第5話

 あれから一週間、何事もなく過ぎていた。

 何事もなさ過ぎて、早く感じるほどだ。

 矢張り、年の限界かな。

 外見とは裏腹の事をしんみりと考えつつ、雅はとあるビルの待合で、遠くに座る同級の若者を見ていた。

 現在、新曲の収録に望んでいるランホアを、レコーディング室の外のベンチに腰掛けて、暇つぶしに文庫本を開いて読みながら、出てくるのを待っているように見える。

 だが、ひと月ほどの学校生活の中のよくある風景だったため、雅は騙されなかった。

 熟睡している。

 授業中でも、一度として注意をされることなく、毎日毎時間熟睡していることを知っている雅は、溜息を吐いてしまった。

 また妙な特技が、出来てしまった。

 まだ成果を試す前に、この仕事に入ってしまったが、睡眠学習がどのくらい、テストの成績に通用するか、大いに興味はある。

 だが。

「……仕事中は、不味いだろう」

 思いつつも見守るつもりで、遠くのベンチに腰を落とした雅は、収録を終えて室内から出てきたランホアが、セイの方に近づいていくのが見えた。

 自分の心境には何の解決も導かれていないが、冷静さは取り戻したため、一週間前には思いつかなかった疑問が、ようやく湧いてきた。

 その間に、担任や弟分の話も聞き、雅なりの裏付けも出来ていた。

それでも分からないことは大いにあり、もう一度、あの少女と会ってみようと言う結論に至ったのだが、姿を見て一週間前の拒否反応を思い出し、躊躇ってしまった。

 そのまま見守る女の目線の先で、ランホアは苦笑してセイの顔に手にしていた紙袋を押し当てた。

 有名な、饅頭店のロゴが入った紙袋だ。

 まだ暖かいそれを押し当てられ、うっすらと目を開いた高校生を見下ろし、少女は口を開いた。

 短い言葉だったが、ここからでは遠すぎて聞き取れない。

 だが、セイが何かを答えた後、紙袋から手のひらほどの中華まんを取り出したところを見ると、食べる? か、どっちがいい? だったのだろう。

 それを受け取った付き人の隣に座り、ランホアも中華まんを取り出し、一緒にかぶりついている。

 ほのぼのとした、なんとも心の温まる光景だ。

 ぼんやりとそれを見ていた雅に、呑気に声をかけてきた者がいた。

「随分、仲が良くなったのね、あの二人」

 下校途中の格好のままの雅が顔を上げると、そこには同じく仕事帰りのロンが立っていた。

 手にしていた缶コーヒーの一本を女に差し出し、勧める。

「はい。驕りね」

「有難うございます」

 受け取った女の隣に座り、緑茶の缶飲料を開ける男を見やり、雅は先日の事を思い出し、居心地悪い思いで謝った。

「先日は、すみませんでした。まだ、痛みますか?」

 神妙な女に、ロンは笑って答える。

「あたし、あなたの攻撃をまともに受けて、ダメージを受けるくらいには弱いけど、それを一週間も引きづるほど、年寄りでもないわ。安心して」

 おどけるような答えに、雅も軽く返した。

「そうですか? 少し前まではもう少し、手ごたえがあったように思いますけど。いくら機嫌が悪いからって、あれは遣り過ぎました。お年寄り相手にあれは酷かった。反省しています」

