第14話 第四回戦『ちゃんこ』対『女王』
三
試合前のちょっとした空き時間である。
美形の兄妹が教室の一角を占拠していた。
周囲は南口兄妹の存在感にチラチラと視線を送りつつも、空気を読んで話しかける者はいない。
余談だが、彼らの年代は奇跡的なほど可愛い子が多いことで有名だった。
全体的なレベルも高いのだが、琴梅や絵梨だけではなく、西中の
彼女たちのほとんどが排他的な空気を備えているのだが、それでも、南口兄妹はどこか独特なのだ。注目されるのに、同時に、放置される矛盾。
「ところで、兄さん。大垣さんってどうして強いのでしょうか?」
琴梅が兄の『最強』へふと浮かんだ疑問を訊ねた。
『最強』南口は困ったように眉根を寄せ「んー、よく鍛えているよねぇ」と、当たり前の感想を言った。
そんな答えでは琴梅は納得できない。
「そんなに鍛えているのなら、本岡くんみたいにもっと筋肉質じゃないとおかしくないですか? 私とあまり変わらないと思うのですが」
「女の子って鍛えてもあんなには、なかなかならないらしいよ。それに生来の筋肉の質が柔らかいんじゃないかな? あと、琴梅は単純に華奢だけど、彼女は余分なものを全部削ぎ落としている感じかな? ロードバイクとママチャリくらい違うよ」
「ふーん。そういうものなのですか」
ようやく納得したらしい琴梅は腕を組んで、小首を傾げながら頷いた。
腕を組む仕草一つとっても非常に愛らしい。
そして、それを聞くとはなしに聞いていた市川がボソッと一言。
「ま、大垣と琴梅ちゃんじゃあ、ある一点で勝負にならないけどな。二人ともスゲー可愛いけどさ」
その視線は組んだ腕の上――琴梅の胸部に注がれていた。
琴梅はありとあらゆる部分が精巧なガラス細工のようなのだが、その一点だけが非常にアンバランスであり、とても豊かに成長している。というか、女子中学生としては驚愕の数値を叩き出している。琴梅は基本的に痩せているだけに、その破壊力は異常だった。ドレッドノート先生もビックリである。兄妹揃ってまさに超中学生級。
いつもだったら、市川に「セクハラよ!」と過剰に突っかかる『アマゾネス』共恵も自分の方へ振られないように目を逸らしながら呟く。
「……女の価値はそこだけじゃないのに……」
その小声を聞いて元宮は心の中でツッコんだ。
いや、あんたも充分デカイから。昔、市川に胸筋でしかないと断言されたんだっけ? そんなのを気にしている時点で可愛いわよねぇ。結婚したい。
もっともそんな思考は決して伝わらない。
ある意味、平和な光景であった。
さて、そんなこんなで試合である。
『ちゃんこ』と『女王』の二人が向き合う。
その時、『ちゃんこ』伊藤が考えていたのは「この子、本当に綺麗だなぁ」という阿呆みたいな感想だった。
少なくとも試合前に思うようなことではないが――『女王』は本当に可憐だった。
富士額に綺麗な二重瞼。ポニーテールに束ねられた髪は最高級の絹糸のようだ。鼻梁は透き通り、その肌にはしみ、しわ、そばかすどころかほくろさえ見当たらない。アイドル顔負けのとんでもない美少女である。自分とは同じ人間とは思えないほど顔が小さい。
だから、試合前にも関わらず伊藤は見惚れていた。
それは好きとか嫌いとかそういう以前に美術品に目が入ってしまうようなもの。
もうすこしはっきり言えば、非モテの伊藤としてはこれだけの美少女に目を奪われないわけがないのである。
だが――絵梨は見る者を幸福にさせるような天使の笑顔で微笑んだ。
「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げられ、伊藤は頭の中が白くなった。
「あ、あぁ、うん」
しかし、そこは伊藤の思考である。
我を忘れていたのはほんの一瞬でしかない。
彼の今までの人生で一ミリもモテなかった経験が警鐘を鳴らしていた。
勘違いは良くないな、という反射的な心理防御である。
眼が合っただけで勘違いも何もないが、消しゴムを拾って貰っただけで赤い糸の存在を疑いもせず、朝礼前の「おはよう」一言だけで子供の人数まで数えるのが非モテ男子の習性なので仕方がない。
伊藤はゴホンと咳払いでごまかしながら、先に差し出していた絵梨の右手を掴んだ。
二人ともに右利きだから問題なく右手だ。
伊藤はまたしてもドキッとした。絵梨の手の柔らかいことに。
だが、舞い上がったのは本当に一瞬だった。
大垣絵梨の手の平にはたこができていた。手自体は柔らかいのに――手の平の処々は硬い。どれだけのトレーニングを積んだのだろう。硬いバーベルだこであった。
伊藤の表情が引き締まったのを察したのだろう、絵梨は恥ずかしげに笑って言った。
「女の子なのに変かな?」
「いいやぁ、全然だねぇ」
「……ありがとね」
礼を言いながら、『女王』はとても嬉しそうに笑った。
やはり伊藤の心臓が跳ね上がるくらい可憐だった。
「別にぃ、問題ないよぉ」
伊藤はそっと視線を逸らす。直視できなかった。過去最大級の警鐘が鳴り続けている――落ち着け。試合に集中しろ、と自分に言い聞かせる。
「おっと、妙に良い雰囲気だが勝負は勝負! 用意は良いか!」
「あ、ああ」
「うふふ、良い雰囲気だって。ねぇ、そ・う・し・くん?」
語尾にはハートマークが付いていたかもしれない。
そ、荘司くんって……と、伊藤は思わず『女王』を凝視してしまう。
だから、目に焼きつくことになった。
伊藤はその瞬間の絵梨の笑顔が忘れられなくなった。
ただ純真な笑いから――どこか計算高いような――。
『
ダンッ!
