襲来






 午後の昼下がり、晴れ渡った青い空とまばらな雲、少し肌寒い空気に日差しが心地よい時間帯。

 弾むような足取りだった。少女は最高の気分だった。

 何故ならば自分の胸の中にあった最大の憂慮――師が自分を拾ったのは打算からではなかったか――が綺麗さっぱりなくなったからだ。


 ミスラは初恋の人からきっぱりと「助けたい子供」と断言されたことなどすっかり聞き流している。

 不都合な真実を自分に都合よく聞き流す技能は、恋する乙女の必須技能ダブル・シンクだった。


 レンとミスラが並んでヨミナガ市の大通りを歩く。ゴスロリを来た女装の麗人とその弟子の少女は、こうして並んでいると姉妹のように見える。それは大きな錯誤なのだが、端から見ているとレンの自己申告通りようだった。


「さて、飯はどうしたものか……弟子よ、食べたいものはあるか?」


 飲食物にこだわりがない、というより放っておくと本気で何も食べない師匠が、弟子にそう尋ねたのは本当に言葉通りの意味である。

 自分では食べたいものが思いつかないから、弟子の食べたいものを聞いているのだ。日頃からどのようにミスラが甘やかされているか、垣間見える光景である。

 そして少女はぐいぐい自分の欲望を発露させるタイプだった。


「では……久しぶりに師匠の焼いたオムレツが食べたいです! 甘いやつです!」


「さっき甘いもの食べたんじゃないか?」


「わたし、師匠の手料理はいくらでも食べられます!」


 食べ盛りのミスラは本当にいくらでも食べられる気持ちだった。今の時期は気温も湿度も低いし、材料も問題なくそろうだろうし、師匠が断るはずがないお願いだ。

 少女は豊富なタンパク質を求めていた。

 育ち盛りなのだ。


 仕方ないな、と言って片目を閉じてウィンクする師匠――やはりこの人は世界一の美少女なのでは、と真顔で頷くミスラ。

 道行く人も少ない時間帯だったから、ついミスラは空を見上げた。

 何かが見えた。


 黒い点。

 青空の彼方に見えたそれはぐんぐんと大きくなってきて。

 ミスラの身体に備わった感覚器が巨大な霊体を感知したのと、師が声を発するのはほぼ同時であった。





「――ミスラ! 下がれッ!」





 何かが垂直降下してくる。

 音を置き去りにして巨大な影が落ちていた。

 大きい。

 それは邪悪であり、それは強大であり、それは威容であった。

 暗黒の質量体。


 全身を鱗に包まれたそれは、空を覆わんばかりの翼を持った巨大な爬虫類だった。そいつには長い首があり、分厚く重厚な胴体があり、太く強靱な手足が二対四本生えていて、長い尾っぽがそれに続いている。

 その頭部はトカゲのようにも見えるが、鋭く尖った装甲で覆われた顔つきはむしろ刀剣を思わせる風情。


 あるいは、はるかな太古の時代に絶滅した恐竜――竜脚類と翼竜類を合成して、刃を混ぜ合わせたらこうなるかもしれない。総じてそれは地球の自然界に存在する生物に少しずつ似ていて、どこかが致命的に似ていない異物だった。

 蛇を思わせる鋭い瞳孔が、真っ直ぐにミスラを見つめていて。

 その存在を、デーモンハンター見習いの少女は生まれて初めて視認した。



――竜魔種ドラゴンの大型デーモン。



 黒鉄色くろがねの竜が、空気を引き裂いて機動する。

 翼長三十メートルにも及ぶ飛翔体は、その翼で編んだ術式で揚力を生み、体表で空間中のエーテルを操作してジェット推進する怪物だった。


 まるで地球の陸上生物が皮膚呼吸するように、竜魔種のデーモンは事象変換術を常時、行使することができる。それは生態としての異能であり、全身を奇跡で編まれた巨人的システムこそが竜魔種ドラゴンの本質なのだ。

 大崩壊以前の人類文明が製造していたジェット戦闘機にも似た巨影は、しかしながら、それをはるかに凌駕する質量の塊。


 ミスラが咄嗟に後方へ飛び退った瞬間、レンが跳躍――鞘走らせた刀を抜き放つ。その身に帯びた尋常ならざる高密度のエーテルが、剣杖ソードロッドの刃に乗せて振るわれた。

 事象変換術を行使。


 空間中のエーテルを刃に浸透させ、これをジェット噴射のごとく放出、関節の可動範囲を組み合わせた超高速の斬撃――居合抜きの要領で加速した刃が解き放たれる。

 刹那。

 ミスラの視界を塗り潰すように七色の光輝が爆ぜる。


 視覚が光に塗り潰された。

 何も見えない。

 防御術式〈光の盾〉を展開する。前方から押し寄せてくる衝撃波を少しでも逸らすために。遅れて爆音と爆風がやって来て、少女の身体は為す術なく木の葉のように吹き飛ばされた。


