第2話
アズとユカリのコンビがその仕事を受け持ったのは、三年前だった。シチュエーションに凝るタイプの神が依頼主だった。人助けをして死んだ老人が異世界で転生し、その異世界で若返り、彼がふわふわな動物と戯れたりする世界が見たいとのことだった。
その仕事を遂行するため、まずは実体を持ったアズが意図的に道路に飛び出した。そしてアズがユカリの運転する車に轢かれる前に、老人がアズを助けようと飛び出した。年齢の割に元気な老人だった。アズが突き飛ばされて、老人は車に轢かれた。ユカリが意識操作の魔導書を持っていた。使用した形跡はない。アズはその意味を理解した。
その後はいつもの変化する部屋での聞き取りだった。伝統的で日本的な一般家庭の部屋であくびをする老人は、アズを見るなり微笑んだ。畳の匂い。テレビはバラエティ番組がつけてある。
「お嬢さん、無事だったんですか。よかった。お洋服が素敵ですね。汚れなくてよかった」
「残念ながらあなたは亡くなっておられますわ」
ユカリが頭を下げる。きっかり九十度。それから、マニュアル通りの説明。老人はユカリによる説明を真剣に聞いた。自分の死に納得した様子だった。
「それで、お嬢さんたちは私の願いを叶えてくれると言うんですね」
老人は紳士的だった。アズは敬意を持つとともに、申し訳なく思った。もう死んでいる自分を助けようとして死ぬなんて。けれどその勇気は意味のあるものだと信じた。
「あの、お願いはありますか」
「故郷をね、見守りたいんです」
迷いなく老人が言う。話はケイコへと渡った。ケイコは資料を集めて、魂と老人の精神が耐えられる程度ならいいという旨をアズに伝えた。勇気の美しい老人の願いを、アズは一緒に叶えたいと思った。ユカリも同意してくれた。そのことがアズは嬉しかった。二人は仕事仲間で、そして親友である。
「三年です。三年だけ、あなたの故郷に滞在することができますわ」
老人にそう告げると、ユカリはなぜかサングラスをかけた。大きなボストンバッグはどこから持ってきたのだろうか。すっかり旅行気分だ。カードゲームは何が好きかとユカリは老人に問う。
生前の記憶がふっと降りてくる。家族や友達とよくアナログなゲームをした。記憶はまだ鮮明だ。この何気ない記憶もいつか薄れていってしまうと思うと恐ろしい。
アズは社内では新入りな方。一番最後に入ったのがユカリ。その前がアズ。先輩社員も社長も気にかけてくれる。たまに社長が内緒でくれるドーナツは、味こそしないものの食べると元気が出る。ボーナスな、と言ってこっそり持ってきてくれる。今度、ドーナツ片手に社員みんなでカードゲームをしたくなった。ゲームマスターはユカリにしようとアズは考えた。彼女はアズの好きなゲームをよく知っていた。まぐれに過ぎないのだろうが、アズにとってそれは嬉しいことだった。光る廊下を歩く。いくら強く足で床を踏んでも音がしない。
「なんと言いましょうか。……ノスタルジックと言いましょうか。なんか違うかしら」
老人の故郷に対して、ユカリが考えに考え抜いてそう評した。足を踏み入れたそこは、人のいなくなった集落だった。山が近い。トタンの倉庫らしき建物が風でがたがた音を立てている。
「もう誰も住まなくなって、こんなふうになってしまったんです。がっかりしたでしょう?特に長い黒髪の綺麗なお嬢さん、こんなに準備してもらったのにすみませんね」
「別に楽しみにしていたわけではありませんわ。あくまでも仕事ですので」
ユカリが見え透いた嘘をつく。季節に合っていない、むしろ真逆なサングラスは外された。雪が積もっている。足音を楽しむことができないのをアズは残念に思った。
「あのぉ、別の願いを考えるっていうのは……」
「ええ。ここには見守るものなど何もありゃしないですわ」
慌ててアズがユカリの口を塞ぐ。老人は笑った。美しい笑みだ。
「ここには何もないわけじゃあないんです。私の思い出があるんです」
ずっと帰りたかった。老人の言葉が、アズの心に染み渡った。
仕事を掛け持ちしながら二人は老人を見守る形になった。ダブルスキルがなんだ、という依頼の後やってきた二人に、老人は花の蜜の味を教えた。老人はまだ味を感じられるようだった。
帰社したアズはおにぎりを作った。妻の作った不恰好なおにぎりに似ている。そう言われた。最大限の褒め言葉だった。次の週アズがこしらえた大量のおにぎりはユカリがほとんど食べ尽くした。老人はユカリは孫に似ていると言った。ご飯粒を口の端につけたユカリのグッドサインに老人は微笑みを返した。
