Under the Storm スクーナー船パーシャンハウンド号の航海

清瀬 六朗

第1話 嵐の日の客

 コリンス船長はパイプで煙草をくゆらせながらセントローレンスの空を見上げた。

 空いちめんを覆うのは白い雲だ。意外と明るい。

 その下を黒いちぎれ雲が翔けて行く。雲は飛んでいるあいだに次々に形を変える。

 雨は降っていない。風はゆるく吹き続けるが、ときに激しく叩きつけてくる。

 嵐はそこまで迫っている。

 海の上は黒い。海は時化ている。

 港の桟橋さんばしにつながれた小型の船は、ともづなをしっかりと結んでいても、上へ下へと翻弄され、ふなばたが、桟橋にぶつかったり、隣の船の舷にぶつかったりしている。

 ふだんは、港には、これから船に乗ろうという客のほか、荷物を運ぶアジア人やチン人の労働者が行き交い、客や労働者を相手に食べ物飲み物や船上で使う日用品を売る商売人がたくさん店を出している。車が石畳を転がる音、人の大声、汽笛の音とさまざまな音が容赦なく美々に襲いかかってくる。

 その物音がない。

 かわりに、海から激しく波が打ち寄せ、ぶつかり、崩れる、大地の底から響いて来るような音があたりを支配している。

 いま港がしずまり返っているのは嵐だけが理由ではない。

 朝方、銀行強盗があった。馬車で開業前の銀行に乗りつけ、拳銃で銀行員を脅して金庫を開けさせ、金塊をさらって逃げるという手口だった。強盗犯どもが海に逃げ出すのを防ぐために港が封鎖された。

 しかし、銀行強盗は、銀行の刻印のある金塊を換金しようとしてあっけなく捕まった。それで港の封鎖は解除された。

 だが、このときはもう嵐が近づいていて、船を出せる状況ではなかった。

 船は出航を見合わせ、客たちは早々に宿を確保した。

 コリンス船長も、いま詰めた煙草が灰になってしまったら、宿に戻るつもりだ。

 「パーシャンハウンド号の船長、ジョージ・コリンさんですかね?」

 声をかけられてコリンス船長は振り向く。

 嵐の近づくこの港にはおよそ不似合いな盛装をして、蝶ネクタイを結んだ男が四人いた。

 それぞれ手に黒い荷物を抱えていた。いちばん後ろの男は大きめの荷物を背に背負っている。

 声をかけたのは、その先頭に立つ、頬から顎にかけて黒いひげを蓄えた男らしい。

 「ジョージ・コリンですが、何か?」

 「我々はヴァージル弦楽カルテットの者でして」

 「ああ、存じてます」

 コリンス船長はにこりともせず言った。

 ただパイプを口から離して手で持ち直しただけだ。

 「昨日の演奏会は盛会だったとか。ただ、残念なことにわたしにはその手の音楽がわかりませんので」

 コリンス船長に向かい合う男の後ろで、別の男が激しく咳払いした。

 急げ、と催促しているらしい。

 「船を出してほしいのです」

 先頭の男がせっかちにコリンス船長に言う。

 「無理です」

 コリンス船長は簡潔にそう言って、港の上の空へと目を逸らした。

 「この海をご覧なさい。もうすぐ激しい嵐が来る。いまだって、ほら」

と首をねじって、顎ですぐ下の海を指す。

 「船底から船の帆柱の中ほどまで、それほどの高さで波が上下しておるんです。この倍は激しくなります。いま船を出してみなさい。港からそれほど離れぬうちに海の底ですよ」

 「コリンズ船長とパーシャンハウンド号ならできる、と、我々は確信しております」

 男は言った。

 「我々は、何があっても明日の昼までに次の公演地のコニディーに着かねばならぬのです。コニディーのサルタンの宮廷で昼食会があって、そこで演奏することが決まっておりますのでな」

 コリンス船長は気乗りしない声で言い返した。

 「だったら、明日の早朝、嵐が行ってしまってから、汽船の定期便に乗られることをおすすめしますよ。汽船の早朝便ならなんとか間に合うと思いますが」

 「乗れるという保証がない」

 先頭の髯の男が言う。

 「しかも、この楽器です。今日、ずっと定期船が出なかったことで、乗る客は多いことでしょう。ごった返す船にこれを持って乗ると壊されてしまうかも知れない」

 「だったら、嵐の海の湿気も楽器にはよくないと思うんですが」

 「壊されるよりはましです」

 コリンス船長は長く息をついた。

 「それに、うちの連中、あっちでもう酒が入って」

と、桟橋の向かいに並んでいる安っぽい店の一つのほうへ顎をしゃくって見せた。

 「ろくに船を操れやしません。それでも、よろしいですか?」

 髯の男が答える。

 「パーシャンハウンド号に、コリンズ船長のクルーです。風に逆らっても船を走らせる。最高の船、最高の技術だ」

 「いや。縦帆じゅうはんせんだったら、風上に向かって走ることぐらいどの船でもできますがね」

 コリンス船長は口をきつく結んで、うん、とうなずいた。

 「そこまでおっしゃるんなら、はい」

と、向こうの倉庫の前の樽に腰掛けて足をぶらぶらさせている少年に

「おーい!」

と声をかけた。

 それほど離れていないのに、大声で叫ばないと声が届かない。

 チン系らしいその少年は、帽子の後ろに垂らした辮髪べんぱつをぶらぶらさせながら走ってきた。

 「そこの水薙みずなぎどり亭にいるうちの連中に、すぐに集まるように伝えてくれ。テンプルなんぞはもう酔っ払って立てなくなってるだろうが、とりあえず連れて来いと言ってくれ。大至急だ」

とカネを握らせる。少年は全力で走って行った。

 「じゃ、荷物、船までお持ちしましょうか?」

 コリンス船長が髯の男が右手で持っている荷物に手を伸ばした。

 「あ、いや」

 男は慌てて首を振る。

 「だいじな楽器ですから、自分で持ちます」

 断るために左手を振る。その左手の手首をコリンス船長はつかんだ。

 男はぎくっとする。コリンス船長はその手をしばらく見つめた。

 「なるほど。音楽家らしい、柔らかい、繊細そうな手をしていらっしゃる」

 言って、船長は手を放した。

 「そういう方にはとりわけ辛い航海になる。それは覚悟してくださいよ」

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