聖母はヒトの眼を見て笑う

私情小径

聖母はヒトの眼を見て笑う

 サンタ・マリアが首を括った。

 僕だけが眠れない冬の夜、空に漏れる自意識だけが大きく白く拡がって、蕩けていくさまを見ていた。

「メリー・クリスマス、ミスター……あー」

「ナニガシ」

「ミスター・ナニガシ。夜の凍える街に理由を求める悪い子だ」

 声は夜から降りてきた。満天の星空とは対照的な、さして愉快そうでもない、男の低い声だ。神聖さなんてこれっぽっちの欠片もなく、間違っても天降りたなどとは讃えられない。かといって悪魔のような邪悪さが見受けられるわけでもなく、男はまるで人間のように、実に中途半端だった。きっとスーツのせいだろう。夜にすら浮くような漆黒のスーツはサンタクロースに相応しくない。それはたとえ、彼がブラックサンタであっても。

「こんばんは。うっかり屋さんのサンタクロース。クリスマスなら丁度ひと月前だよ。あるいは、十一か月も先の話だ」

「あん? はは。何を言うかと思えば。もちろん分かっているとも。いいかい、ミスター・ナニガシ。サンタはオフシーズンにも仕事があるのだよ。あと、今の私のことはミスター・クリスマスとでも呼んでくれたまえ。何度も言うようにオフシーズンだからね」

「はあ。じゃあその季節外れな挨拶は職業病というわけか」

「その通りだ。どうにも抜けなくてね。難儀なものだろう?」

 ミスター・クリスマスはおどけたように言って、僕の隣に音もなく着地する。

「……仕事って?」

「きみのような悪い子を見守ることだよ」

「……僕は悪い子か?」

「今はね。しかしそれを決めるのはきみ自身だ」

「……帰りのバスは取ってない」

 ミスター・クリスマスは肩をすくめる。ならば進めよと、彼は言外に告げた。そんなこと分かっているとも。

 いつまでもこんな奴に付き合っていては仕方がない。僕は男を無視して進むことに決めた。

「歩くのかい」

「他にどうしろと?」

「この数週間ずっと念入りに街を観光していたじゃないか。まだ歩くのかと思ってね」

「好きにさせろよ」

 本当にいやらしい奴だ。つけていたのか。

「気になってしまってね。きみはその気になればいつでも行動できたというのに、一向にそうしなかった」

「黙ってろよ」

「暇なのだよ」

「知るかよ」

「いいじゃないか。話を聞かせてくれよ、きみの話を。その方がきみにとっても都合がいいだろう?」

「そんなことは──」

 ──ない。と。僕は言い切れなかった。理由は分かる。きっと覚悟だ。ミスター・クリスマスが言うように、僕はこの数週間、何も成し得ないままだった。僕にはたしかに覚悟が足りていないのだ。

 けれど、だからといって彼の言葉に従う理由はない。

 なぜなら、彼に心などないからだ。僕にはそれが分かる。昔からそうなのだ。僕はなぜか、そういったものに人一倍敏感だった。

 大きく息を吐いて、僕は星を見上げる。冬の大三角。その内側こそがミスター・クリスマスの降りてきた場所。今、そこには夜がない。代わりにただ穴としか形容せざるを得ない便宜的な黒が、星空を犯すように詰め込まれているだけだ。そしてそれこそが、ミスター・クリスマスの正体に他ならない。ミスター・クリスマスは空虚だ。人を惑わす闇そのもので、言動は人間の猿真似に過ぎない。だから結局、従うだけ無駄なのだ。答えるだけ無意味なのだ。彼は泡沫の夢に過ぎず、僕が無視し続けていれば、いずれは消える特殊な自然現象でしかない。

 けれど、僕は違う。

僕は人間だ。

 澄んだ冷気の中心で、僕の内側にある吐き気のような体温が、たしかに渦巻いているのを感じる。それは彼が永遠に持つことのない、僕だけの血潮。僕だけの心だ。

「はは。ほら、言えよミスター・ナニガシ」

 ミスター・クリスマスは楽しそうに笑う。あからさまな嘲りを滲ませた、実に教科書通りの笑い方だ。彼は僕の肩に手を乗せて、馴れ馴れしく言葉を続ける。

「きみは今、分水嶺なのだよ。どうせ戻る気がないのなら、その一線を無様に踏み越える様を、その覚悟を、私に見せてくれたまえ。なあナニガシ。きみはそんな大きなシャベルを持って、いったい何を掘り起こそうというのだい」

