幕間②

「……ここは」

 冷えてしんと静まり返った、六畳ばかりの洋室に一人。目覚めた奏彌は、己が見知らぬ部屋にいることを知る。

 所々で塗装が剝げた、病院によくある鉄パイプの寝台。堅いマットレスは薄いリネンのシーツで覆われ、掛布団はどこにもない。

 表面には黒と茶褐色の染みがいくつも浮かび、それは付近のフローリングを伝って、隅のドアに向かって続いている。

 ふと彼の鼓膜を、雲雀の囀りが擽った。鳴き声のする方角に目を遣ると、そこには小さな窓が一つ。柔らかな陽光が差し込み、それを受けて空気中の埃が宝石の如く煌めいている。

「地獄では……ないみたいだな」

 腹部に手を当ててみるが、そこに血や内臓を零せるだけの穴は一つも存在しない。皮膚を撫でると、十年の怪異駆除で身に付いた筋肉の凹凸だけが伝わってくる。

「そうだ、禊は……!」

 次に奏彌の脳裏に浮かぶのは、己を地獄から引き上げた禊の手。二豎の病に侵され、臓物を抉られた奏彌に対して、彼女は一体何をしたのか。

 まずはここを出る。細かいことはその後に考えることとした奏彌は、寝台から跳び上がるようにして立ち上がった。

 体が軽い。あれだけの傷を負い、三途の川を超えた気すらしていたのに。ほんの些細な痛みも存在せず、関節は油を差したばかりの機械のように滑らかに動く。

「ったく、何処だよ……ここ」

 まるで生活感のない、殺風景な空間が広がっている。寝台のほかには何も存在せず、天井に開いた小さな穴は、照明すら付いていないことの証である。日に焼けた壁紙とオーク材のフローリングは、日本家屋に住み慣れた奏彌にとっては、どうにも違和感となって目に映る。

 殺風景な寝室を抜けると、これまた殺風景な廊下に出た。その先には玄関らしき扉が一つ、集合住宅の一室のようだ。部屋から続く床の不自然な染みは、廊下に並んだ扉の一つの前で途切れている。

 そして、その扉の前に立つと。

「……あ……ぁ………」

 扉一枚隔てた先から、微かに聞こえる女の声。ひどく弱々しく枯れ、苦痛に喘いでいる。

「禊か……っ⁉」

 ドアノブに手を掛けるが、肝心の扉はびくともしない。どうやら向こう側の障害物が邪魔をしているようだ。

 その時、足元から奇妙な水音。見下ろした奏彌は、黒く粘性のある奇妙な液体が、扉の隙間を伝って漏れ出していることに気が付いた。

 血液、それも二豎の病にやられた奏彌が吐き出したものと似ている。

 瀕死の重傷にあった奏彌が健康で、禊が居る部屋からこれが流れ出ている。これは一体どういうことであろう?

 何があった、どうしたなどと尋ねる暇は無い。多少手荒でも一向に構わない。扉を吹き飛ばして中に押し入ろうとするが、室内の禊がそれを止めた。

「そう、や……まって、はいってこないで……!」

 嘆願する禊。既に剣は呼び出した、あとは扉を刻むだけなのに。

「そうはいくかよ、手当てしないと!」

「ほら、病気だから……いま入ったら、また移っちゃう……」

 現実を突きつける無慈悲な一言。実のところ奏彌自身、己の手に負える状況でないことは理解していた。腕すら再生させる治癒が働かず、そもそも病には効能がない。

 それでも、一目会って尋ねたかった。壁越しではない、直接顔を合わせた上で。

 禊が一体、己に何をしたのかを。

「医者……この際『局』の方がいいか。呼んでくるから待っててくれ」

「いいよ、ほっとけば治るから……時間はかかるけど」

「そんなこと……そもそも僕に何をした? 到底治せる傷ではなかったと思うんだが」

「……四行慈恵。橘の力。他人の傷も、病も、わたしの体にぜんぶ移すの。鏡みたいにね」

「――そんな」

 あっさりとした口振りの禊。奏彌は愕然として膝を落とす。

 では、足元の黒い血溜まりは。内臓が潰れ、零れ落ちたのと同じ状態が、今の禊にも起こっているとしたら。

「放っておける訳ないだろ、そんなの!」

「……まって!」

 玄関に向かって駆け出す奏彌を、必死の声で禊が呼び止める。

「治せちゃうの、わたし。どんな怪我も、病気も。時間さえあれば、絶対に」

 どこか皮肉めいた口振りの禊。ぜえ、はあと息を切らしながらも、これだけは嘘ではないとばかりに言いきってみせた。

「……信じていいんだな。お前が僕を信じてくれたように」

「うん。信じて、ほしいな……わたしを」

 禊は以前、奏彌の稚拙な策に容易く命を差し出してくれた。そして今度は、死を厭わずに傷を引き受けてくれた。であれば次は、こちらの番ではないだろうか。

 しかしそれは奏彌にとって、中々に堪えることでもある。扉の向こうで呻く禊を前に、彼は何一つとしてできることはないのだから。

「何かしてほしいこと、ないか? 薬が効くかはわからんが、ほら……水とか」

「大丈夫……だけど、ひとつだけ」

「言ってくれ、何でもするから」

 しばしの沈黙。禊は若干躊躇った後、意を決したように言った。

「そこにいてほしいの。入らないでって言っておいて、あれだけど」

「いいのか? それだけで」

「うん。それだけで、いいの」

 しばらくして、不意に禊が口を開いた。

 扉越しに届く彼女の声は、先程と比較して幾分軽快だ。再生が進んでいるのだろうか?