「ええ、充分反省して頂戴。あなたより年配でも、同世代と言ってもいい程度の差よ。話が合う年寄りは、大事にしなくっちゃ」

 これは、完全復活を遂げている。

 こちらはまだ、本調子ではないと言うのに。

 言いようのない感情が、雅に溜息を吐かせた。

 ほろ苦いコーヒーを味わいながら、自分の苦い気持ちを奥底に飲み込む作業をしつつ、目線は遠くの二人に投げる。

 近づけばあの緊張感のない空気が、固まって感じるのだろうか。

 そう思ってしまうほどに、ランホアの表情は柔らかい。

 一週間前とは大違いだ。

「……今の所、何事もないみたいね」

「ええ」

 ぼんやりと見つめながら答えた雅は、短く言った。

「カスミと言う人の子供というのは、安藤社長らしいです」

「ええ。そうらしいわね。高野さんに聞いて、びっくりよ」

 安藤克実と和実の兄弟。

「克実さんの方が、千ちゃんや高野さんの同級で、弟さんは二歳下」

「珍しく女の人を、一度の妊娠で手放さなかったみたいね」

 そして、問題は弟の方の結婚相手であるようだと、高野は言っていた。

「チョウ・メイリンという女性は、この国の真田商事という会社の社長の、娘みたいね」

 その名に聞き覚えがあり、ロンはこの数日で調べた。

「セイちゃんから引きついだ仕事の中に、その会社の名前があったわ」

 重要度はまだ高くない。

 だから、情報として渡された資料の、下の方に埋もれていた。

 遅くにできた長男が、不慮の事故で他界し、気落ちしている社長の後継者の座を狙い、血縁が動き始めており、その波紋が世間を騒動に巻き込みかねないからという、注意書きが添えられていた。

「気にかけるだけでいいという事で、重要度も低かったんだけど、そのメイリンさんが、今回被害に遭ったのよね」

「その敵が打ちたいと、娘さんがいきり立っているんだろうと、そういう事でした」

 二人は頷き合って、小さく溜息を吐いた。

「辻褄、合いませんよね?」

「ええ。ランホアちゃんが、メイリンさんの娘さんなら、カスミちゃんの子というのは、おかしいでしょ?」

「その辺りも、千ちゃんには訊いてみたんですけど、和実さんの方とは、長く顔を合わせていないみたいで。娘が出来ていたのを知ったのは、今回の件を持ってこられた時に、克実さんから聞いたのが初めだったそうです」

 つまり……。

「赤の他人を娘と偽って、世間を騒がせているという事かしら? 炙り出しをするためだけに?」

「赤の他人ではないでしょう。腹違いの兄弟、でしょう? 安藤兄弟から見たら」

「でも、あんな小さい娘さんを、囮に?」

 したくてしているわけではないだろうと、二人は思う。

 でなければ、メイリンがランホアを庇う事態にはならなかっただろう。

 それが予測外の動きと、安藤兄弟が思っているのならば、印象を変えなければならないが、メイリンの代わりの護衛を雇おうと考えているところを見ると、そういうわけでもなさそうだ。

「ランホアちゃんの事も、大事にしているように見えるのに、炙り出しを止めようともしていない」

「あの見た目からは信じられないけど、あの子本人の実力を信じているのかも」

 カスミの子供なのならば、そういう事もある。

 寿命はまちまちだが、意外にも何かの能力が高く、成功する例が多くみられるのだ。

 それにもう一つ、ロンは情報を得ていた。

「律ちゃんに尋ねたら、水月ちゃん、今のお仕事の合間に、別なお仕事も手掛けているんですって」

 そっと差し出すような情報提供にも、雅は遠くの二人を見つめたままだ。

 だが、こちらの言葉に耳を傾けているのに気づき、男は続ける。

「エンちゃんも休日返上で、その手伝いをしていたみたいよ。どうも、一人でやるにはややこしいお仕事だったみたい」

 どんな仕事かまでは訊けなかった。

 訊いても教えてくれないだろう。

 だが、メイリンが襲われた日に、二人は揃って休職届を出した。

「だからあたしは、この件に関わっていると見ているんだけど……」

 自分の勘でなくとも、そう考えられると思うのだが、雅の父親でもあり、自分の叔父の喧嘩友達でもある水月だけならばまだしも、顔見知りで隠形には長けていないエンまで、何処にいるのか分からないのはおかしい。

 百歩譲って、そんな芸当ができるようになったエンと、その舅となる可能性がある水月が、どこかに潜んでいるとしたら、理由は一つだ。

「この件に関わっているとしたら、メイリンさんの事件によって、片手間ではいけないと判断した、という事でしょうけど、表立って護衛している様子もない」

「ええ。表立って護衛するなら、どちらも見目はいいんですから、女装すれば違和感ありません」

「水月ちゃんなら、女装しなくても違和感ないわよ」

 本人たちがいないからと、二人は言いたい放題だ。

 軽口を叩きながらも、二人は同じ結論に至っていた。

「どの程度の襲撃者を炙り出すつもりなのかは知らないけど、念には念を入れて、自分たちの事が玄人であると察せられないように、身を隠しての護衛に踏み込んでいた、って言う所じゃないかしら」

