②
静まり返った住宅街に、奏彌の舌打ちがいくつも響く。余りにも露骨で、寝た子も起きてしまいそうな勢いだ。
「ったく、何なんだよアレ……む」
「ほら、落ち着いて。わたしは大丈夫だからさ」
禊は奏彌の口を手で覆い、その顔を覗き込んで微笑む。当人がそう言うのであれば、外野がとやかく言う筋合いはない。渋々ながらも頷いて、奏彌は禊の手を優しく退かす。
「……悪い人ではないんだ。愛想は悪いけど」
初めて汀家で出会った十年前、彼は奏彌の頭を撫でながら言った。
――今は耐えろ。忘れろとは言わんが、泣くのは全て終わってからでいい
不愛想で素性も謎だが、他者に非礼を働く人間でないことだけは知っている。
「何故お前にだけ……何かやらかしたのか?」
だからこそ奏彌は訝しむ。彼が禊を邪険に扱う裏には、如何なる事情があるのかと。
「……さあ。なんでだろうね」
虫の居所でも悪いのだろうと己を納得させ、疑問を腹の奥底に仕舞い込む。
――と言うよりむしろ、仕舞わざるを得ない状況に陥ったとでも言うべきか。
突然、側の路地から一匹の影が姿を表した。
子供の姿をした半透明の何かが一人。それは足を止めると、奏彌たちをじっと見つめる。
「この子……」「孤魂か。最近よく会うな」
身なりは悪くない。二人を襲う素振りも無ければ、逃げる様子も見せようとしない。
むしろ興味津々とばかりに二人を観察し、朗らかな顔で大きく頷く。
「……妙だ」「うん。寂しくて仲間を……って感じはないね」
幼い子供の霊は、孤独に耐えられず仲間を欲する。それが人の死を招くとも知らず、無邪気な殺意で生者を引きずり込む……筈だったのだが。
孤魂は己の出てきた路地を指差して飛び跳ねる。まるでこの先に何かあるとでも言いたげな様子で、二人を見つめながら路地に入ってゆく。
「何か困ってるのかも。ついていってみる?」
「放置して帰る訳にもいかんからな。行ってみるか」
行くな――彼の中に棲み付く誰かが、大声で警鐘を鳴らしている。炎の海にひとり立つ少年が、禊と並んで歩く今の奏彌に向かって忠告を発している。
勝利の高揚も、禊の隣という居場所そのものも、本来のお前には不要なものだ。化物を掃滅することこそ、お前に命を託した両親に報いる、たった一つの生き方ではなかったか。
決して気を緩めてはならない。あの霊は、かつて東京を蹂躙した超常と同類なのだ。
しかしその声は届かない。孤魂の外見と振る舞いに騙されて、緊張の糸は緩みきったまま。最低限の警戒さえしないままに、その後を追って路地に足を踏み入れる。
顎はとうに踏み越えた。あとは胃に向かってまっしぐらだ。
この道が食道そのものとさえ知らない二人は、ただ前に進み続けることしかできない。
◇
孤魂に従って家々の隙間を抜けると、そこは死者の楽園であった。
「……霊園か」
碁盤状に道の通った、民家一軒分の敷地の霊園。
風通しが悪いせいだろうか。湿気が充満している。
足跡はなく、花も皆一様に枯れ果てている。長期間に渡って放置されていた証左だ。
「霊園の類は全て局に管理されている筈なんだが。使われなくなって登録が外れたか?」
訝る奏彌。何せ超常に溢れた世界だ。供養なしでは、社会にどのような害が及ぶかわかったものではない。
一歩踏み出せば、伸びきった雑草の隙間から、砂利が奏でるジャリ、ジャリとした心地よい音が聞こえてくる。
時刻は午前二時過ぎ。丑三つ時の墓地となれば、霊の存在は欠かせない。
幽霊の一匹や二匹であれば、むしろ場を盛り上げる装置としてよく機能するに違いない。
――尤も、それにも限度というものがあるが。
「……すごい数。こんなに集まってるの、見たことない」
禊は周囲を見回すと、口をぽかんと開けて驚いてみせた。
無理もない。周囲を見上げれば、そこには数十の霊の群れ。墓石の影から二人を覗く者、取っ組み合いの喧嘩をする者、呆然と立ち尽くす者……千差万別な様相を見せる。
「今は春の彼岸、霊が活発になってもおかしくないが……それにしても異常だ」
そんな疑問に応えるように、先程の孤魂が二人の前にやってきた。