市川の宣言の半瞬後、伊藤の右手が教卓に叩き付けられる音が教室に響いた。
勝者――『女王』大垣絵梨。
+++
「……圧勝、ですか?」
呆然としている『ちゃんこ』伊藤を見ながら琴梅が訊く。
訊かれた『最強』南口田尾は「うーん」と唸った後、
「彼女の強い理由っていくつかあると思うんだけどね」
南口たちの前で貫禄の勝利をした『女王』は、何かを伊藤に囁いて去って行った。
「自分の容姿の良さを自覚して、それさえも利用するのは『女王』の強さだと思うな」
それを聞いて琴梅は嬉しそうに笑った。
「あ、やっぱり兄さんも大垣さんのこと綺麗だって思うのですね?」
「うん、綺麗だと思うよ」
南口は素直に頷いた後、少しだけ困惑し、
「それがどうかしたの? 僕、変なこと言ったかな?」
「んーん。変なことは言っていませんよ。全く。全然。これっぽっちも」
とても嬉しそうな妹を見ながら『最強』は首を傾げた。
「変な琴梅」
『ちゃんこ』伊藤は呆然としていた。
まさか、まさか、である。力を出す前にやられるとは思わなかった。
呆然と事態を把握できていない伊藤に絵梨は去って行く前に一言忠告した。
「残念……あなたはね……強いけど……決定的に遅いのよ」
――と。
やはり伊藤としては見送るしかない絵梨の後ろ姿は――その風格は――必勝を義務付けられた存在感は――正しく『女王』そのものだった。
それが敗因である。油断以上にその速度についていけなかったこと。
だが、確かに彼は油断したかもしれないが、それは本当に一息も吐けないくらいの時間でしかなく――。
いや、と伊藤は反省する。言い訳で糊塗するのはみっともなかった。
完敗だった。
笑ってしまうほど鮮やかに叩き潰された。
だが――美しいな、と彼の口から感嘆の息が漏れる。
だから、伊藤は腹回りを撫でながらボソッと呟く。
「もうちょっと痩せた方が良いのかなぁ……」
その言葉を聞いた周囲の人は唖然とするしかなかった。
四
そして、もう誰も異議を挟まなくなった罰ゲーム。
伊藤は困ったように言った。
「でもぉ、おいらの罰ゲームって何をすれば良いかなぁ?」
雲竜型でも披露しようかぁ? という伊藤の提案に対して、市川は「悪くないが、それがモノマネしながらだったとしてもちょいと弱いな」と感想を言った。
「そうだよねぇ、何か盛り上がるようなぁ……」
「だったら、バナナはどうだろう」と、観客の一人が提案した。
「そうだ、バナナだ!」
「バナナしかないな!」
うん、うんと幾人かが同調して頷いている。
その背後では状況をよく分かっていない人間もバナナコールを始めた。
「……バナナをどうするんだよ?」
という市川の当然の疑問だったが。
「みんな! オラにバナナを!」
何故か両手を天高くに掲げながら観客の一人が叫んだ。
「おおおおおおおおおお!」
それからのチームワークをどう表現して良いか分からない。
だから事実だけを述べることにする。
皆がバナナを手持ちの袋から出し、それらを並べ始めた!
そして、あっという間に伊藤の目前の机にはバナナの山が作られた。
もう合体しちゃって、一房の大きなバナナにならないのが不思議な量であった。
「……これをどうするって?」
市川が呆れたように見ていたが、それに対してバナナを最初に提案した少年は『ちゃんこ』の肩にのしかかるようにして応える。
「食べ物は食べなきゃダメだろう! な、『ちゃんこ』」
「えっとぉ、う、うん」
正直、伊藤自身も話の流れにあまりついていけてなかった。
気が狂ったようにバナナコールを叫ぶクラスメイトたち――そのいろんな意味で病的な光景を尻目に市川は首を傾げた。
「これって、罰ゲームか?」
「お前はこの量を喜んで食べるのか?」
どう考えても百本以上ある。ただ、そもそも市川はどうしてみんなバナナを用意していたのか、意味が分からない。多分、誰一人として理解できないのだろうが。
「まぁ、俺は嬉しくないけどさ」
『ちゃんこ』に眼をやると、「本当に食べて良いのぉ? おいら、負けたよぉ?」とか言っている。ただし、その視線はバナナから離れない。
「いいよ、いいよ! 良いに決まっているだろ!」
「ばーなーな、ばーなーな! ばーなーな、ばーなーな!」
クラスを満たしているバナナコールはもう訳が分からないくらい高まっている。
「ま、良いんじゃね?」
と、市川が司会として『ちゃんこ』の背中を押してやる。
うん、と一つ頷き「わーい」と、無邪気にバナナを手に取り、伊藤は食べ始めた。
もりもりと。
むしゃむしゃと。
その食べっぷりに一層観客は盛り上がる。
ダイエットは明日からで良いや、と考えながら伊藤は食べ続けた。
ちなみにバナナは誰一人打ち合わせたわけではなく、それぞれがそれぞれの意志で購入してきていたらしい。
更には、バナナの皮だけで四〇リットルのゴミ袋が満タンになり、「なんでバナナの皮だけが教室からこんなに!」とごみ収集業者が戦慄するのはまた別の話である。
「どうでも良いけどさ」
巫女服の少女へその親友が呆れたように言った。
「うん?」
「みんな本当に
「うん」
元宮と共恵は頷き合った。
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