 ごおぉおおおおおおん、と轟音。

 何が起きたのかもわからないまま、建物の壁に身体が叩きつけられ、突き抜けるような衝撃が少女の身体に走った。

 痛い。

 息ができない。


 目と耳を一時的に潰された状態のミスラは、ボロクズのようになって地面に倒れ伏しながら、それでも手を動かして必死に立ち上がろうとした。

 だが骨は折れていない。精々、打撲がいいところだった。日頃からデーモン狩りを行い、人の域を超えたレベルアップした肉体構造は、超音速突撃の衝撃波を浴びてなお致命傷を負っていない。


 脆弱な感覚器である眼球や鼓膜すらその例外ではなかった。

 五感のうちの二つを麻痺させられた状態でなお、ミスラの鋭い霊的感覚は、土煙の向こうでうごめく怪物の霊体――そのエネルギーを感知していた。

 鋭敏な少女の感覚が捉えた情報を分析するならば、先ほど次のような事象が起きたことになる。


 レンの斬撃――高密度・高質量の物体を霊体ごと切り裂くための攻撃術式だ――に対して、竜魔種のデーモンはその体組織を爆裂させた。

 さながら反応装甲リアクティブアーマーのごとく弾け飛んだ鱗が、斬撃を受け止めて爆発。エーテルの爆圧と呼ぶべきものが押し寄せ、アサバ・レンの斬撃という

 幸いにしてレンは防御術式で無事だったが、頭から切断するはずだった竜魔はその勢いのままに地面と衝突。


 その衝撃波に吹き飛ばされ、ミスラは地面の前でもがき苦しんでいる。

 真っ暗な視界、耳鳴りだけに支配された聴覚。

 よろめき立ち上がった瞬間、どす黒い霊的密度の塊が、物理的な圧力を伴って少女を包み込んだ。


 凄まじい圧迫感。

 ボキボキと骨が折れる音。

 それは激痛と呼ぶのも生ぬるい地獄だった。


「うぁああぁあああああぁあああああ!!!!」


 今度こそ耳をつんざくような悲鳴をあげて、ミスラは意識を失った。

 巨大な竜の前脚でむんずと掴まれ、血を流して動かなくなった黒髪の少女――その痛ましい姿を見つめながら、黒鉄色の竜が嗤う。






『――――






 喉ではなく周囲の空気を震わせての発声。

 あらゆる生物機構が事象変換式と結びついている魔法の塊は、誰に聞かせるでもなく呟いて。

 異形の気配を察知する。


 先ほど自らの一撃で跡形もなく消し飛ばした人間――いや、これは人間なのか、と今さらに気づいて。

 邪竜はその首を眼下の地上に向けた。







 爆風で舞い上がった砂塵の中、砂埃塗れになった黒髪を揺らしながら、女装の麗人が立ち上がる。

 この期に及んでなお、アサバ・レンは無傷だった。


 彼が判断を誤ったとすれば、それはミスラの安全ではなく、巻き込まれた市民の安全を優先したことだ。

 斬撃を反応装甲で相殺され、その爆風で弾き飛ばされた刹那、彼は決断した。



――



 その行いは正しく超人的であり、英雄的であり、またそれゆえに常人には認識すらできない神域の術式起動だった。

 市街地の一角を崩壊させかねない巨竜の衝突――その衝撃波を半径百メートル圏内に広域展開した防御術式〈光の盾〉で受け止め、爆風を上空へ逃すように半球状のシールドを形成。


 地面にクレーター状の陥没を作るほどの超高速・大質量の運動エネルギー弾である。

 そして押し寄せる衝撃波による破壊は、突き詰めれば空気分子を介した絶大なエネルギーの伝播だ。圧縮された気体の波が、超高速で伝わってしまうのならば――そのすべてを遮断すればいい。


 衝撃波に耐えうる壁をエーテルの物質化で形成し、圧力を上空へと逃す。

 たったそれだけの絶技だった。容易く脆弱な家屋を破壊し、人体を破裂させるに足る威力の波はそうして、本来もたらすはずだった破壊を地上に与えることなく――ただ砂埃を舞い上がらせるだけで終わった。


 その数秒間が致命的だった。

 彼の弟子はデーモンの魔の手に落ちた。

 ミスラは今、黒鉄色の邪竜の指の中でぐったりとして動かない。



――俺は、



 血が凍るような悔恨と一緒に怒りがこみ上げる。

 ゴシック・アンド・ロリータの美青年は、氷のように凍てついた無表情で立ち上がった。右手には抜き身の剣杖ソードロッド、発動した「身体を清潔に保つ魔法」がその衣服と頭髪と皮膚に付着した塵を吹き飛ばす。