「まさか、私やセイが出てくるとは思っていなかったんでしょうし、こうしている間も冷や冷やしているかもしれないですね」

 そう考えると、少しだけ気は楽だ。

 雅は軽く言いながらも、目は遠くの二人を見つめ続けていた。

 意外に、ランホアもおしゃべりらしく、黙ったままのセイに何度か話しかけている様子が伺えた。

 子供らしいはしゃぎ方はしていないが、自分と相対した時の様子とは大違いだ。

 あんなにエンに似た娘に会ったことがあるのならば、忘れるとは思えないのだが、今まであった記憶が全くない。

 なのに、こちらの状況も、雅本人の事もよく分かっているように振舞われた。

 何とも、居心地の悪い感覚だった。

 そんな感情が、表に出てしまっていたらしい。

無言で雅を見守っていたロンが、小さく笑いながら軽く呼びかけた。

「そんなに悩んでいたら、お腹の子供に悪いわよ」

 目を丸くした雅は、思わず返した。

「え? 何で知ってるんですか?」

「ごほっ」

 丁度、缶を傾けていた大男が、盛大にむせた。

 どうやら、空気を思いっきり吸い込んでしまい、茶まで大量に吸い込んでしまったらしい。

 珍しいほどに激しく咳込んだロンを、丁度通り過ぎようとしていたビルのスタッフや、来客も振り返り、遠くの高校生と少女も驚いて顔を上げている。

「ち、ちょっと、大丈夫ですかっ? 何で、そんなに動揺するんですかっっ」

 隣の雅も慌ててしまい、中々咳が収まらず、上半身を曲げて苦しむロンの背を、必死にさする。

 暫くして何とか咳を収めた男が、何とか言葉を絞り出した。

「ご、御免なさい。何故か、肯定の意味と取り違えちゃったのよ」

「そんなはず、あるはずがないじゃないですかっ」

 唖然として言い返す雅に、ロンも何度も頷いて見せる。

「分かってるわ、勿論。柔道技で子供ができるのなら、この日本も、少子化で悩んでなんかいないわよ」

 その言葉で男の方にも、セイが出てきた理由が漏れていると知る。

「……そうですか。本当に申し訳ないです。うちの弟と、友人が」

「その事は、古谷さんたちに後ほど、頭数揃えて土下座しに行きましょう。あたしたちの思惑の外堀を、完全に埋めてくれたのはあの人たちなんだから」

「それを、たったのひと月で、駄目にしてしまうなんて。しかも、目付け役の私が」

 あの学園が件のことを教育するのは、初等部の高学年と、中等部高等部の一年の、夏休み前と決まっている。

 恋愛は止めないが、最後の一線は慎重にと言う、念押しの教育だと言う。

 つまり、初めて学び舎での教育を受けるセイは、夏休み前までは無知のままで、そこを突かれての今回の出動だった。

「……でも、それもおかしいわね。あなたの事を心配して、セイちゃんを呼び出すまではできても、説得して仕事を押し付けるようなこと、千ちゃんと戒ちゃんにできる?」

「それなんですよ」

「あなたセイちゃんが、じゃんけん勝ち知らずを十八番にしてるって、あの二人に教えた?」

「いいえ。あの子の弱点なんか、進んで人に教えませんよ」

 セイの弱点は、意外に多い。

 本人も自覚しているため、外に出さないようにしているから、周囲にもほとんど気付かれてはいないが、本当に多い。

 そのうちの、じゃんけん勝ち知らずの件は、昔から何となくそうなのではと思われている程度で、確実にとは言えない。

 だが、少なくともロンも雅も、セイがじゃんけんで勝って、何かを得たところを見たことは、一度もなかった。

 ただ、今回は墓穴だったという事は、教師に聞いていた。

「つまり、そういうどちらも一歩も譲らす、やむを得ずと言う状態になったってことですよね? あの二人相手にセイが。珍しくないですか? これも」