ぼやけた輪郭に、うっすらと光を帯びた半透明の身体。二人の前で両手を振る。声は聞こえないが、歓迎でもしているかのようだ。
「何だこいつ。何がしたい……?」
「この子、何か伝えたいみたい」
困惑し首を捻る奏彌だが、そんな彼を他所に禊が呟く。
「何か……燃やせば判るか?」
汞を倒した夜、禊は子供の孤魂を燃やして思念を読み取っていた。眼前の霊にもそれができるのであれば、その言わんとするところを理解することが可能であろう。
「ごめんね。この子がそれを望んでないなら、できないや」
しかし禊は横に首を振る。
「そうか。無用な殺生は云々……まあ死んでるんだが」
その時、眼前の霊が笑った。にたりと口角が吊り上がった、悪意を剥き出しにした笑いだ。
そのまま霊が、嘲笑するような目で二人を見上げたかと思うと――
ぐちゃ、びり……と奇妙な音がして、奏彌はふと脚部に奇妙な感触を覚えた。右脚の踵から膝に向かって走るその違和感は、はじめ氷のように冷たく、瞬時に焼けるような痛みとなって彼を苛む。
視線を下に向けると、彼の脚には一本の棘。布地と皮膚を貫いて入ったそれは、筋を切り裂き、骨を掠めて、勢いそのまま対面の皮膚を破って頭を出したのだった。
霊たちが一斉に逃げてゆく。蜘蛛の子を散らすが如く、四方八方に。その光景は、悪戯が成功した瞬間の悪童のようだ。
そして奏彌は、自身の身に何が起こったのかを瞬時に理解した。
「離れろ罠だっ……!」
吹き出る血液。足元の砂利が朱く染まり、月光を受けててらてらと輝く。急激な出血で眩暈に襲われつつ、咄嗟に奏彌は隣の禊に目を遣った。
しかし禊は動かない。動くことなど、できよう筈もなかった。
彼女の下腹部から鳩尾にかけて、骨のように白い三本ばかりの棘が貫いている。鈍色の水兵服が朱く染められ、瞳は頭上の一点を見つめたまま動かない。
「禊ィッ!!!」
奏彌は間髪入れずに札を取り出し、腹の底から掠れた声を絞り出す。
「蒼経呪恢……『縢撚膏糸』ッ!」
札は二枚、それぞれ翡翠色の光を放つ。片方を自身の脚に添えると、皮膚が再生し、互いに繋がり合って傷を埋め合わせる。
同時にもう一方を禊に向かって翳す。すると禊が光に当てられて……
「――おっと。橘は駄目だぞ」
頭上から響く男の声。地表から新たな棘が出現し、札を貫いてずたずたに切り裂く。
「ッ⁉」そして見上げた奏彌の視界には、墓石の上に立つ一人の男。
ほつれて穴だらけのワイシャツを纏い、ぎらりと光る瞳はさながら猟犬の如く。伸びて荒れ果てた黒髪を揺らすその男は、その手に大振りの鎌を携えて嗤う。
奏彌は札に手を伸ばす。呼び出すのは障壁。まず守勢に徹し、思考を巡らせるだけの余裕を確保するために。
しかしここに、それを望まぬ者がいる。
「あ、あ……らあああああッ!!!」
禊が動いた。かっと見開いた両眼で男を睨み付け、己の胴を貫く棘を掴んでへし折る。
解放された禊はほんの一瞬よろめくと、即座に抜刀して三日月状の炎を放つ。
「おっと。ま、そう楽には死んでくれんよな」
口笛を吹き、余裕の表情を浮かべる男。すると彼の真下の地面が隆起し、無数の白骨が寄り集まった壁がせり上がった。
火の粉が四方に飛散して、夜闇に鮮やかな華を咲かせる。隙間なく圧縮された骨と土の障壁は、禊の炎を容易く受け止める。
「元気だこと。何百年か経ってひ弱になってんじゃないかと期待してたんだが……」
障壁が左右に分かれ、その隙間から男が現れた。案の定、傷一つ与えられていない。
しかしそれ以上に奏彌を驚かせたのは、腹部に三本の棘を刺したままの禊の姿だ。額に汗を浮かべて息を切らしながらも、しっかりと刀を構えて――つまり、生きている。
「禊お前、どうして……」
「前に言ったよね。わたし、丈夫だって!」
苦痛に喘ぎつつも、この程度で死ぬかとばかりに禊はきっぱりと言い張る。
本来は丈夫の一言で説明できるものではない。創傷の位置からして、恐らく禊の腸は無残なことになっている筈だ。超常と平常の狭間に立つ、境界人なればこその芸当か?
