第5話 〈赤星病〉
◇◇◇◇◇◇ 少女の視点 ◇◇◇◇◇◇
私はもう動けなかった。
〈赤星病〉にかかって、〈巫女の家〉を出てから、何日たったのかしら。
もう、分からなくなってしまった。
病気の進行はとても早くて、私はもう後何日も生きられないと思う。
咳も止まらないわ。
その前に、飢えと渇きで死ぬ方が早いかも。
物貰い(ものもらい)をしていても、憐れみを抱いてくれる人は滅多(めった)にいない。
病気がうつらないように、離れていく人が大半だもの。
鉱山で働かされている奴隷の少年と、一瞬、目が合った気がする。
可哀そうな運命だけど、人のことは言えない。
同じくらい酷い人生だから。
ここに1日座っていても、何も施(ほどこ)しは無かった。
こんな場所では何も貰えないと、分かっているけど、もう身体が動かない。
動かす気にもなれないよ。
もう、三日も水だけだ。
それも泥水だった。
このままここで、人生が終わるのは確実だわ。
楽しいことは何も無かったな。
一度だけでも恋をしてみたかったな。
身を焦(こ)がす、燃えるような恋が良いな。
今は病気の熱で、身体が燃えるように熱いだけだわ。
笑えるね。
はははっ。
そのまま眠り込んでいたら、誰かに起こされた。
こんな真夜中に、伝染病の私に何の用があるの。
ろくなことじゃ無いのは決まっている。
この奴隷の少年は、鎖を切って逃亡してきたのだろう。
私をどうする気なの。
「君、このままでは、死んでしまうよ。僕にかけてみないか」
死ぬことは、私も分かっている。
この人に言われるいわれは無いわ。
僕にかける?
笑わせないでよ。
逃亡奴隷に、どんな未来もあるはずが無いわ。
でも、下手にコイツを刺激してはいけない。
きっと、やけくそになっているはずだから。
私は、干からびた唇を何とか動かして、答えた。
「怖い。嫌です」
掠れた声になってしまった。
もう、満足に話せない。
「大丈夫だよ。怖く無いよ」
奴隷の少年は、私の答えを完全に無視して、私の口にパンを押し込んできた。
声をあげさせないためなんだろう。
3日ぶりのパンは、噛むととても甘い。
そして、私は抱え上げられて、どこかへ連れていかれるようだ。
私は、「止めて」って、声を上げたけど、くぐもって声になってなかった。
パンを吐き出して、助けを呼ぶことが出来なかった。
パンが甘かったのと、誰も助けてくれるはずが無いのを分かっているから。
奴隷の少年は、私を犯すつもりだと思う。
どうせ殺されるなら、最後に女を抱きたいのだろう。
この少年は、誰でも良いと、私をさらったのだと思うけど。
本当に赤黒い斑点を触ったり、舐(な)めたり出来るのだろうか。
そっとしておいて欲しかった。
静かに死なせて欲しかった。
私は、パン一切れの値段の娼婦じゃ無い。
私の初めては、好きな人に捧げたかった。
こんなのは嫌だよ。
私は最後まで、男を知らなくても構わない。
知りたかったのは、恋なんだ。
私は、肥溜めの縁まで連れてこられた。
病気で感覚も麻痺しかけているけど、たまらなく臭い。
こんなところで、何をする気だろう。
正気じゃない。
この奴隷は狂ってしまったんだ。
私を縄で縛ってくる。
いよいよ正気とは思えない。
必死に抵抗するけど、弱った身体では無理だ。
縛られてしまった。
朝日が差してきたので焦っているようだ。
逃亡奴隷は見つかったら殺される。
「穴の先がトンネルになっていて、壁が開くんだ。壁の中にはきっと良いことがあるはずだ。このまま死ぬより何かして死のうよ」
訳の分からないことを喋っている。
壁がどうした。
このバカが。
「言うことを聞かないと、肥溜めに落とすよ。身体が腐って死ぬか。ウジ虫に、身体中を食い荒らされて、死ぬか。どっちも、嫌だろう」
脅迫(きょうはく)してきた。
肥溜めに落とされて、肥に溺(おぼ)れて死ぬのはあんまりだ。
そんな酷い死に方、聞いたことも無い。
私が一体何をしたって言うのよ。
ウジ虫に全身がおかされるのは、恐怖だ。
悪夢のような死に方だよ。
この奴隷は悪魔かも知れない。
私は泣いてしまった。
こんな仕打ちをされたら、誰でも泣くと思う。
私は恐怖に負けて、イヤイヤうなずいた。
私は、肥溜めの中に乱暴に降ろされた。
筋力が落ちた手で、必死に縄にすがりつく。
肥溜めの中に、落ちることを想像して、身体がすくむのを何とか抑える。
力を抜けば、本当に落ちてしまいそうだから。
縄を降ろされるのが止まった。
壁を見ると、本当に穴があった。
本当にあるわ。
あれ、狂っているんじゃ無かったの。
穴に潜り込んで、縄を上に放り投げる。
届かなかった。
態勢が悪いからだ。
「何やっているんだ」
奴隷の悪魔が、いらついて怒鳴ってくる。
病気なんだから、しょうがないじゃないの。
五月蠅い。
このバカ野郎。
縄を引き戻してもう一度だ。
肥溜めの中に浸かった、縄の先が異様に臭い。
また、涙がこぼれた。
3回目でやっと成功した。