 だから僕は、決して楽になりたいと思っているわけではない。誰かに打ち明けて重荷を降ろしたいだとか、罰せられたいだとか、そういうわけではない。ただ僕は、僕がこれからやろうとしていることと向き合うために、その覚悟を確かめるために、想いを口に出すだけに過ぎない。その覚悟で以て、ミスター・クリスマスとやらを退治してやろうと、そう思ったのだ。

「墓だ。墓だよミスター・クリスマス。僕は今から、愛したヒトの墓を掘り起こすんだ」

 好きなヒトがいた。優しくて、素敵で、触れた手が暖かくて、僕を見る眼が温かくて。その顔が、笑顔が、その眼が好きだった。口元を抑えて笑うその上品な横顔が綺麗で、僕はきみのそれを見ているだけで満たされた。十分だった。同じ教室で、同じ講義室で、ひとりぼっちだった僕に手を振ってくれたあのひと時が、きみの全てでもよかった。雪の降る街から共に上京した僕たちは、決してお互いのことを分かっていたわけではないけれど、それでも互いのことを、唯一特別な隣人だと思っていた。

 そうだ、僕は彼女のことを、聖母だと思っていたのだ。朗らかで嫋やかな、亜麻色の聖母だと。

 あの日までは、ずっと。

「片思いだな。気持ち悪い。それが墓を掘り起こす理由になるものか」

「……彼女は僕の眼を見て笑ったんだ。誰にも見せない笑顔で」

「自意識過剰、ストーカー。きみは犯罪者予備軍というやつだな」

 ミスター・クリスマスは努めて辛辣に振舞う。無論、ただのパフォーマンスだ。そこに明確な意思はない。

 この数週間は驚きの連続だった。小さな地元の街なんて、もうとっくに知り尽くしていると思っていたのに。

 だが蓋を開けてみれば、どうだろうか。知らない街角の、見たこともない石碑。行ったことのない喫茶店の、飲んだことのないコーヒーの味。知っていたつもりで、分かっていたつもりで、その実僕は何も理解していなかった。

 あの時、聖母が僕に微笑まなければ、僕はきっとこの街の虜になってしまっていたに違いない。そう思わせるだけの魅力が、この見知った街にはあったのだ。

「ふん、つまらないなそれは。きみは分水嶺なんてとっくに越えていたんじゃないか。私がちょっかいをかける意味などなかったわけだ」

「なら帰ってくれないか」

「残念だが、こちらは仕事を選べないのでね」

 どうやら、そんな簡単に消えてはくれないらしい。

 しかし、それも別に構わない。僕もようやく目的地に着いたのだ。ここで目的を果たせば、彼はすぐにでも消えるだろう。

「墓地だな。面白みの欠片もない」

 手に持ったシャベルを握り直す。汗ばんだ掌を自覚して、三度握り直した。

「場所は?」

「聞かれるまでもない」

 もちろん知っているとも。元はそのための数週間だ。観光はしても、準備に抜かりはない。

 明かりなど要らない。僕は迷うことなくその場所に辿り着き、そしてシャベルを突き立てた。

「お疲れのようだね、ミスター・ナニガシ」

「……消えろ」

「消えないよ。分かるだろう」

 ミスター・クリスマスは墓石の上で足を組む。肩で息をする僕を見降ろして、片手の爪を弄っていた。

「四十九日はとっくに過ぎてる。墓参りするところだって見た」

「いやあ実に面白い。人間とは何も入っていない墓にあんな熱心に祈れるものだったのだね。正直、本気で感心しているよ。ああ、もちろん、それに騙されて文字通り墓穴を掘ったきみのこともね、ミスター・ナニガシ。その墓にはきみが入るのかい? 今なら私が埋めてあげよう。サンタをただ働きさせられる唯一無二のチャンスだ。どうする?」

「──ッ!」

 気づいた時には既に身体が動いていた。大きく振りかぶった両手と、風を切る音。それを自覚した刹那、むしろ思い切り力を込めて、シャベルを振り下ろした。

甲高い金属音が鳴り、御影石にヒビが入る。けれど、それだけだ。ミスター・クリスマスに向けたはずのそれは彼の身体をすり抜けて、傷ひとつ負わせることはない。まるで初めからそこにいないかのように、彼はこちらの言動を意に介さない。

