第2話 引っ越し

 中田なかたりつ二十七歳。地元のショッピングモールの事業管理部で働いている。担当は主に150ほどある専門店の管理。各店舗の売り上げ、集客イベント時の雑用、客や専門店からのクレーム処理、事務処理のアルバイトの教育管理など、簡単に言うとなんでも屋だ。本部は不動産会社で、時々来社する統括部長には緊張していまだに胃が痛くなる。特に叱られる訳ではないのだが、とにかく律は気が弱い。上司が他の社員を叱っていたらそれだけで心臓がドキドキする。以前入社して初めて任されたアルバイトのシフト作成でミスをしてしまったことがある。正直に言うと、シフトが気に入らなくアルバイトにボイコットされたのだが、三日間バイトが不在で代わりに律が事務処理をすることになった。事務処理といっても館内放送、呼び出しやイベントのお知らせ、問い合わせの電話対応などてんやわんやになったのは言うまでもないのだが、それを上司には自分のミスだと言い、こっぴどく注意された過去がある。それ以来、上司には「中田、ちゃんとやってるか?」と声をかけられるようになった。特に厳しい声色でもないのに、律は背中に針金が入ったようにビッキーンと体が硬くなってしまう。

気が弱いというか、優しいのだ。叱られるのは勿論嫌だけど、誰かが叱られるのも、人が怒りを生み出すのも嫌なのだ。誰かと争ったり競ったりも苦手だった。


◇◇


 律には4歳違いの姉、玲央れおと母、かおるがいる。怜央は大阪でトリマーをしていて、一人暮らしをしているが、それまでは家族三人で今の家で暮らしていた。生まれたのは東京。律が小学校入学と同時にここ滋賀に引っ越してきたのだ。律は東京での生活はあまり覚えていない。当時はハイツに両親と姉の家族四人で暮らしていた。律の心に靄っと雲がかかる前の話になる。



 父、恒靖つねやすは小学校の教師をしていて、母、薫は子供が生まれる前までは美容師をしていた。小さな二階建てのハイツに四人が暮らし。毎朝父を見送り、姉の怜央は小学校、律は保育園が日課だった。律は朝の幼児向け番組や戦隊ものが好きで、見始めると集中して朝ご飯を食べるのも忘れるような男の子だった。

怜央が小学校に入学したこの年の夏休み前。一学期の終業式の日の朝、薫は怜央の長い髪を編み込み両サイドにお団子を作ったヘアスタイルにし、夏の暑さをしのげるよう可愛くアレンジしてやった。その間、律は戦隊ものの番組に夢中だった。テレビの前で戦う様子を一緒に、や!とう!しゅ!などと言いながら飛んだり跳ねたり主人公のように戦っていた。怜央と同じ小学校の六年生を担任している恒靖が一足先に家を出る。


「行ってくる!」


 玄関に向かい携帯電話を握ってバタバタと歩く。薫が「気を付けて」と声をかけ、鏡越しに怜央が恒靖に手を振りながら「おと~ん行ってらっしゃい」と見送った。中田家では父親を『おと~ん』母親を『おか~ん』と当時は呼んでいた。おとうさん、おかあさんがまだ上手く言えない幼い頃に頭とお尻だけ発音できて途中が聞き取れない、そんな風に呼び始めたのが定着してしまったものだ。勿論、律もそれを見習って同じように呼ぶが、三歳ではおと~ん、おか~んでさえまだままならない発音だった。


「律、行ってきます!」そう言って恒靖は玄関扉を半分開け振り返ったのだが、テレビに夢中な律の耳には届いていなかった。また無視か、と苦笑いして恒靖は急いで出かけて行った。そして、その日が家族四人で過ごした最後の朝になった。

 怜央は薫に編み込んで作ってもらったお洒落なお団子ヘアで終業式に出ることも無かった。


恒靖は交通事故でその朝亡くなった。





◇◇ 


 蝉がジージーと鳴き、バサッと飛び立つ音がする。七月に入りめっきり夏らしくなった。梅雨明け宣言はまだないのに、随分雨が降らず毎日暑くて仕方がない。律は暑さで毎朝五時半には目を覚ましていた。今日は遅番で十一時出勤なのに、もう少し寝ていたかった…と悔しがるのがこのところの日課だった。

ショッピングモールは朝十時開店の夜九時閉店。通常の朝九時から夕方六時半の勤務と朝十一時半から夜九時半の遅番出勤のシフトになっている。通勤は車で三十分ほどなのだからもっとゆっくり寝ていられるし、昨夜はついつい配信ドラマ一気見して夜中遅くまで起きていた。見始めたら止まらなくなるのは幼少期から変わらず。しかし大人になった証拠に五話まで見るか四話までにするか検討はした。結果五話まで見てしまい、睡眠時間は三時間ちょっとになった。

 布団の中で壁に向いてスマホを弄りながらウダウダしていると、首筋をペロンと舐める親友が現れた。がくだ。岳は早朝からすこぶる元気で律の目覚めにいち早く気付いてやって来たのだ。