「ねえ。いくつか、教えてほしいことがあるのだけど」

「どうした、急に改まって……」

「君のこと。わたし、君のこと……何も知らない」

「藪蛇だな。構わないが、何故だ?」

 禊は答えない。さりとて引き下がる気もないらしく、質問を取り下げることはない。

「わかったよ……面白いもんじゃないぞ?」

 恐らくは。奏彌が怪異に憎悪を剥き出しにする、その根源を知りたいのだろう。

 だが、別段隠したい訳ではない。「なぜ自分だけ」と悲観するつもりもない。あの震災で似たような目に遭った者が、自分だけではないことも知っている。

 故に奏彌は、産まれてから六年間の記憶を淡々と語る。

「……お父さん、厳しかったんだ」

「馬鹿やれば拳骨が落ちてくる。どこの家もあんなものだぞ?」

「それで、お母さんも厳しかったと……」

「辛うじて普通の範疇に入るくらいにはな。火遊びして軒先に吊るされたのだけは覚えている」

「火遊びするような子だったなんて。ちょっと想像つかない……」

「近所のクソガキと共謀して、学校に向けて花火打ち上げたり……色々あった。まさか数日後に、文字通りみんな灰になるとは思わなかったが」

 悲劇的な生まれでもなければ、恵まれた境遇を失い地に堕ちた訳でもない。ごくありふれた家庭に生まれて、ごくありふれた境遇で育ち、そして全てが灰になった。

「――灰に」

 しかし、楽しい時間はあっという間。全体の半分もいかぬうちに、物語に転機が訪れる。

 灰。奏彌が放った一言に、それまで和やかだった禊の声が一転した。

「十年前の震災だ。どこかの怪異が起こしてくれたあの大火災が、僕から全てを奪っていった」

 関東大震災。その日発生した大火災の死者は、およそ十万人とされる。

 人類史上未曾有の大災害。その勢いは尋常ではなかった。多くの目撃証言も相まって、何かしらの怪異が引き起こしたことだけが、唯一の事実として公開されている。

「そんな……あ……ああ!」

「悪い……! 聞いてて気分の良い話じゃないよな、これ」

 半ば慟哭にも似た声を上げる禊。奏彌は慌てて彼女を宥めようと試みる。

「でもほら、共通するのは炎だけだ。お前は違うだろ。バケモノにだって手を差し伸べられる……善い奴なんだからさ」

 過呼吸にも似た呼吸音。ガタガタと鳴り響く音は、身体を激しく震わせている証だ。

 扉越しでも容易に判る。禊の状態は危険な域にあると。

「なら……君がバケモノを殺すのは……っ!」

 だが、それも仕方のないことだろう。果たして冷静でいられるだろうか? 怪異にすら手を差し伸べる禊が、怪異を鏖殺する奏彌の口から「お前と似た奴のせいでこうなったのだ」と告げられて。

「落ち着け禊! まだ話は終わっていないからッ!」

 奏彌はがなり声を上げて、禊の声を強引に遮る。鼎や月城であれば……人として経験を積んだ大人ならば、もっと気の利いた宥め方を知っているのかもしれなかったが。今の奏彌には、多少手荒な手段の他に選択肢はなかった。

「っ、ごめんなさい……」

 その気迫に気圧されたのか、禊は息を呑んで押し黙った。それを確認した奏彌は、ひとまず強張った身体の力を抜く。

「この十年、僕は憎悪だけで生きてきた。全ての怪異を殺し尽くして、二度と僕のような子供を生み出さないと心に決めて」

 奏彌は淡く微笑み、しかし、と一言加える。

「孤魂……あの行き場の無いガキの霊。アレと対峙するお前の背中が、僕をおかしくした」

 子供の霊はその孤独故、悪意なくヒトを引き摺り込む。触れただけで死を齎す爆弾のような存在を、事もあろうに禊は抱き締めて見せた。

 中々の胆力だ。到底奏彌に真似できる技ではない。

「殺さなければ。連中の考えることなど知ったことか。……そう思ってたんだが」

 そして、燃えゆく孤魂の姿。苦痛と孤独から解放されたかの如き、あの安らかな最期。

 もう大丈夫だと語り掛けた、禊の声が。

「それが人を殺すなら、僕は止めなければならない。ここだけは譲れないが……」

 月夜に輝く白い髪が。眩く輝く橙の瞳が。

「あいつらの事情だって、考えてやらんこともない」

 奏彌が十年積み重ねたものを、悉く破壊してしまったのだ。

「……うん。そう。そうなんだ」

 禊が大きく息を吐く。その声には、どこか他人事でない安堵の念が滲んでいた。

 それから二人の間に、一分間ほど沈黙が続いた。

「……禊?」

 返事はない。不安になって再度尋ねるが、やはり禊は答えない。

「だから言ったんだ、ほっとける訳ないと!」

 背中に冷や汗がどっと滲み出て、血を吸って固くなったシャツが緩くなる。

 そもそも、丈夫の一言で片付けられるような傷ではなかったのだ。呼び出した剣も使わず、扉を蹴飛ばそうとして片足を上げると……

「くう……」気の抜けた寝息。思わず唖然として膝から崩れ落ちる。

 能天気にも程がある。扉の向こうで、奏彌がどれほど己の身を案じているのかも知らないで―或いは既に知っていて、無防備な姿を晒す程には信を置いているのか。

「まあ……どちらでもでもいいか」

 今はどちらでもよかった。禊が無事で、こうして呑気に眠っていられるのなら。

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