「もしかして、他に誰かいたんじゃない? 二人ほど」

「だと思うんですけど、何でか二人とも、そこまで突っ込んだ話をすると、逃げるんです」

 つまり、この二人を脅せる人材という事かと鋭く察しているが、その人物には思い当たらない。

 いや、正確には、二人の内の一人には、心当たりがあった。

 だが、ようやく医者の芽が出始めた男では、セイを追い詰めることは不可能だ。

「何としても見つけ出して、一緒に土下座させないと」

「ええ」

 獣や異形の部類の自分たちより短命な人間たちは、逆に恐ろしい存在ともなり得る。

 それを身に染みて知っている二人は、この仕事が収まったら、真剣に土下座することを考えていた。

 どのくらいで、その襲撃者を炙り出せるのかは知らないが、囮役を終えたらランホアは国元に帰るのだと言っていた。

「あの子を一緒に謝らせるのは無理、というよりさせる必要もないでしょうから、帰国を見送った後、全員を捕まえられればいいんですけど」

「もう少し、真剣に探してみるわね。事情を話して叔父様たちにも手を借りる事も、視野に入れておくわ」

 事件解決が見える前に、外野の人間は全く別な根回しを画策していた。

 どんな種別の者たちにも、気遣いは見せる必要があると言うのが、自分たちの考え方なのだ。

 やがて、ランホアの移動時間が来たのか、遠くのベンチでセイと少女が立ち上がるのを見て、二人も立ち上がった。

 今日は、顔を見ただけで満足しておこう。

 そう思って、そのまま立ち去る二人を見送ったのだが……。

 その夜には、急展開が待っていた。


 それを雅が知ったのは、春日家で夜を迎え、翌朝の朝刊でだった。

『人気歌手、重傷?! 血の海の部屋から姿を消す』

 見出しが飛び込み、嫌な予感がして凝視すると、今では見慣れた名があった。

 全く予想外の展開に慌て、そのまま外に飛び出そうとする雅を、春日夫人が慌てて止めた。

「夫が一度戻ると、連絡してきましたので、それまではお待ちくださいっ。流石に、この時間の疾走は目立ちますっ」

 その上、春日家の一人息子も体当たりで止めてきたので、何とか落ち着きを取り戻し、それでも落ち着きなく春日氏の帰りを待つ。

 夜中呼び出され、一時帰宅してきた春日氏は、雅を拾って戻ってくるように言われているようだ。

「……チョウ・ランホアという、少女が寝泊まりしていた部屋で、居直り強盗があった模様です」

 長男を学校に送り出した後、その父親の春日氏は、朝食を取りながら報告した。

「居直り強盗? 盗る物がないのなら、居直る必要もないはずなのに?」

「ええ。ですから、切羽詰まった者が押し入っていたのでしょう。刃物を持っていたくらいですから、計画的にその少女を、狙っていた可能性もあります」

 最近では防犯面も進化したが、それに伴って犯罪者側の手口も巧妙化するか、残虐化する傾向がある。

 平和とは言え、異国の人間を受け入れ始めているこの国は、防犯を破られたときの危険度が、昔よりも高まってしまったようにも思える。

 要は、見つかってしまっても、被害者の口を塞げば死人に口なし、自分の言い分を堂々と主張できる、そう思い切る加害者も多くなっていると聞いた。

 囮云々と言っているから、ランホアもあのなりで玄人なのだろうと、つい油断してしまった。

 最悪だ。

 舌打ちしたい気持ちの雅は、声を抑えて尋ねた。

「セイは? 何て言っているんです?」

「……そのこともあって、あなたを呼ぶようにと、言いつかりました」

 朝食を無理に押し込んだ春日氏が、言いにくそうに答えた。

「現場は記者も詰めています。あなたまで目立っては大変ですので、車で迎えに行けと」

「……」

 これ以上はないと、そう思い込んでいたのだが、更なる最悪な事態が潜んでいた。