それから三週間後。鑑定スキルがなんだ、という依頼は簡単だった。トラックのハンドルを握った後老人を訪ねると彼は二人に歌を教えてくれた。耳に残るその歌を会社で披露すると社長がアズを褒め、戦後間もない頃の歌だと教えてくれた。
それから二ヶ月後。聖女がなんだ、という依頼は少し難しかった。通り魔の真似事はアズにとって辛いことだった。仕事を終わらせた後は老人と一緒に彼の好物だというスナック菓子を食べた。意外性にアズは驚くとともに、どこか遠い存在だった老人との距離が近くなった気がした。老人は味を感じられなくなっていた。悲しそうな背中は、あまり見たくない姿だった。
それから五ヶ月後。勇者のハーレムがなんだ、という依頼は難航した。人を殺した。仕事だった。いつまで経っても慣れない。それでも老人の前では気丈に振る舞った。すっかりアズたちと老人は仲良くなっていた。季節の彩りを老人は二人に教えた。アズは季節など仕事に追われて気にしたこともなかった。山の色彩は季節の表れだということを、アズは初めて知った。
それから四ヶ月後。気がつけば季節は一周していた。三人で俳句を読んだ。アズはうさぎについての俳句を読んだ。冬の雪うさぎは安直だとユカリに酷評された。雪が綺麗だった。
「あそこは綺麗な場所だけれど、どうしてそこまでここに固執するのかわからないゆ」
アズは社長にそうこぼした。社長は新聞を見たまま言った。聞けばいいじゃねえか。アズは社長に従った。
「ここには思い出があるんです」
アズが故郷にいる理由を尋ねると老人は目を閉じた。瞼の裏に映るのは何なのか、アズはわからなかった。思い出とやらかもしれない。そう思った。
「父さんに怒られてばかりだった幼少期。母さんに迷惑をかけた少年時代。色々なことを知った青年期。妻と息子と、ここで暮らした時期もありました」
「幸せなことばかりだったんですか」
アズの質問に、老人は目を細めた。まさか。笑う老人に、アズは首を傾げた。
「父さんの背中を見送ったこと。死んだ近所の友達。妻と生きた激動の時代。色んなことがありましたよ」
でもね。老人は前を向いた。冬の風が窓を叩いている。
「父さん、母さんと食べたご飯。お金を貯めて買ったレコード。疲れた時に口に入れるキャラメル。新しい命。家族で歌った歌。そうだ、大きくなった息子の背中は父さんに似ていた」
誰もいない場所。されど、誰かがいた場所。アズには誰かの笑顔が見えるような、そんな気がした。知らない誰かの、知らない記憶。温かい記憶。
「ここには思い出があるんです。ここにあった笑い声を、私は覚えている」
老人の故郷は美しい。知らぬ間にユカリが泣いていた。泣いていない、という彼女の主張には少し無理があった。
「いつかあの頃の笑い声が戻ってくるといいなあ」
誰もいなくなった場所を老人は見守っている。
春は風のように過ぎていった。仕事も忙しく、だんだん老人に会う回数も減っていった。仕事が辛い時もあった。そんな時は、ユカリが下手な歌を歌ってくれた。老人に教えてもらった歌だった。ユカリなりの優しさだった。
夏の日だった。老人に会いに行くと、彼の顔は曇っていた。老人の故郷には、スーツ姿の男性が何人か来ていた。
「あら、お客様でしょうか」
「いや、それがどうも違うみたいなんです。彼らはここを更地か何かにするつもりみたいで。お役人さんでしょうか」
アズは自分の頭を一生懸命に稼働させた。もしや、道路でも作るつもりじゃないだろうか。宅地にするつもりだろうか。ともかく、老人の故郷を壊すつもりなのではないだろうか。
「ユカリちゃん、どうしよう。このままじゃここがなくなっちゃう」
「幽霊のふりでもしてみましょうか」
死んでいるのに幽霊のふりとはこれいかに。ユカリがジャケットのポケットに手を突っ込む。スタンガンの感触。ユカリを気に入った神からもらったものだった。実際に使ったことがある。手慣れている。今なら、まだ止められる。
「彼らに危害を加えないでくれませんか」
何かを察知したのであろう。老人は二人にそう言った。
「私の願いは、故郷を見守りたいというわがままです。人に危害を加えてくれなんて頼んでいません」
アズは老人の意見を尊重しようと思った。ユカリの方は釈然としない様子だ。正体のわからないスーツ姿の一人が「落ち着く匂いだ」と言っている。匂いはもうわからないユカリだが、そんなにここが気に入ったのならそのままにして欲しいと願った。手は出せない。出したくない。
