違うらしい。

 何か、緊張感すら伝わってくるほどの態度でいる理由が、あるのだろうか。


 ネルは一度、広場のほうに顔を向けた。人の有無を確認したのだろうか。

「あのさ、父さんと母さん、朝からバタバタしてたのよね」

 身を寄せてきて、一段と声を潜めての発言。

 パッと見、昨日と同じ服装のネルからは、薄らと汗の匂いがした。きっとオレからも同じような臭いがしているだろう。

「バタバタって、普通に仕事なんじゃねぇの?」

「ん~、それはそうなんだけど、なんか、いつもと違って怖かったの」


「怖かった? 何お前、朝からめちゃくちゃ叱られたの?」

「バカ違うわよ」

 べしっと、ネルがオレの右太ももを平手打ちした。

「何すんだよ」

「うるさい。叱られてないし、叱られたくらいで怖いなんて言わないわ。子どもじゃあるまいし」

「……はいはいそうですね」

 オレたちはまだまだ子どもだろ、なんてツッコミはしない。

 したところで機嫌を損ねるだけだし、話が逸れていくだけだから。


「怖かったっていうのは、そうね、緊張してる感じっていうか、そういうやつよ」

「緊張ねぇ。それ、張り詰めてるとか、そういうこと?」

 カッと、ネルの大きな目がさらに大きく見開かれた。

「そうっ、それよっ」

 張り詰めている。

 そういう雰囲気をまとっている人は、確かに怖いかもしれない。

「……ってことはさ、おばさんとおじさんに何かあったってことだよな? お前の家、昨日と違って何か問題が起きたとか、ないの?」

 ネルが難しい顔をして唸る。すぐに、ふるふると首を振った。

「私はわかんないわ。それに、多分、家のことじゃないと思う」

「じゃあ……もしかして、町のこと?」


 ネルとの会話と。

 長屋を出て感じた違和感とが。

 今、じんわりと繋がった気がした。


「私もそう思ってる。何か大事なことが、大人たちの間で起きてるんだわ」

「……あ。だからオレの父親もいなかったのかな」

 いつもなら、まだ盛大にいびきを轟かせている時間。

 それなのに、まったく聞こえてこなかった。

 その違和感の答えが見えてきた……のかもしれない。

「父さんと、ニアおじさん、ってことは、守衛隊が動いてるのかしら」


 オレは、ふと、閃いた。

 守衛隊が動いている、というネルの言葉がキッカケだろう。


「イツミ川……」

 閃きは、言うべきか言わないべきか考えることなく、口から零れた。

「え? 川がどうしたの?」

 当然、ネルは興味を示す。

「昨日さ、グレンさんに言われたんだ。許可を出すまで川で遊ぶなって」

「つまり、川で何か起きてるってことよね。グレンさんが無意味なこと言うわけないし」

「そうだな。で、多分、危険なことだ」


 守備隊は、その名の通り、町の治安を維持するための行政組織だ。

 治安を乱す何かしらが起きたときには、率先して対処するために隊士が動く。

 オレの脳内では、多くの情報が繋がった。

 昨日言われた、川に行くなというグレンさんの言葉。

 守衛隊勤めであるオレの父親がいなくて、ネルの父親も様子がおかしい。

 そして、町に対する違和感。

 何か、町を乱しかねない事態が発生している。


「……ねえ」

「ダメ」

 ねえ、に込められたものが、オレにはわかった。

 物心ついたときから長い時間を過ごしてきたから……かもしれない。

 そして、オレに見透かされていることが、カノジョにはわかっただろう。

「じゃあいい。一人で行ってみるから」

 ほら、カノジョもわかっていた。

 オレは溜息を吐く。

「……バカ。一緒に行ってやるよ」

 危ないってわかっていて、カノジョを一人で行かせられるわけがない。

 ネルはニカッと笑う。

 オレが折れることも、わかっていたのだろう。

 ……ったく……。

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