第12話 第三回戦『トレーニング狂』対『達人』

 ため息を吐き、そして、『達人』鈴木は教卓の前で用意する。

 そして、彼はボキボキと軽く手の関節を鳴らしながら告げた。


「さっさとやろうよ、フジ」


 その言葉に『トレーニング狂』本岡が嬉しそうに応じる。


「おう! やってやるよ!」

「うっさぃなぁ。声がデカイっての……」

「あはははは! ゴメンゴメン!」

「謝る声もデカイっての……ま、負けねぇから良いや。許すよ」


 本岡はニヤァと興奮を抑え切れないとばかりにすごく嬉しそうに笑った。


「こういうのって良いよね! ライバル! 熱い戦い!」

「恋も修行も何もねぇけどな、こっちは」


 憮然として言う『達人』に『トレーニング狂』が首を傾げて問いかける。


「あれ? でも、剣道部って可愛いマネージャーいたよね。二年生だっけ」

「……フジよ。いくら可愛くても他人のペットには懐かれねぇもんなんだよ。お前はパンがなければお菓子を食べられる人間か? こっちには何もねぇの」

「そうなの? よく分からないけど、こっちも特に何もないけど?」


 鈴木は『トレーニング狂』の発達した上腕を見て――そのままの流れで本岡の傍らに控える悠里の呆れ顔に視線を移して――どこか凄惨さを醸し出しながら言った。


「お前には負けん……っ!」

「良いねぇ! すごく良いよ! じゃあ、僕もせっかくだから矜持を見せようかな」


 と、本岡は『左腕を』教卓についた。

 それを見た鈴木は――クックックと顔を伏せて笑った。


「へぇ……それはどういう意味だよ?」


 その瞬間、鈴木の雰囲気が獰猛な獣のそれへと一変していた。

 本岡は気付いていないのか、気にしていないのか、笑いながら説明する。


「剣道って左手を重点的に鍛えるんでしょ。だったらそっちで勝たないと意味がないよね」

「しかも、俺は左利きなんだよな……知っているか?」

「もちろんさ!」


 そして、鈴木は顔を上げた。爛々と目を輝かせながら、


「悪くないな……本当に悪くねぇよ!」

「ああ! 悪くないよね!」

「だがな! その慢心はテメェの敗北に繋がるぞ!」

「慢心? 僕は左右で偏った鍛え方なんてしてないよ。右も左も僕にとっては一緒だね!」

「クックック……」


 鈴木はもうそれ以上言葉を重ねずに本岡の手を掴んだ。

 本岡も黙ってそれを強く握り返した。

 今必要なのは言葉ではなく、互いの闘志のみだからだ。

 司会進行の市川が先ほどのバックドロップで痛めた首をさすりながら確認する。


「んじゃあ良いな?」


 固く結ばれた左手の二人が同時に頷く。


「当然!」「いつでも!」


 同時に返ってきた二人の威勢の良い声――市川は嬉しそうだった。

 盛り上がっていた観衆が固唾を呑んだ瞬間、市川の手中のマイクが翻る!


構えよ。そして闘えREADY FIGHT!』


 そして、

 しばしの間。

 そして、

 観衆の誰かが口を開いた。


「な、なぁ、鈴木と本岡……試合中だよな? もう始まっているよな?」

「ああ……多分な」


 二人は微動だにしない。

 いや、よく見れば彼らの固く組んだ左手はわずかに痙攣のようにせめぎ合っていた。

 均衡していた。

 あまりにも彼らの力は均衡していたのだ。


 二人の顔を見ると、『トレーニング狂』本岡も『達人』鈴木もギリギリと音がしそうなほど歯を食いしばり、真っ赤になるほど息を詰め――真剣中の真剣だった。


 動かない。

 動かない? いや、違う!