しかし、ここで異変が一つ。男をその眼に捉えた禊は動きを止め、声に当惑の念を滲ませる。
「ここから反撃……え。ふたつ……いや……なんで……?」
炎が防がれたことではない。禊にだけ判る何かが、彼女の戦意と集中力を削いでいるようだ。
「……隠してたって訳でもなさそうだ。本当に知らねえんだな、橘」
男は溜息を一つ、目元に掛かった髪を退ける。
「――え」そして再び、前触れなく禊の足元に棘が生える。どうにも精彩を欠いた禊は、それに気付くのが遅れたようだ。
棘は彼女の左腿から侵入する。そのままさしたる抵抗も見せずに肉を切り、骨を絶ち、鎖骨の側から顔を出した。
串刺しにされた禊の身体が持ち上がり、棘を伝って血が垂れる。手から離れて炎の消えた刀が、朱く染まった砂利に深く突き刺さる。
禊は物言わぬ木偶と化す。月に向かって目を見開いたまま、だらんと四肢を垂らして。
そして言葉が出ないのは、理由は違えど奏彌も同様であった。ここ一か月共に戦ってきた仲間が、眼前で串刺しになったのだ。それも大層あっけなく、何一つ防ぐ手立ても取らぬうちに。
「……ッ!」我に返った奏彌の胸の内に、一つの感情が芽生えて花を咲かせる。炎よりも赫く、夜闇よりも黒いそれが、怒りとか呼ばれるものであることを自覚する。
「他愛無い。えらく呆気なかったが、後はお前だけだな……坊主」
奏彌を見下ろす男は、鎌を指先で軽々と振り回しながら言う。恬淡としたその立ち振る舞いは、禊への敵意を隠そうとしなかったこれまでの三人とは対照的だ。
それはまるで、勝てて当然とでも言わんばかりではないか。
「……僕が懇切丁寧に、お前と一対一で戦うと思うか?」
初めて禊と出会った日、鼎は奏彌をどうにかして監視していた。恐らく今もそうだ。大声を上げて助力を願えば、叱られはすれど、見捨てられるようなことはないだろう。
「俺をこれまでの三人と比べてもらっちゃ困るぜ。官吏に悟られるようなヘマはしねえし、ほら。見てみろ」
男が奏彌の背後を指差す。それに従って元来た道を確認しようとするが――
薄汚い裏路地はどこへやら。奏彌の視界いっぱいに広がるのは、地平線の先、どこまでも続く永遠の墓地だった。
「……異界か」
「そんなとこだ。抜け出す術はないから、まあ……頑張れや」
男は鎌を高く掲げ、それを勢いよく振り下ろす。刃が足元の砂利に深々と突き刺さり、そこから怪しげな紫の光がどっと溢れ出す。
「信義は彼方に、黄昏は此処に――『
奇妙な詠唱と共に男の足元から噴出したのは、夥しい量の泥だった。一切の光を捕えて離さない黒を湛え、まるで一つの生命のように脈動を始める。
泥が寄り集まって形を成す。大柄な四つ足の獣を思わせるソレの体高は、大人およそ四人分。体表には無数の毛が伸び、身体の各所に深紅の炎が揺らめいている。
「手出しはしねえ。まずはコイツと戦ってみろ」
不自然に巨大な頭部が三つに分岐し、それぞれが狼のような頭を形成する。鋭利な牙の隙間からは、地を震わすかの如き唸り声を上げる。
鬣はよく見ると蛇であり、思い思いにガラガラと声を上げている。
「これは……!」
額に一筋の汗を垂らしながらも、奏彌は剣と盾を呼び出して構える。
ソレがどのような存在であるかなど、深く考えるまでもなく知っている。
――
テュポンとエキドナによって生まれし三つ頭の豪犬。ギリシア世界は言うに及ばず、哲学や悪魔学にも一定の名を残す獣。それが事もあろうに、奏彌の眼前に立っている。
「さあ、やろうぜ。まずは自己紹介からだ」
輝く月を背景に、男は腕を広げて高らかに宣った。
「我は偽窮者、背負いし業は『
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