白鳥
蜜蜂計画
上
これはもうだいぶ前の話になります。
まだ高規格道路が建設される前の、構想段階にあった時の話です。
そのころは南北へ抜ける道が全くなく、北の街への行き方はたった二つしかありませんでした。
一つは高規格道路に乗って一回西に迂回してそこから北の街へ行く方法、もう一つは下道を通ってひたすら北に登って行く方法です。
ケチな性分なので下道を使ってよくその街まで行っていました。
右へ行ったり、左へ行ったり、上がったと思ったら今度はまた下がったり…そんな忙しい道路をひたすらに走り続けていました。
所要時間は下道を使った方が長かったです。
でもそれ以上に高規格道路にはない楽しみがありました。
あまり車が通らない道だったので人の温かみが直に伝わりました。ああ、まだ僕は現実世界にいるのだなと安心したことも数えきれません。点のような大きさのヘッドライトが段々と大きくなっていってやがて二つになり、そして目の前に眩しく現れる…
そのなんとも言えない淡い優しさ、田舎らしい温かみのある白熱のヘッドライトと狭い山肌にそっと寄り添うように建てられる家、その全てが私の中の何かを愛おしく感じさせました。
時には、ここから先は雪がかなり積もるから気をつけた方がいいとか、この先は事故で渋滞しているだとか、少し車を止めて対向車と少しだけ話すこともありました。別に後続車からなんの文句を言われることもありません。だってそもそも後続車がこないんですから。
その北の街というのはここら辺と違って雪がたくさん降るもんですから、冬になると大勢のスキー客がそこに向かうのでした。
当時はスキーやスノーボードといった、雪山のレジャーが非常に流行っていたのでした。
僕もその一人で、毎年冬になって、少しの冬休みを使って毎年その街にあるスキー場に滑りに行くのでした。
元来、家族の仲というものは格別いいというわけでもなかったので、元日に家族と会ってからすぐにスキーに行ったのを鮮明に覚えています。
もっとも、今はもはやそんな気力すらありません。数時間車を運転するだけで腰を痛めてしまいます。
○
その年は例年のスキー旅行とは少し違っていました。
一つは友人とは行かずに、一人で行ってしまったこと。もう一つは、真冬にも関わらず雨が降っていたこと。
いつもとは違うそのフロントガラスに映る風景に違和感と面白さを感じたのを僕は覚えています。
基本的には冬の雪山レジャーというのものは複数人で楽しく、騒ぎながらやるというのが定石な気がします。
もちろん、私にも少ないにしても友人はいるものですから、例年はその人たちを連れてスキーへ向かうのでした。
けれども、その年は一人は流行りの風邪を引いてしまいやむなく断念、もう一人は足を骨折してしまい、スキーどころの話ではなく、今年は残念だけどやめさせてもらうよ、という辞退の通達をいただいておりました。
仕方なしに一人でその峠に車を走らせたのです。
別に私もスキーをしにわざわざ一人で行く必要もなかったのですが、どうもそれをしないと体に違和感が残ってしまいます。
その冬から春にかけて残るまるでパンツの前と後ろを間違えたかのような違和感を払拭させるためにも、それは必要だったのです。
とはいえ、真冬に一人で山道を車で走らせるなんてだいぶ体に負荷がかかります。
眠くなっても誰も起こしてくれる人もいないし、雨が降っていて積もっていた雪をシャーベット状にしてしまい、余計に路面状況が悪くなってしまいます。
さらに悪いことに、うっかり昼寝をしてしまい、いつもは昼前に家を出て行くところを今日は夕方近くになって出てしまうことになったのでした。
いつもはある程度明るい中での運転の峠道はもうすっかり辺りは暗くなり闇がその道を覆い被さるように鎮座していました。
頼りになるのは運とヘッドライトと数少ない対向車の存在です。
その三つの武器を頼りに峠の山道をひたすら上ったり下ったり、左に行ったり右に行ったり…ただひたすら運転をしていました。
僕は少し急いでいました。
なぜなら、この峠にはある一つの恐ろしい話があるのです。