「まさか……」

「詳しくは、現場で」

 短く言った春日刑事と共に、覆面パトカーの中に乗り込み、現場へと向かった。


 自動車で往復二時間弱の場所にある現場に、半分ほどの時間でたどり着いた覆面パトカーは、サイレンを有効に使ったようだ。

 これでは、雅も車の中で質問攻めなどできなかっただろう。

 高野信之は長男の明彦あきひこと共に二人を迎えながら、一人頷いていた。

 転がるように助手席から出てきた雅は、珍しく青ざめていた。

「申し訳ありません。急いで戻るようにと、言われていたもので……大丈夫ですか?」

 春日が心配そうにその顔を覗き込むのを、女は珍しく弱弱しい目で見上げた。

「……あなたが、高野さん方といて、平然としているわけが、分かった気がします」

「有難うございます」

 褒め言葉なのか皮肉なのか。

 どちらなのかは分からない言い草だが、部下は褒め言葉ととって礼を言った。

 が、これは聞き捨てならないと、つい信之が口を挟む。

「お言葉ですが、我々の方が、笑顔の殺人鬼やら天然の責任者で慣れているから大丈夫なだけで、スピード狂のこいつが、我々に合わせているわけじゃあ、断じてないです」

「……君は、この人がスピード狂と知っていて、迎えにやったのか?」

「勿論ですとも。でないと、あなたを早急に呼べませんから」

「……」

 けろりと言い切られ、雅は溜息を吐きつつ立ち上がった。

 先程まで、宙を飛ばされているような、初めての感覚で気分がすぐれなかったが、ようやく地面を踏みしめている感覚が戻って来た。

 無事ついたから、よしとしよう。

 舌を噛みかねないスピードで、生きた心地がしなかったが、もう終わったことだ。

 でも、帰りは歩いて帰ろう。

 強く心に決め、ようやく本題に入る。

「ランホアちゃんが、いなくなったって?」

「はい」

「セイは?」

「それが、本題なのですが……」

 矢張りそうなのかと目を険しくする雅を、三人は記者たちが張り込んでいない裏口からビルへと誘導する。

 狭い廊下を抜け、事務所と同じ一階の角部屋に辿り着きドアを開けると、見慣れた捜査風景が飛び込む。

 ワンルームのこの一室で、ランホアは寝泊まりしていた。

 物々しい監察の作業をドアの前で立ち尽くして見ていた刑事が、同じように立ち尽くしてしまった雅に言う。

「……不味い事態に、なっちゃったわ」

 割れた窓ガラスの近くの床が、血の海で染まっていた。

 どう考えても、致死量だ。

「……セイは? 何処にもいないんですか?」

 必死で声を抑えた問いに、ロンは震えそうになる声を絞り出す。

「ええ。さっきから何度も探してるんだけど、どこにも見当たらないのよ」

「ちゃんと、探したんですか? ゴミ箱の中とか、ベットの下とか。もしかしたら、溝にはまっているかも……」

「勿論、そこは真っ先に探してるわ」

 どうも心配している割には、見るところがおかしいが、二人とも真剣だった。

「夕食を取りに行くと言って出たきり、戻っていないみたい」

「夕食? 中華まん五個も平らげたのに、足りなかったんでしょうか?」

「うちで作ってる中華まんは、いつも頭大の大きさだから、足りなかったのかも」

「それは、誤算ですね」

 いつ聞いても本気なのか冗談なのか分からない会話が続き、二人は一番の不安を口にした。

「まさか、ランホアちゃんと、連れ去られたんでしょうか?」

「やめてっ。一番あり得るから、考えないようにしてるんだから、口にしないでっ」

「あり得るのだから、考えない事には始まりませんよ。警察がもたもたしているうちに、こちらで何とかしましょう」