 


 それに観衆たちが気づくと、


「もとおかぁぁあぁぁっ! 負けるなぁぁあぁあぁっ! 勝てぇぇぇええぇぇぇっ!」

「す・ず・き! す・ず・き! す・ず・き! す・ず・き! す・ず・き!」

「本岡ぁ! その筋肉は伊達なのかぁぁっ? 見せ筋じゃねぇって証明しろぉぉっ!」

「お前の剣は十年に一人の逸材って聞くぞぉ! すずきぃっ! ファイトォォォッ!」


 自分の声で勝たせるとばかりにあちらこちらで声援が巻き上がった。

 ほぼ均等に二人への応援合戦が繰り広げられているのは、倍率からも応援する側に偏りがないからだろう。相手方に負けじとばかりに、どんどん声援は大きく育つ。

 しかし、それでも動かない。せめぎ合っている。

 そんな膠着状態が三十秒も続いただろうか。


「っ……!」


 鈴木の方で息がほんの少しだけ漏れ、乱れた。

 その瞬間――本岡が動いていた。


「がぁぁ!」


 武道の達人は呼吸を読む、という。

 息が抜ける瞬間が最も力が抜けるからだ。鈴木はそこを狙われた。

 だが、息を吐く瞬間は同時に最も力が入る瞬間なのだ。ハンマー選手の掛け声を始め、気合を入れる瞬間には必ず息が漏れる。そこの使い分けを誤ると酷い目に遭う。

 そう、今の鈴木のように!

 本岡は『達人』のお株を奪う絶妙のタイミングを読んでいたのだ!

 本岡は手首を返し、鈴木の手を引き込んでいた。


「……っぅ!」


 鈴木は痛恨の表情だ。歯を食いしばり、眉間にシワが寄っている。

 それを教室の隅で観戦していた『女王』大垣絵梨は思わず「上手い……」と唸った。声には賞賛の響きが多く混じっている。

 それほどまでに『トレーニング狂』は完璧な一瞬の隙を突いていたのだ。

 体勢が良くなった本岡がジリジリと押し始める。

 それは牛歩のようだったが――確実に進む。


「終わったみたいだねぇ」


 そう感想を漏らしたのは次の試合を待つ『ちゃんこ』伊藤荘司だった。

 おいらの『女王』戦の次の相手はフジかぁ、と彼は考えている。

 この時、教室にいる人間のほとんどが本岡の勝ちを確信していた。

 だがその刹那だった。


「フジ! 頑張ってぇ! 私がついているわぁ!」


 悠里が黄色い声援を上げていた。普段の彼女と本岡の関係を考えると、ちょっと似合わないくらい熱っぽく、可愛らしい声だった。


「っぅ!」


 それまで集中していた本岡の集中力が切れたのは、生まれた時からの付き合いの親戚の――あまりにも『らしくなさ』に気を取られてしまったから。

 そうでなければ集中力の優れている本岡にそんなことは有り得なかっただろう。

 そして、それは同時に、集中力の乱れていた『達人』鈴木にも火をつけていた。


「……お、れ、も、黄色い声援が欲しいぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 それは血反吐を撒き散らすような魂からの咆哮であった。