打ち付けた反動で手からこぼれたシャベルが、地面に落ちて音を立てる。

「怒るなよ。空虚の戯言だ」

「ク……ソ」

 その通りだ。ミスター・クリスマスは空虚。穴そのもの。今のはアツくなった自分の方が愚かだった。

 僕は気を落ち着けて、ふらりと、墓穴の隣に座り込む。思ったよりも体力を消耗した。伽藍洞の穴など目を遣る気力もなく、ただその無意味な深さだけを指先に感じ取っていた。

「さて。それでどうする? 埋め直すのか、きみが入るのか。あるいは──」

「──マリアは僕の眼を見て笑ったんだ。彼女は僕に微笑んだんだよ。僕がマリアに頼まれたんだよ。それをアイツらは、マリアを自分たちだけのものにしようとして、あろうことか遺灰を墓に納めなかった。身勝手なヤロウどもが。マリアに微笑まれたこともないくせに。マリアのことを何も知らないくせに。クソ。クソ。クソ」

 マリアを灰にした連中は、宙で足を遊ばせながら微笑むマリアのことを何も知らないのだ。きっと興味がないのだ。だからこんな非道なことができるのだ。マリアのことをちっとも慮っていないのだ。

 荒く息を吐き出しながら僕は悪態を吐く。再びシャベルを手に取ろうとしたところで、ミスター・クリスマスが僕を諭すように告げた。

「まあまあミスター・ナニガシ。落ち着けよ。アイツらは無知なだけで、罪はない。ただ知らないせいで、正しい行いができていないだけなのだよ。聡明なきみなら分かるだろう?」

「……ああ、そうだな。いいこと言うじゃないか」

「分かってくれて嬉しいよ。さて、ようやく次の分水嶺だ。きみはどの一線を踏み超える?」

 ミスター・クリスマスは墓石の上に立ち上がって、虚ろな空を背景に両腕を大きく広げる。

 僕もまた、シャベルを杖に立ち上がって、次いで息を吸って呼吸を整える。目の前が暗くなって倒れそうになるのをぐっと堪えて、僕は言葉を紡ぐ。

「マリアの家だ。あそこに彼女の遺灰がある」

 ミスター・クリスマスが、白い息の内側で踊っている。

 マリアの家は墓地からそれほど離れていない。歩いてもせいぜい二十分だ。街灯のない夜空は星で綺麗なはずなのに、今はちっとも見えやしない。思えば大三角の内側にあったはずの空虚が、先ほど見た時よりも拡がっている気がした。

 そのことについてミスター・クリスマスに問おうとして、やめた。彼は歩き疲れたなどと言って宙に浮かび上がり、僕の数メートル上を飛び回っているのだ。今の僕の疲れ果てた声量では届かないだろう。馬鹿にされるのがオチだ。

「もう少し、もう少しだよ」

 僕は口の中でそう繰り返す。手に持ったシャベルが軋んで歪む。強く噛んだ奥歯が痛い。どうにもイライラして仕方がないのは、きっと宙を舞うミスター・クリスマスのせいだ。彼の姿がマリアの最期にダブって、頭が酷く痛むのだ。思い返せばあの時のマリアもスーツだった。素足に履いたヒールをぷらぷらと遊ばせて、引き攣ったような笑顔で僕の眼を見ていた。眼には涙を滲ませて、今までの笑顔が全て嘘だと分かってしまう、一番の笑い方。

 僕だけが知っている、マリア本来の笑い方。

「ほら、ようやくだよ」

 マリアの家は、地方都市においてはごくありふれたものだ。しかし築年は古いらしく、彼女はそのことについてよく愚痴っていた。一部のドアの建付けが悪いこと、寝室からお手洗いまでが遠いこと、夜の仏間が不気味なこと、家に帰って玄関を開けるといつもその仏間が目に入ること、一階奥の窓が割れそうなくらいに脆いこと。

 マリアの情報は、僕を行動に至らしめるに十分なものだった。方法はミスター・クリスマスにやったのと同じ。今回は面で叩く。

「さて、今回の分水嶺は──いや、野暮だな。素直に謝ろう」

 ガラスは脆かった。マリアの言う通りだ。

 シャベルを投げ捨てて、窓に手をかける。掌が燃えるように熱かったが、不思議と痛みは感じなかった。倒れるように屋内に押し入って仏間を目指す。

「マリア!」

 いた。やっぱりだ。姿形は変わってしまったけれど、それでもすぐに分かる。十二センチの壺に押し込められた状態でも、マリアはマリアだった。けれどこんなに小さくなってしまって笑うのに支障はないだろうか。元は百六十七センチもあったのだから。いやきっとマリアなら大丈夫だろう。そうだ喉は乾いてないだろうか。水筒を持っていこう。お茶がいい。