 小声の会話だが、隣にいた刑事の三人にも、一通りの採取を終えた監察員たちと話していた刑事にも、ばっちりと聞こえてしまった。

「……やめてくださいよ。これ以上ややこしくするの」

 苦笑して近づいた刑事は、ロンと同じくらいの体格の男で、どちらかというと警察の人間とは真逆の商売にいそうな、厳つい顔と険しい目つきをした男だ。

「ご無沙汰しています。真面目に通学してると思ってたのに、なんでまたこんな事件に?」

「おはよう、葵君。色々あって、説明が難しいから、今度詳しく話すよ。第一発見者は、安藤社長かな?」

 関係者ではない少女に、表立って事件の概要を話すわけにはいかず、市原葵は監察員たちを一瞥して頷き、部屋を出た。

 部屋の中で見送る春日に頷いてドアを閉め、簡単に概要を語る。

「犯行時刻は、昨日の午後八時過ぎです。どうも、部屋で待ち伏せされていた模様で……」

「ちっ。一緒に送ってくればよかった」

 吐き捨てる女の声は優しいものの、怒りが見え隠れしている。

 まだまだ修行が足りないなと、ロンは思うものの、それは自分もだと反省する。

 加害者よりも、こういう事態になるまで気づけなかった自身に腹を立てているのは、雅だけではない。

 事務所に入り、近くのソファに座る安藤克実に事情を聞く。

「護衛の少年が夕食を買いに出た後暫くしてから、悲鳴が聞こえたんです。慌てて合鍵を持ってランホアの部屋に向かったら、ガラスの割れる音が響いて、チャイムも鳴らす余裕なく鍵を開けて入ってしまいました。そしたら……」

 何度かの聴取と同じことを繰り返し、克実は溜息を吐いた。

「まさか、あんなことになっているとは……」

 ランホアは消え、床は血の海。

 窓ガラスは割られて、外側に破片が飛び散っていたと言う。

「……外側に? 内側には、なかったんですか?」

「多少は落ちていたけど、偶々落ちた程度だったわ。忍び込んだ時に割れたらしきガラスの破片は、窓の桟に落ちていたから」

「? 鍵は開けたのに、わざわざ割って出たんですか? 随分と目立ちたがりな居直り強盗ですね」

 慎重なのかうかつなのか、今一判断がつかない。

 色々と考えられることを頭に並べる女の耳に、克実の悲壮な声が届いた。

「……空き巣も、居直り強盗も、いなかったかもしれません」

「と、言うと?」

 目を向けた先で、克実は顔をゆがめて続けた。

「あなたの代わりに護衛を引き受けて下すった少年、あれから一度も姿を見せません。夕食を買うと偽って窓から侵入して……っ。あんなに懐いていたのにっ。あんな可憐な少女を毒牙にっ」

 高野明彦がたまらず顔をそむけた横で、父親は掌で口を覆った。

 どちらも体を震わせ、必死で感情をこらえている。

「あ、安藤っ……」

 言ったきり、言葉を出せない信之の代わりに、もらい泣きしたのか葵が目を潤ませて克実に言った。

「安藤、気持ちは分かるが、それは違うぜ。雅さんの護衛代行のあいつは、甲斐性なしの権化と言ってもいいくらい、無害な奴だ。逆ならあり得るが、お前の考えるようなこと、しでかす筈はねえよ」

「ほ、本当ですか? あんな愛らしい子を捕まえて、邪な気持ちにならないとは。あの少年、正常ではないんじゃあ?」

「伯父の立場のお前が、そんなこと言っちゃだめだろうが」

「?」

 お涙頂戴の場面のはずなのに、どことなく違和感がある。

 雅はロンと目を合わせ、静かに切り出す。

「甲斐性なしの権化は、言い得て妙だけど、本当に逆の場合でも、ちょっとあの場はおかしいですね」

「ええ。もし、セイちゃんがランホアちゃんに迫られて刺しちゃったのなら、逃げないわよ。事情はぼかすにしても、ちゃんと病院に運んで、社長にも報告するわ。例え、先のような誤解で責められても、謝り倒して終わろうとするのが、あの子よ」