当時は、客観的、科学的な実証に基づく考えなんてものは微塵もなかったものですから、まだまだ迷信深いという人はたくさんいた気がします。
実は私もその一人でした。
その峠は一部の界隈の人では幽霊が出るという噂になっていました。
けれども、その幽霊は少し面白くて、夜中ではなく夜明け前に現れるのです。
そしてその幽霊は崖の上で踊るのです。粛々と、淡々と、そして儚く。まるで決まりきった流れ作業のように。
それはまるでバレエを見ているようだ、と言う人もありました。
幽霊とは似つかないほど艶やかに踊るのです。
ひたすらに踊って、煙のように忽然と姿を消すのです。
実際に、僕の友人も朝焼けに照らされて悲しげに踊るその幽霊を見たことがあるという人が何人もいます。
僕は出来る限りその幽霊を見ないようにしようとする回避の心と、その見たことのない幽霊を一目でも見て見たいという好奇心の二つが自分の中でやじろべえのようにゆらゆら揺れてました。
峠をゆっくりと走れば必ずその幽霊が出るというスポットを朝焼けの時間帯に通ることができます。
けれどもその幽霊を見てしまったらもしかしたら自分の身に何かが起こるかもしれません。そこには先行きの見えない不安が存在します。
けれども若かりし頃の僕の自制心は好奇心には勝てませんでした。
そこで僕はスピードを少し緩めて少し溶けかかった雪道のR400のカーブをゆったりと弧を描くように曲がるのでした。
辺りは片側一車線のへなちょこ県道で、車の往来も極めて少なく、さらには街灯も全くなく、ヘッドライトを消してしまうと暗闇に囚われてしまうようなまさに文字通りの暗闇な所でした。
そんな所で、カーナビも満足に使えずに、さらに真夜中の眠気もあり、そんな慣れないような真っ暗闇の峠道で正しい道をいけるはずがありませんでした。
どこかで私は道を間違えてしまったのでしょう。本来はもう下り坂にいなければならないはずが上り坂にもう直ぐ差し掛かろうとしていました。
それにもうすぐ県境のはずです。そしてそれを越えれば小さな街があるはずです。しかし一向に経ってもその目標は現れませんでした。
いや、むしろ道幅はどんどん狭くなり、ついに片側一車線の道路から車一台すらも満足に通れない道になってしまいました。
もはやこんな道では引き返すこともできません。一旦車を止めて、どこかにUターンできるところがないのか探してみたりもしましたが、こんな道にあるはずもなく、本当に恐ろしかったのですが、腹を括ってアクセルを踏んで前に進むことに決めました。
時々ガサガサと側から伸びていたであろう枝をこする音を聞きながら、恐る恐るそろそろとその道を進んで行きました。ここで死んではたまらないですからね。
○
そんな道をもうかれこれ一時間近く走ったのでしょうか?今まで切通しのような道がずっと続いていたのに突然、道が開けました。
休憩がてら僕は開けた山の中腹の道の途中で車を止めて、降りてみました。
雨はいつの間にか上がり、真っ青な夜空が僕の真上を支配していました。
新月だからなのか空を見上げても寂しげな星空がチカチカと瞬いているのみです。その夜空はまるでメインディッシュのないフレンチのようでした。
雨あがりのその集落は本当に不思議な雰囲気を醸し出しており、それはなんとも表現し難い、まるで現世と極楽の間にいるようでした。
暗闇の中で目を凝らすと、どうやら谷間の少し下の方に民家がちらほらあるようです。
手狭な新興住宅街にあるような家ではなく、僕にはそこにある全ての家がどっしりとそして、長年の雨風にさらされ、大きく変色し、闇に溶け込むようにまるでその細く長い冬の夜を耐え抜こうとしている老人のように見えました。
道の状況から鑑みるに、先ほど僕が走っていた峠から山を挟んで反対側に来てしまったのでしょう。
——仕方がない…元来た道を戻ろう…
そう考えた矢先でした。
僕はある家に灯りが灯ったのを見逃しませんでした。
白鳥 蜜蜂計画 @jyoukai
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