 その瞬間に起きたことを理論的に説明できる人間はいない。

 観ていた者もよく分からなかったし、対戦者自身も分からなかっただろう。

 ただ、結果から言うと――。


「だりゃああああああああああああああっ!」

「ぬぉおおぉっぉおぉぉぉおぉおおおぉっ!」


 最後の抵抗も虚しく、決着は速やかだった。


 ――嫉妬の力を得た『達人』鈴木の勝利。


   +++


 試合後のとある会話である。

 教室の片隅で、はとこの少女へ恨めしそうに話しかける『トレーニング狂』の姿があった。


「ねぇ、悠里さ。君、鈴木くんに賭けていただろ?」

「当然でしょ。それに応援はしないって言っておいたでしょ?」


 悠里は全く悪びれることなく、薄い胸を張ってそう言った。

 本岡はなおも恨めしそうな様子を崩さず、


「……僕を応援したじゃん。逆だったし」

「そういう足の引っ張り方もあるのよねぇ」


 不思議不思議、と悠里は軽く笑って言った。

 本岡はそのどこか楽しげな姿が納得できないらしく泣きついている。


「うぅぅぅう。悠里ってば酷いよぉ。もうちょっとで勝てそうだったのにぃ」

「うっさいわねぇ。そんな言い訳している時点でアンタの負けよ」


 悲しそうな本岡を見て、悠里は思った。やっぱりこんな顔の方が落ち着くわ、と。

 ニコニコ笑っている本岡も悪くはないが、ちょっとだけ泣きそうな顔で「悠里ちゃん、悠里ちゃん」とコガモのように後を付いてくる富士雄の方が落ち着くのだ。

 それに先ほどの言葉は嘘ではない。

 頑張って欲しいのも、悠里が付いているのも嘘ではないのだから。


 そんな二人を見て、肩を落としながらボソッと『達人』鈴木は言った。


「ああ、なんか勝ったのに負けている……」


 ポンポンと慰められるように『ちゃんこ』伊藤に肩を叩かれた。

 よく分かるよ、という具合に。

 勝者なのに、不思議と哀愁の似合う光景だった。


     四


 そして、恒例になった罰ゲーム。

 本岡はタンクトップをバッと脱ぎ捨てて宣言する。


「じゃあ、僕の罰ゲームはやっぱりこの肉体を披露――」

「ボディビルは禁止ね」


 先に悠里が釘をさしたため、宣言できなかった。

 キモイから、と吐き捨てる悠里は手厳しかった。

 むむむ、と本岡は腕を組んで悩んでいたが、ポンと手を打って提言した。


「じゃあ、腕立て伏せなんてどうかな?」

「地味だなぁ」


 市川がそうコメントすると、いやいやと本岡は付け加えた。


「悠里を乗っけて」


 おおおお、というどよめきが教室内を満たした。


「それなら面白そうだわ」

「だな。みんなでカウントしようぜ」

「何回だ? フジならニ〇はイケるよな? え? もっと? マジで?」


 みんなが「うん、うん」と頷くのを見て、悠里は焦りながら止めに入る。


「ちょ、なんでよ! 私、関係ないじゃない!」

「いーや、関係あるね!」


 と言ったのは市川だった。ニコニコと笑う筋肉ダルマを指差しながら、


「だって、悠里ちゃんはフジの罰ゲームを一回否定したじゃん。なら、関係ないなんて言い訳通用しないよね」

「むむむむむ」


 悠里は唸って反論しようとするが、教室の空気が許してくれそうになかった。

 その片隅で、


「あのー、そもそもアタシの罰ゲーム、強制って言うか、選べなかったんだけど……」


 という『アマゾネス』共恵の言葉は誰からも黙殺された。


「ううううう」


 悠里は自分の先ほどの言葉を後悔する。

 自業自得かもしれないが、どこからも助けはなさそうだった。

 満面の笑顔で準備万全の本岡は言う。


「じゃあ、悠里乗ってよ」

「うううううぅぅぅぅぅぅ」


 苦しそうに呻きながらも諦めた悠里は前支え――虎伏の形でピタッと静止している本岡の上に足がつかないよう跨った。

 体重を完全に預けても、『トレーニング狂』は一切揺れなかった。

 その彫像のようにピタっと微動だにしない姿は芸術的でさえあった。


「せめて、服着てよぉ」

「あはははは! 気にしない気にしない!」

「気にしろ! ベタベタだよぉ。この莫迦! ヘンタイ!」


 悠里の罵声は罰ゲームのスパイスにしかならない。


「あはははは! 軽い軽い! さて、カウントをお願いするよ!」


 それ、いーち、にー、さーんとクラスメイトがカウントを開始する。


 その傍らで『達人』鈴木は首を傾げて不思議がっていた。


「何なんだろう、この敗北感は。俺って勝ったよな? な?」

「大丈夫だよぉ。鈴木の勝ちだよぉ」


 隣の『ちゃんこ』に肩を叩かれ、賞賛されながらもどうしても自分の勝利が信じられず、首を傾げ続ける『達人』は滑稽と言うより哀れだった。

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