私は、力を使い果たして疲労困憊(ひろうこんぱい)だ。
身体がとても辛い。
咳が出て、息も苦しい。
スコップと食べ物が降りてきたので、体力を振り絞って、何とか受け取った。
奴隷の悪魔を怒らせて、肥溜めに突き落とされるのは、何としても嫌だ。
最後に奴隷の悪魔が、降りてきた。
疲れ切った私は、無理やり引っ張られて、穴を進んだ。
穴の中を引きずられて行くと、周りがスベスベのものへと変わった。
明らかに、人の作った物だわ。
なにこれ。
穴の突き当りにも、スベスベの壁があった。
触っても、見た感じと一緒でスベスベだ。
石でもないし、鉄でもないものだ。
なにこれ。
塔の外側なのかしら。
不思議な壁を触っていると、奴隷の悪魔が命令をしてくる。
「このガラスみたいな所を触ってくれ。触り続けておいてくれよ」
私が指示どおり触ると、壁に穴が開いた。
私は驚いて、思わず「えっ」って声を出してしまう。
「吃驚しただろう」
奴隷の悪魔の言うとおり、とても驚いた。
吃驚し過ぎていて、自然とうなずいてしまう。
これは仕方が無いと思う。
まさか触っただけで、ツルツルの壁に穴が開くとは思わない。
奴隷の悪魔は、壁の中へ入ろうとしている。
私は、「あっ」って声を漏らした。
だって、ここに1人で残されるのは嫌だ。
こんなところで、一人ボッチで死ぬのは絶対にごめんだわ。
たぶん、気が狂ってしまう。
たとえ、奴隷の悪魔でもいる方がましだ。
「心配するなよ。君を置いてきぼりにはしないよ」
本当かな。
頼みますよ、悪魔さん。
私は、うなづくことしか出来ない。
ここにいても、どうしょうも無い。
先に進むしか無いのは、私にも分かる。
長いこと、悪魔さんは中を調べていた。
悪魔さんは、壁の穴の下に何か丸い物を置いた。
「ガラスみたいな所から手を離してくれ」
私は、恐る恐る手を離した。
壁の穴は、丸い物の分だけ閉まらなかった。
悪魔さんが、私を手招くので、隙間を這って壁の向こうへ入った。
ここにいてもしょうがないし、向こう側に興味もある。
隙間は割と大きかったので、簡単に通ることが出来た。
壁の向こう側は、とても大きな部屋だった。
小さな家くらいの大きさがある。
壁も床も天井も白くて、不思議なことに明るい。
眩(まぶ)しいくらい明るいわ。
部屋の中は、ガランとしていて、何も無い。
空っぽだ。
部屋の中には、丸い物の他は、長細い物があるだけだ。
何かは分からない。
見たことが無い物だ。
材質は、鉄でも陶器でも無いみたい。
肥溜めが、不思議な部屋に続いていた。
何か夢を見ているみたいで、現実感がないな。
それにしても、この不思議な部屋は何なんだろう。
ここで、行き止まり何だろうか。
悪魔さんは、どうやって、この部屋を見つけたのだろう。
悪魔さんが、パンを一切れと、お肉を千切ってくれた。
お肉を食べるのは、何日ぶりだろう。
良く噛まないと、胃が受けつけなくて、戻してしまう。
それでは、あまりにもったいない。
お肉を噛むと、お肉の味が口一杯に広がる。
思わず、顔がにやけてしまった。
だって、お肉はやっぱり美味しいもの。
私は「ごちそうさま」と礼を言った。
見習い巫女としての礼儀は教わっている。
強引に連れてこられたとしても、言う必要がある。
伝染病の私に、施(ほどこ)しをしてくれたんだから、そこに対しては感謝しかない。
空腹はとても辛いんだ。
苦しいんだよ。
「どういたしまして、働いてくれたからね。それより疲れたよ。今日はもう寝よう」
いよいよか。
私は緊張して、心臓がバクバクと鳴っている。
若い男と二人切りでいるんだ。
本当に怖い。
誰かに助けて欲しい。
そんな人は、どこにもいないけど。
私はパン一切れの値段から、千切った肉も上乗せされたけど、そんな安い女じゃ無い。
パンとお肉を食べて、少しだけましになった体力が、続く限り抵抗してやるぞ。
体力がつきても、思い切り見下げた目をしてやるんだ。
みてなさいよ。
私は警戒しつつ、悪魔さんから離れた場所で横になった。
しばらくすると、悪魔さんが寝息を立て始めた。
あれ、寝たの。
意外だ。
もしかして、悪魔さんが私をさらったのは、この部屋に入るためだけだったの。
二人いないと、入れないからか。
良く考えたら、最初から私を犯すつもりは、無いのかも知れない。
病気がうつる可能性が高いから、そう考えても何も不思議は無い。
普通の人は、皆、そうだ。
私に近づきもしない。
こんな病気持ちの女を抱いて、病気になったら割に合わないか。
食べ物もくれたし、悪魔さんから奴隷さんに、変えてあげなくちゃいけないかな。
どっちも、嫌と言いそうだけど。
病気は、今も私を蝕(むしば)んでいる。
身体が酷くだるくて、関節も筋肉も痛い。
咳も止まらない。
でも私は、少しだけ楽になって、久しぶりに安らかに眠れたように思う。
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