 黒い長髪、黒いゴスロリ、黒いガーターストッキング、黒いブーツ。何から何まで黒ずくめの女装の中にあって、その肌と剣杖の白銀だけがよりいっそう映える。

 異様であった。

 この大爆発に等しいクレーターの中にあって、その男はまったく流血していない。

 全身の筋肉は問題なく駆動する。人体を模倣した骨格も筋肉も無傷だ。


 竜魔種ドラゴンの大型デーモンが身じろぎした。その長い尾っぽがムチのように振るわれ、上から下に向かって振り下ろされる。

 速い。

 あるいは人間であれば、瞬時に叩き潰され血と肉のジュースになって終わるだろう。


 だが、しかし――アサバ・レンはすでに人間を超越している。

 跳躍、着地、疾走。

 どごぉん、と地響きを立て、尾っぽを振り下ろされた地面が陥没したときには、レンの身体は竜の身体の上を走っていた。


 邪竜の事象変換術が行使される。体表を流れるエーテルの奔流が物質的実体を伴い、ジェット噴射となって黒衣のデーモンハンターに叩きつけられる。

 一閃。

 そのジェット噴射を切り裂いた。


 膨大な運動エネルギーを帯びた粒子の濁流を真っ二つに引き裂いて、自身の身体に到達するよりも速く駆け抜ける。

 空気抵抗を打ち消す術式――音速突破の証すら残さず、ゴスロリ姿の剣士は竜の首に向けて疾走。

 背中を走り抜き、首を駆け上がって頭部に到達する。


『――なっ』


 身をよじる邪竜の目が、恐怖によって見開かれた。レンは剣杖の刃に自身のまとうエーテルを注ぎ込み、超高密度のエネルギー体として振るう。

 どぉおん、と大きな音。


 黒鉄色の竜がまとう鱗が反応装甲として炸裂する――瞬時に膨大な質量を帯びて噴射されるエーテルのジェット噴射は、戦車の主砲に代表される運動エネルギー弾すら打ち砕く。

 その身体を駆け巡るエーテルの流れそのものが、邪竜の血肉であり絶大な防御力の源なのである。


 だが、アサバ・レンの斬撃は

 剣閃。

 極超音速域に達する剣だった。

 それはエーテルジェットの濁流を、強固な分子結合の維持された体組織を、熱したバターのように切り裂く刃。


 深々と邪竜の右目をえぐった一撃は、信じられないほどの苦痛をデーモンに与えていた。翼長三十メートル、そこらの五階建てビルよりも大きな怪獣じみた巨体が、デリケートな感覚器を破壊された激痛に震える。


『うぎゃあああああああああああ!!!!』


 空気を震わせる悲鳴は、竜の喉ではなく体表から発せられていた。

 否、これは反撃。

 空気分子そのものを震わせ、衝撃波として放出する邪竜の事象変換術だ。

 衝撃波の塊を撃ち込まれる――防御術式で受け止めるも、流石に加えられたエネルギーそのものは殺しきれなかった。


 黒のゴスロリが吹き飛ばされる。

 空中で姿勢を整える。

 弾丸のように弾き飛ばされたレンは、百メートル先のビルに突っ込もうとしていた。


 生体コンクリートでできた雑居ビルの壁を蹴って着地。衝撃を強靱な足腰で受け止め、その勢いのままに壁を駆け上がった。

 屋上に飛び移る。

 邪竜を見る。


 ミスラをその前脚に握りしめた大型デーモンは、翼の揚力を使ってふわりと浮かび上がっていた。地球の重力を否定し、まるでこの世が無重力であるかのように振る舞う魔法の王。


 レンによってえぐられた右目から銀色の血を流す竜。

 彼我の距離は百メートル離れていた。百五十メートル、二百メートルとどんどん距離が遠くなっていく。

 呟いた。



「――覚えたぞ。おまえの魔力、おまえのにおい、おまえの色を」



 必ず追いかけて殺すという宣言。

 その空気分子の震えを聞き届けたのか――片目を奪われた黒鉄色の竜は、憎しみを込めた視線でレンを睨んだ。



『図に乗るなよ!!!』



 竜が吠える。

 それは信号弾にも似た意味を持つ、エーテルの波動。

 エーテルのジェット噴射をして音速を超え、邪竜の巨体が急速に遠ざかっていく。音速超過の証である破裂音を残して消えた竜を追跡しようとしたときだった。

 レンの目はこちらに集まってくる飛翔体を捉えた。


 それは翼竜の群れだった。

 トカゲのような頭、蛇のように長い首、コウモリのような前脚の名残ある翼、かぎ爪の生えた後ろ脚――中型デーモン・ワイバーンの編隊であった。

 それはやはり恐竜のように大きくて、身体の如何なる箇所も地球の翼竜とは似て非なる超常の生物。


 翼長十二メートルを超える中型デーモン、空を舞う影の数は三十体を超えるだろう。邪竜の眷属であろうそれらは、通常、ヨミナガ地方にこれほどの数、生息してはいない。


 つまるところあの黒鉄色の竜共々、何から何までありえないことが起きているのだ。

 女装の麗人は、凄まじい速度で自分に集ってくるワイバーンの群れを――つまらなそうに一瞥して。


「では死ね」


 ビルの屋上を飛び出して、機動術式〈光の翼〉を起動する。宙を舞うゴスロリ姿の男の動きに迷いはなく、その剣技は恐ろしいほどに冴え渡って。

 

 そして。






――〈斬伐者〉アサバ・レンの追撃が始まった。











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