「ひゃっ」

と律が舐められた首を抑えながら上体を起こし飛び起きた。

「びっくりしたぁ、岳、キモイって」と岳を見ると長い舌をだしハァハァとこちらを見ている。その悪戯そうな微笑みを見ると叱る気にはなれない。そして決まって「散歩行くか」と言ってしまう。


 夏の朝は六時半にもなると犬にとっては暑くなるので岳との散歩は早起きが必須。そしてこれも気分転換にもなるし案外嫌ではなかった。グダグダとスマホを弄っていたのですっかり日も昇り六時前になっていた。玄関で岳にリードをつけ、律はスニーカーを履いた。壁のフックに掛けてある散歩バックを手にし、玄関のカギを開けた時、母に声をかけられた。

「りっちゃん、おはよう。岳と散歩?」

律が持つリードがピンと張られ、思わず律はこけそうになる。岳が薫に向かってヘラヘラと愛想を振りまいて、フサフサな尻尾で朝の挨拶をしていた。

「散歩行ってくる」まだ半分眠そうな声でそう言うと「待って」と薫がキャップを持って律の頭に被せた。

「頭ぼっさぼさ」と笑って「行ってらっしゃい」と背中をポンと叩き、岳にはお尻をトントンと撫でた。

 姉の怜央が大阪に住むようになって薫と律が二人暮らしをしてから、もう十一年になる。




 薫と律、怜央の三人が滋賀に引っ越してきたのは、恒靖が亡くなって三年後。律がこっちの小学校に入学するタイミングで今の家に越してきた。恒靖の母の実家が空き家で残っていて、そこを使って住まないかと義母の穂希ほまれに勧められた。律は保育園で父親が突然亡くなり可哀そうな子だと先生にも気遣われ、近所の人達も事故について触れないようにしていた。ただ律にとってはそれが過剰な気遣いに思え度々薫に問うていた。

「おか~ん、僕そんな可哀そうなの?」

「何が?」

「だってカズくんちのおと~んも居ないのに皆可哀そうって言わないんだよ。僕だけ可哀そうなの変じゃない?」

「ん~カズくんのお父さんは遠くに住んでるだけでしょ?」

「りこん?ってそういうことなの?」

「そうね、別々に暮らしていることかな」

「僕のおと~んもお空に住んでるから別々?おか~んとりこんしたの?」

「ん~離婚じゃないけど、そうねぇお父さんは先にお空に行っちゃったから、お母さんもおばあちゃんになって会いに行くまで待っててくれると思うよ」

「ふ~ん」律は結局理解したのか分からないが、そう返事をしてあとは聞かなかった。

その後も可哀そうな律君という形容詞がついて回り、律は自分が不憫ふびんな子なのだと思うようになっていた。何だか自分に自信が持てなくなり、戦隊ものを見てテレビの前で戦う真似をしていたのもすっかりやらなくなった。可哀そうな僕は誰も助けられない、とでも思っていたのだろうか。テレビの前でじっと見ていることが多くなった。

 ある日、怜央が学校で男子生徒にからかわれ喧嘩になったと担任教師から電話があった。恒靖の亡くなった事故の話でからかわれた怜央が反撃したらしい。怜央は恒靖の事故に関してはピリピリしてしまう。子供たちは小さいなりに色々と心に抱えているように思えた。恒靖が亡くなった場所から環境を変えた方がいいのではと考えていた薫は、義母の穂希に相談して引っ越すことに決めたのだった。

引っ越し先の家は旧家で敷地は広いが、築九十年以上は経っている木造の古い家だった。穂希が地元の知り合いの女性に管理を任せている父方の家で、彼女に何でも聞けばよいと紹介してくれた。今でも色々と世話になっている。

 その女性は『権田ごんだのおばちゃん』そう皆に呼ばれていた。見渡す限り田園風景が続く所と昔の商人が住んでいた町家が今でも残る旧市街地が隣り合ってとても長閑のどかな町だった。その町のほとんどの土地を管理しているのがこの権田のおばちゃんで、代々不動産で生計を立てていた家柄らしい。その割にそんな資産家らしからぬ庶民的な風貌で親しみやすいおばちゃんだと言われていた。ただ母の薫以外、怜央も律も直接会った記憶はない。

 その古い家を地元の工務店などを仲介してくれ、薫たちの気に入る古くてちょっとお洒落な今の家に作り変えたのだった。

 古い家の玄関は広く土間があり、入って直ぐの和室二つをワンルームにしてリビングダイニングにして貰い、縁側はそのまま残し庭とリビングを今は岳が行ったり来たり自由にしている。

一階のもう一つの和室に薫の部屋。二階にある二間はフローリングにして子供部屋に怜央と律それぞれの部屋を設けた。とはいえ、当時まだ小学一年生の律は殆ど薫の部屋で寝ていたのだが、中学に上がる前には自分の部屋を満喫するようになっていた。そして今もその部屋に律、一階の和室に薫がいる。



 薫は台所で卵をフライパンに割り入れ、目玉焼きを作っていた。トースターの食パンが焼け香ばしい匂いがしている。地元の野菜で作ったサラダが盛られた大皿がテーブルに置かれ、コーヒーカップを棚から出していると、玄関から「ただいま」と律の声がした。「ご飯できてるよ」薫が明るく答えると、岳が一番喜んで部屋に飛び込んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る