幕間③

 そして翌朝。禊の言を疑っていた奏彌だが、部屋から出てきた彼女を前にしては、その考えを改めざるを得なかった。

「……ありがとう。ずっと側に居てくれて」

 そう言って頭を下げる禊の身体には、掠り傷の一つ付いていない。それこそ生まれたばかりの赤子のように。白磁を連想させる白く滑らかな肌は、初めから傷などありはしなかったかのようにすら思える。

「僕の傷を肩代わりしたんだ。当然のことだと思うが……」

 目を逸らし、言葉に詰まる奏彌。ズタズタに裂けた彼女の衣類は、残った箇所も乾いた血で赤黒く染まっている。禊とて年頃の女なのだから、直視するのは気が引けた。

「……なに。急に目逸らしたりして」

 禊はそんな奏彌のことなどお構いなしに、ぐっと顔を寄せて尋ねる。一層目の遣り場に困った奏彌は、目を閉じて禊の両肩を掴む。

「服、早くどうにかしてくれ」

「ああ、これ……そうだね。流石にもう無理だよね、これ」

 名残惜しそうに布地に指を添える。それなりに思い入れがあるようだったが、少なくとも、既に衣類の体を為していないことだけは事実だった。

「捨てろとか言う訳じゃない、着替えてくれってだけだ。そのままでは外も出歩けんぞ」

「違うの。これ以外ってなると、もう寝間着ぐらいしかないのだけど」

「本当にどうやって生きてるんだよ、お前……」

「ずっとここにいたの。電気も水も、わたしには要らないから」

 起きて、寝て、ただそれだけ。それは最早、人間の生活とは言えないのではないか。

 これは全く傍迷惑な話だが、西欧の白人もまた『未開』を前に、同様の思考に至ったのだろうか。奏彌は呆れると同時に、なんとかしてこの生活無能力者に文明の灯を与えねばといった使命感に駆られた。

「よし。外に出るぞ」

「……何する気?」

「服、一通り揃えるぞ。金は心配するな、僕からの礼と思っておけ」

「寝巻きで出ていいの?」

「どうせそれしかないんだろ、お前」

 適当なものを見繕って持参する手もあった。そしてその方が楽なことも。

 しかし、彼の中の何かがそれを拒んだ。

 ――折角なら、実物に着せて選んだ方が良いではないか、と。

 見上げれば、日は丁度南中を過ぎたあたり。昼過ぎの銀座は人通りも落ち着き、暖かい春風が二人の肌を撫でて去ってゆく。

「外に出てみて……どうだ?」

 奏彌は禊に向き直って尋ねる。初めに彼の目に映るのは、春風に靡く濃緑色のジャケット。光沢は薄く、落ち着いた印象を与える。下半身には濃褐色のデニムと黒の革靴。華美さはなく、総じて暗い色合いが、却って肌と髪の白を引き立てる。

「不都合ないよ。でも、なんでこの組み合わせ?」

 二人はとある衣料品店を出たばかり。汀家懇意の店とあって出費は凄まじかったが、出来上がった禊の姿に、奏彌は大きな達成感を覚えていた。

「目立たないだろ。最高級の耐火性能も付与したから、まず燃えることもない」

 珍しいものばかりだが、この色合いなら必要以上に目立つといったこともないだろう。少しでも街に溶け込めるならそれに越したことはない。

「……それだけ? なにか別のものを感じるのだけど」

 怪訝な禊の眼。あらゆる嘘を看破してしまいそうな橙の視線が、まっすぐ奏彌に注がれる。

 そして事実、目立たないだけが理由ではなかった。むしろ口にしなかった理由の方が、奏彌にとっては重要だった。

「橘だよ、木の方の。葉と枝と、それでお前の眼が果実。らしくないよな、ったく」

 それはまるで、一つの概念に従って芸術品を組み上げるが如く。

 これなら禊に似合うのではないか。こいつを着せたら、一層その姿が引き立つのではないか。

 己の胸の内に沸いた下心に誰よりも戸惑い、奏彌は首筋を指で掻き毟る。

「脚が隠れててちょっと落ち着かないんだけど……前みたいなのじゃ駄目?」

「駄目だ。あれを他の奴に見られると思うと……何というか、嫌だ」

「そんなに似合ってなかったの、あれ……?」

 露骨に肩を落とす禊。やってしまったとばかりに奏彌は慌てる。

「待て待てそうじゃない。いや、どう言えばいいのかな……」

 奏彌は唸る。本音を告げて、不愉快に思われでもしたらどうなるだろう。

 しかし一方で、今更本意を隠すのも躊躇われた。己を信じて命を預けてくれた禊に対して、これ以上の不義理があろうか?