季節が秋になりかけた頃、二人は老人の故郷の建物が壊されることを知った。絶望感がアズを襲った。このままでは、老人の思い出がなくなってしまう。けれど、死んだ身である彼女たちには何もできない。せいぜい驚かすぐらいだ。あるいは、いっそ殺してしまうか。だが、そんな無駄な殺人を許すほどケイコや社長は冷たくない。彼らが温かい人間だというのを二人は知っている。きっとそんなことは許せないであろう。それに、彼らを殺してしまったその先をイメージできない。イメージできないということは、難しいということ。そして何より、そんな度胸は二人にはない。二人は小心者だ。
何もできないまま、故郷に重機がやってきた。人の影の無い家々は取り壊されていった。アズとユカリは仕事が詰まっていて、ようやく老人の元へやってきた頃には跡形もなくなっていた。言葉が出なかった。老人は寂しい顔をしていた。まるで思い出が無惨な音を立てて消えていくよう。ユカリは会社に戻ると泣いてしまった。悔しい。そう言ってしゃがみ込んだ。何も言わずにアズの手を握っていた。握る力は強かった。
やがて二人は老人を訪ねなくなった。無責任にも辛い現実から逃げた。行く理由もあまりなかった、というのもある。秋の色彩が瞳に映り、冬の木枯らしが吹く。枯れ葉が落ち、やがて葉がまた街を彩る季節になってようやくきっかけができた。社長の気まぐれだった。
「お前らが言ってた爺さん。確か故郷にいるんだろ?俺、一回見てみたいんだわ。その故郷ってのをさ。写メってきてくれねえか?」
突然カメラを渡されて困惑した。黙っていると社長が切り札を出してきた。社長命令。そんなことを言われたら、二人は足を運ぶしかない。沢山撮ってきますから、ボーナスは期待してもよろしいですね。ユカリが言うと、社長は気取った笑みを返した。ケイコはただ微笑んでいた。出発する時、事務作業の手を止めてまで見送りに来たケイコと社長の姿に背中を押された。
老人の故郷では、何かの建設が進んでいた。機械音。木を伐採する音。ユカリは不愉快そうだった。老人は空を見上げていた。駆け寄ると、老人の優しい顔がアズを見た。
「あの、ですね」
アズは反抗する喉をどうにか動かして言葉を発した。
「あの人たちに、帰ってもらいませんか」
真剣な眼差し。老人は細まっていた目を見開いたあと、微笑んだ。子供に対する笑顔だった。ユカリがぽかんとする。アズも口を大きく開けた。
「なんで笑ってるんですか。これでも私、色々できるんですよ」
老人が声を漏らして笑う。「違いますよ」と温かい声で言う。二人は老人の考えが理解できなかった。
「だって、このままじゃここが無くなっちゃうんですよ!」
声が強くなったアズにユカリも加勢する。そうですわ。あの方々はきっと悪人ですわ。そんな決めつけた言い方。でもユカリにとっては建設を進める作業着が悪人に見えていた。老人はまだ笑っている。
「思い出が消えるわけじゃないって気がついたんですよ」
諦めてはいけない。そうアズが訴えようとした時、老人はアズを遮った。アズもユカリも何か言いたげだった。
「お嬢さん方、よろしければ私のお迎えに来る時まで我慢していてくれませんか。そして私がここを発つその日に、ここの様子を見てください。きっとあなた方は笑顔になれる」
若干無理矢理に二人は帰されてしまった。老人が故郷に滞在できる期限の日。冬の日。そこに何があると言うのか。優しいから。ユカリは呟いた。優しいから、そんなことを言うんだわ。頭の中をゆっくり吐き出すように呟いた。
「ふーん。そんで、写真は無いってわけ?」
なんとなく濁った思いを抱えたまま帰社したアズとユカリに、新聞とにらめっこをしたまま社長は言った。アズは言われて初めてカメラの存在を思い出した。写真のことなど考える暇もなかった。アズが頭を下げ、ユカリが幼い子供みたいに拗ねる。
「じゃ、約束を果たす時までそれ持っとけ」
カメラを返そうとしたアズに、目も合わさず社長は言った。ケイコがなぜか嬉しそうにしている。そのカメラ、お父さんのお気に入りなのよ。きっとちゃんと仕事をできるようにあなたに預けているのよ。社長に聞こえないよう口に手を当ててケイコは言う。気遣いを理解して、アズに重たい感情がのしかかった。そんな自分の感情にアズは驚いた。
