「故習。」~10代から20代に書いた詩

天川裕司

「故習。」~10代から20代に書いた詩

「故習。」

又、今の世間にて、この希薄を破るものは何であろうか。ふと、暴力を目にした。暴力とは人の内から出る簡単な感情であり、その怒りの程度は少なくとも希薄の脆弱さよりはあついものと思える。しかし、所謂この社会に出て、暴力をふるえば、その一度で己の他人から得る信用は失い、そこにはいたたまれなくなって去らなければならなくなってしまう。しかしこの世の毒の花達は、その暴力をふるう一時の男というものを欲しがり、無責任さと同時に裸をも露呈する。男にとっては板ばさみである。最も、脆弱い男にとってである。この希薄が溢れている世間を生きるのに必要な力を欲しがって、一体何のつよさを持てば良いのかわからなくなり、迷いの淵におちてしまう。例え、その晩にその淵におちて行ったとしても、その翌朝には又世間に戻って行かなければならないのである。つまり、続いて行くつよさでなくてはならぬと、人は気付くのである。その答は千差万別で、又その故にそれぞれに少しのずれが生じる。そのずれに人は埋没して行って、その度、むなしさを覚えるのである。暴力ではないのか。人が死んだところですべてが終るわけではない。何か別のもの。人はここで、愛情とは言わなかった。それまでのその人の過去が、そうさせたからである。「愛情」と言ってしまえばそれ故に、又人を憎むようになるのを知っていた。もう幾度か味わっていたからだった。この事をすべてにおいて解決するのはきっとこの世の時、すべてが拭い去られる再臨の時だと人は以前から思っていた。その事に、人はもう一度つよく念を押した。


又、人は思った。自分より無力の人を見た時、そのために力になれた事を嬉しく思う。どんな時でも自分の内には「自分」が幅をきかせているもの、その「自分」はかつて存在のために消え失せる事はできない。しかし、「自分」が無力だと気付いた時、その人の事がわかるのである。


「故習。」

 希薄化した人間の会話にはもう付き合いたくない。より深い事を語ったとしても、最後で失敗してしまえばその人達は聞く耳を持たない。希薄化した人達とはそういうものだ。その会話は格好を気にした会話で浅く、深く語る者にとっては自と敵対するものになってしまう。深い意志も浅い言葉で片付けられてしまうのだ。私の同じ年頃の友達は皆、その会話が出来ない者であり、それ故に少し合わねば散ってゆく者達である。これは私自信もそうであり、この世間の風潮がそのようにさせたのである。私はこの希薄を憎んだ。


「哀しみの中にて。」

 女は美しさを装い、昔の財産を忘れてこの世の中をその両足にかけようとした。その足の下には金銀をまとった権利を持つ者が居り、又もう一方の足の下には裸の女が、幾人も腰を下して居た。たわいない人の言葉は、その女の口から噛み砕かれ、その地では「あざみ」のように外見が悪い物となった。一人の女は、その「あざみ」をよけて通って行った。一人の男は、その「あざみ」をよけて通って行った。二人連れの女は、一方はよけて通り、もう一方はそれを踏みつけて通って行った。又二人連れの男は、一方はよけて通り、もう一方はやはりそれを踏みつけて通って行った。又そのあとで来た者は、そのそばまで近寄り、手に持っていた水をその土に染み込ませた。そのためにその「あざみ」は、盗まれる事はなかった。その者が浸した水によってその草の根は、土地深くまでその一端を張り、つよくその土地に生えていたから、その盗む者達には盗みにくくなっていたのである。しかしその土地を離れた町は、欲望に満ちていた。女は歪った愛で以て男達を内から駄目にしてしまい、その男は権力を以て女を内から駄目にしていった。その互いをむなしくさせた愛とは、目に美しく見えるものであり、それ故にそれに奔弄される者達は多かった。目に見えないものを信じ抜く者達にとってそれは残酷であり、耐え難い苦難となった。そしてそれ故に、様々な人の噂も生れ、論争も起った。一つところに塊っている欲望の化身が、全地を覆い込んだ。その全地の内の「あざみ」が生えた土地は、そのかすかな光を消す事はなく、それは今も尚続いている。

又ある女は暗い色をした着物をはおって、表へ出た。空は一面に青く晴れ渡っていた。そこを通りかかった明るい色をした異国の服をはおった若者が近寄って来て、「先程林の中を歩いていたら野花(ののはな)があったのでこれをあなたにあげよう。」と差し出して、言った。するとその女は、「わたしの着ている服をご覧下さい。あなた様はこのような暗く貧しい女にそのようなお言葉を口にしてはいけません。あの晴れ渡った空をご覧下さい。そこに一点でもわたしの着た衣(ころも)のような暗さがあるでしょうか。あなた様はきっと、ご自分のはおっておられる着物色の明るさを気付いてはいないのです。どうかわたしを見ずに、あの一点の汚れのない空を見上げたままで通り過ぎて行って下さい。」すると男も答えた。「では、あの古く暗いものとなった井戸をご覧なさい。あれは今となってはもう使われてはいないが、その以前には人を救った。神の御心があれば、あの古い井戸でさえ古いものにはならず、又土から水を溢れさせる事が出来るのです。それは人の為すものではなく、人が信仰に努めている間に為される事です。一人の故に暗さに惑わされてはなりません。」そう言って、花を受け取った女を見て歩き去って行った。

 又暫くして、女は暗い着物を着て表に立っていた。空には一面に雲が覆い、風が吹いていた。そこを通りかかった明るくも暗くもないその国の服をはおった老人が近寄って来て、「先程、やぶの中で野うさぎが道に迷っていたのでそれを捕まえ、食べるに良さそうだったのでこれをあなたにあげよう。」と差し出して、言った。すると女は、「先程も、丁度通りかかった若い人が、あなた様がなさる事と同じようにしながら、この花をくれました。しかしあの空をご覧下さい。時は同じように進んでいるのです。例え、その野うさぎが今日の分の食糧となったとしても、それが何になりましょうか。人は時に、知恵浅き者です。でもその知恵浅き時の自分のために、生涯を棄げてしまう事があるのです。きっとそれだけのものを失くさなければ終えられなかったのでしょう。では、その野うさぎはわたしには托さず、あなたの糧とすればいい。人にはそれぞれに、それなりの決意があるのです。さぁ雨の降る前に、立ち去って下さい。」すると老人はその野うさぎを懐(ふところ)におさめ、無言で立ち去って行った。

女はその日の晩、その老人のよこそうとした野うさぎの糧がないために、空腹で床に伏した。床から見える夜空には、星が出ていた。雲は昼の内に雨になり地におさめられ、その地の糧となった。女は命の続くために、その床で祈っていた。すると、三日後のその野花から実が成り、その実は食べるのに良いものとなった。その実のお陰で女は回復した。そしてその翌日は、明るい着物を着て表に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「故習。」~10代から20代に書いた詩 天川裕司 @tenkawayuji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