「ああいうのは、僕の前だけにしてくれ。脚見せたまま飛び回られると、何というかこう……色々と、な」

「あ、ふうん……そういう……」

 何かを察した禊はにやりと笑ってにじり寄る。その表情を前にして、奏彌は体中の熱が頭に昇るような感覚を覚えた。

「ああもう、この話はやめだ。忘れとけ!」

 奏彌は肩を掴んで禊を引き剥がす。抵抗はなく、彼女は「しょうがないなあ、忘れてあげる!」と笑った。

「さて、ここから……飯、食って帰るか。今から戻って用意する気にもならん」

「大丈夫だよ? そもそもわたし、食べなくても生きていけるし」

 奏彌ははじめ、それが単なる出来の悪い冗談だと解釈した。

「おい、もう少しマシな冗談をだな」

「ほんと。そういうの、必要ないの」

 異常な治癒力を持ち、食事すら必要としないその在り方。そこに戦慄しつつ、けろりとした顔の禊に圧され、奏彌は疑問を腹の奥に仕舞い込む。

「……お前はよくても僕が無理なんだよ。昨日から何も食ってないし」

 中央通りに繋がる道を歩く。

 陽光燦々と降り注ぐ長閑な街には、怪異の出る幕などどこにもない。

 霊や怪異は日の光を嫌うものが多く、反面穢れ―例えば死、血、淀んだ水など―に寄りつくことが多い。高い知性を持った存在であれば、『局』が目を光らせていることを知っているから、そもそも白昼堂々街中で暴れることはない。

 そんな訳で二人は、東洋随一のショッピング街を、何の気なしに歩くことができる。

「悪いな、付き合わせて。何でもいいぞ、食いたいものがあったら言え」

「食べなくていいのに食べたって、無駄だと思うけど。……嬉しいけどさ」

 遠慮がちな禊。自業自得とは言わめ、奏彌の出費を前に気を遣っているのだろう。

「文明は夥しい無駄の蓄積によってこそ成り立っている。それを窘めるようになれば一人前……とまあ、これは今の親の受け売りだ」

 尤も、奏彌にだって体面がある。己の発意で連れ出した挙句、金がないからお前は食うなでは立つ瀬がない。例え禊が拒絶しようと、口を強引に開いてでも食わせる義務があるとすら考えていた。

「だから諦めろ。嫌でも食わせるからな」

「……うん。そこまで言うなら、ね」

 柳並木の下、二人は肩を並べて歩く。行き先は決まっていない。あてもなく歩いているだけなのに、奏彌は己の胸の内に、何物にも代え難いものを抱いているように感じてしまう。

「折角ここまで来たんだ。いっそ今日は遊んでいくか」

「まだ二人残ってるけど……いいの?」

「いいんだよ。僕らが街中歩き回ったところで、それで見つけられる程東京は狭くない」

 激しい抗議の声を上げるもう一人の己を強引に抑え込み、どこか逸る禊を宥めるように言う。

 恐怖すらしていた筈の、価値観の変化。しかしそれが今となっては、どこか心地良いもののように感じるのだ。

「遊ぶって言っても……何するの。わたし、何も知らないんだけど」

「喫茶店とか、そこの百貨店とか。日比谷まで行けば映画もある。親に半ば強引に連れてかれたから、それっぽいとこは一通り連れて行けるぞ」

 憎悪以外の人生があったとしたならば。

 十年前に自ら閉ざした道を、再び歩むことができたのなら。

 ――それもいいなと、どこかで思うのだ。

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