それから二人は老人に会わなくなった。老人にああ言われては何もできない。春が終わり、夏が来る。山が秋に染まって、二度目の冬が顔を出す。また温かくなって、台風が来て。そして気がつけば三年目の冬。老人と約束した冬がやってきた。アズがついこぼす。行きたくない。社長に聞かれていて、丸めた新聞紙で頭を殴られた。ケイコが怒る。お父さんそれ、お手洗いで読んでたやつでしょう。汚いわ。社長が反論する。それは昨日の話だ。
「あの、喧嘩はやめてほしいですゆ」
アズがそう言うと、社長はお前らがちゃんと仕事をしたらやめてやるよ、と返した。仕方なく重い足を動かして会社を出た。あの世から現世へ、光る廊下を歩く。アズの重い気持ちが行き先を少し狂わせた。少し離れた場所に出てしまったので、歩くほかなかった。駐車場のようだった。賑わっている。
老人の故郷へ向かう道は様変わりしていた。舗装されて、親子が楽しそうに歩いていた。ユカリが楽しそうな気配を察知して、旅行カバンを持っていけばよかったと冗談を言った。アズは混乱した。頭がぐるぐると回る。
久々の再会。老人は嬉しそうに二人を迎えた。大きな施設ができていた。木の温かみのある施設だった。記憶にある故郷の壊れそうな集落は跡形も無かった。
「これはどういうことでしょうか……?」
「ここはね、温泉施設になったんですよ。あの山から温泉が出ているのかな」
カップルらしき人影。観光バス。すっかり観光地になっていた。アズは口を歪ませた。
「これじゃ、故郷が無くなっちゃったようなものですよ!」
「違いますよ、よく耳を澄ませてください」
訝しげな目に、老人が微笑む。
「笑い声が聞こえるでしょう。この場所はやはり笑い声が似合う」
アズがハッとする。曇っていた頭が晴れる。透き通るような気分。アズと同じことに気がついたユカリが振り返ると、そこには親子三世代、仲良く温泉に入りに来た客がいた。
「また新たな笑い声がする。ここはまた誰かの思い出になる。素敵でしょう」
だから、満足なんです。そう言う老人の顔は快晴だった。アズがカメラを取り出す。シャッター音がして、液晶画面には知らない誰かの笑顔が映った。少しのブレが味を出している。山は白く染まっている。笑い声がする。ふふ、という上品なマダムの笑い声。あはは、という走り回る子供の笑い声。それらは美しかった。
「さあお嬢さん方、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。私をあの世に連れて行ってください」
アズは震えている。それは怒りによるものでも、悲しみによるものでもない震え。
「わかりました!」
爽やかな笑顔だ。
「お嬢さん、最後に一つわがままをいいですか」
暖色に照らされながら老人がアズを見て言う。アズはもちろんどうぞ、と言う。
「私がこれから行く世界は、笑顔の広がる世界がいいです」
勝手に唇が笑みを作る。依頼主は温厚な神だ。きっと幸せな世界を求めている。それに、アズには老人の行末は幸せだと確信する理由があった。
「きっとあなたは、笑顔を引き寄せると思います」
困り眉で老人は笑った。アズもユカリも笑った。
「……というわけなんですゆ」
「へえ、よかったじゃん」
満足げなアズに、ユウがノート型パソコンをいじりながら言う。カタカタ音がする。ケンは大きくあくびをした。あくびの終了を告げるようにコピー機が鳴る。
「はい、これあげる」
「ほえ?なんですかこれ」
差し出された紙束にアズがおどおどする。
「報告書。話を元にまとめてみましたー。俺すごいでしょ、褒めていいよ」
「わぁ!ありがとうございますゆ!」
「感謝いたしますわ」
輝く瞳でユウの作った報告書を見る。アズが紙をめくるたびにユウが笑う。ユウならではの無機質さとフォントの使い分け。覗き込んだユカリが違和感を覚えた。
「私たちの感情はいらないのではないでしょうか。報告書ですから」
ユウが社長を指差す。全員の視線は社長の方へ。本人は気がついていない。新聞に穴が開きそうなくらい活字を見つめている。クロスワードでもやっているのであろう。または数独か。
「読むのってどうせ社長でしょー?あの人、こういうの喜ぶよ。二人が清々しい気分で仕事を終われたって言うんならさ」
「どうしてでしょうか」
にやりと悪人のような顔をユウはして見せた。
「結構心配してたから」
これ、内緒ね。ユウが唇に人差し指を当てる。アズが不細工に笑った。
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