 僕は壺を抱きしめて台所へと向かう。顔が熱くなって、心臓の鼓動がうるさい。

「あー、悪いがミスター・ナニガシ。さすがにお茶を淹れている時間はないよ。そこのペットボトルにしておきなさい。家人が起きたようだ」

「ち。いいところなんだがな」

 ミスター・クリスマスの言うことなど本来は聞いてやる義理もないが、マリアと時間を共にできないのは困る。ここは大人しく従ってやろう。

 僕はマリアを守るように腕に抱く。窓を越えたら彼女が傷ついてしまうかもしれないから、今度は玄関から出ることにした。後ろから誰かの怒鳴り声が聞こえたけれど、あまり気にならなかった。

 僕はそのまま遠くまで走る。走って走って、気付けばそこは山の中だった。遠くからパトカーのサイレンが聞こえるけれど、近づいてくる様子はない。

「へえ。よく逃げたものだ。今限りとはいえ、よくやっている」

「……なんだ、まだいたのか」

 ミスター・クリスマスの言葉で、興奮していた脳がすっと冷える。どうやらまだ消えていなかったらしい。目的は果たしたはずだが。

「いやいや。まだ果たせていないだろう。ほら、やりなよミスター・ナニガシ。私はもう口を挟まない」

「ああ……そうか。そうだね、マリア。僕はきみと一緒にいるよ」

 腰を降ろす。大木を背にしたところで、ようやく自分の膝が笑っていることに気付いた。

 僕は壺を開ける。

 思った通りだ。マリアはやっぱり笑っていた。

 小さな壺の底の底、灰色と白色の光が、すごく綺麗だった。

だから骨から食べることにした。

手に取った瞬間には脆い気もしたが、食べきるには少し固い。一気に行くのは難しいだろう。

気分を変えて、灰を飲むことにした。噎せてしまうといけないので持ってきたペットボトルによく混ぜて飲んだ。これはいけるかもしれない。

また骨を手に取って、齧る。ちょっと吐きそうになったけれど、頑張って飲み込んだ。次は灰。その次は骨。交互に口に含んでいく。

脳の奥がぴりぴりと痺れて、舌の根が強く震える。

今までは外に蕩けていくばかりだった僕の自我が、今は内側で強固になっていく。その感覚がとても心地よい。まるでピッタリの枕を見つけた時のような、そんな充足がある。

「いやはや、行くところまで行ったヒトはここまで救われないものかね。曲がりなりにも一時は聖人を名乗る身としては些かばかり寂しくなる」

「ん、っぐ。なんだ、まだ消えてなかったのか。まあいい。ここまで付き合ってくれた礼だ。少しくらいは答えてやる。あむ」

 ごくり。と。灰を一口飲んで、一息つく。

「ふむ。では聞くが、きみはこれからどうするのだい、ミスター・ナニガシ。このままいつまでも逃げ続けるわけにはいかないだろう。きみだって警察の捜査能力を舐めてはいないはずだ」

「もちろん自首するよ。それだけのことをしたからな」

「うむ、気持ち悪いな」

 そうだろうか、自分ではそうは思わないが、たしかに傍から見たらそうなのかもしれない。自分はどう見ても救いを得た人間なのだから、真っ先に選ぶとしたら自死だろう。謂われてみればそう考えるのが自然だ。

「なんてことはない。ただのエゴだよ、ミスター・クリスマス。僕はこれからも救いを求めるために、これからも生きていくんだ」

「何故」

「マリアに地獄は相応しくない」

 ああ、たとえどれだけエゴでも、僕は救いを求めて生きる。光を求めて生き続ける。そうすることのできなかったマリアのために。僕は彼女の分まで生き続ける。マリアが僕の眼を見て笑った時に、あるいは僕がマリアの眼を見て笑った時に、僕はそう決めたのだ。

 それをマリアと僕の救いにするのだと、僕は決めたのだ。

 だって僕たちは、互いに微笑んだのだから。

 だからもう、大丈夫なんだよ。

「怖いものなんて、どこにもいないんだよ、マリア」

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