 嗚咽しながらも、克実は目を瞬く。

「そ、そうなのですか。……親父の知り合いにしては、真面目な人だったんですね」

「ええ。どちらかというと、その次世代だから。甲斐性なしばっかりの世代よ」

 自分は違うと、思っているかのような言い草だ。

「……まあ、奥さんがいるから、そう思い込んでいるんですね」

「何か言った? ミヤちゃん?」

「いえ」

 つい言った言葉を聞き咎めた男には優しく返し、話を元に戻した。

「どう探しますか?」

 もろもろの事情を全て飛ばした、結論を伺う問いだ。

 うわ、という顔で天井を仰ぐ葵の前で、高野親子が息をのんだ。

 きょとんとする克実の前で、ロンが言い切る。

「どこの誰が、あんなことをしたのか分からないから、怪しい場所は、全部さらいましょう」

 勿論、闇雲にではない。

 一つの心当たりはあるのだ、そこの関係者を至急洗う。

「手段は?」

「問う必要はないわね」

 信之の口から、悲鳴が漏れたのにも構わず、雅は微笑んだ。

 微笑み返すロンを見返し、言い切った。

「じゃあ、今夜中に行動できるように、裏付けしましょう」

「そうね」

 美男美女の微笑みは眼福のはずなのに、この二人の意図を察している信之には、そんな余裕はなかった。

「お、お待ちくださいっっ」

 罠かも知れないと思うより先に、口を挟んでいた。

 振り返る二人に、懇々と言う。

「まだ一晩しかたっていないと言うのに、そんな動きを容認することは、出来ませんっ」

「まだ?」

 険悪な空気に身を竦める息子と上司の前で、信之は言い切った。

「まだ、ですっ」

 笑顔のまま固まる美男美女が、刺すような視線を向けてくる。

 それに耐えながらも、懇々と宥める。

「いいですか、落ち着いて聞いてください。あの方は、今まで一人で、殆どの事を収めて来ておられます。そして確かに、連絡が取れなくなって心配されることも、少なくはありません。ですが、私の数少ない経験から言わせていただきますと、あの方からの連絡が、三日以内に届くのであれば、逼迫した状態でないことが、多いのです」

「……まあ、例外はあるがな」

「あんたは、黙ってください」

 思わず口を挟んだ上司に、信之は思わず乱暴に返して睨んでしまった。

 今は、説得中だ。

 不利なことは隠すべき時なのだ。

 苦笑して無言の仕草で謝る葵に苦い顔になりながらも、説得を続ける。

「お願いいたします。気持ちは重々承知しておりますが、後二晩、待っていただけますか? 今日の夕方までには全容を把握する駒を、我々は持っております。あの方からの連絡も、それより早く届くかもしれません」

「……もし待って、それこそ最悪な事態になっていたら? 君は、どういう責任を取ってくれるんだ?」

 勢いよく言い切った刑事に、優しい優しい女の声が、静かに問いかけた。

「ひっ」

 明彦が悲鳴を完全にかみ殺し損ね、声が漏れた。

 まだまだ修行が足りない。

 信之は思いつつも、息子を責められなかった。

 恐怖をやり過ごし答えるまでに、少し間を開けてしまったのだ。

「……いくらでも、責めは負いましょう。私一人で済むのでしたら」

「そう。その覚悟、受け止めよう。ねえ、ロン?」

 優しく微笑んだままの雅は、必死の説得を試みた刑事を見守っていたロンを見上げた。

 女と目を合わせた男も、人を食ったような微笑みを浮かべる。

「そうしましょうか。ミヤちゃん、学校でしょ? 送っていくわ」

「ありがたいですけど、歩いて帰ります」

「じゃあ、お見送りに行ってきます」

 先程の空気は、嘘のように霧散して、二人は和やかに会話をしたのち、事務所を後にした。

 刑事親子が、一気に脱力して床に座り込む。

「っ、怖かったっっ」

 明彦が涙目で嘆く横で、信之が安どの溜息を吐いている。

 その二人を見下ろし、社長の顔を放棄した克実が文句を吐いた。

「高野っ。お前、相変わらずアドリブ力皆無だなっ。何でオレの渾身の演技で、噴き出すんだよっ」

「だってお前っ、可憐って、誰の事だよ」

 恐怖を味わった後でも、ついつい思い出し笑いをしてしまう。

「もう無茶苦茶じゃねえか。大丈夫なのか? それに、二人を動かさねえように、時間稼ぎするんじゃなかったのか?」

「大丈夫ですよ」

 心配そうに顔を曇らせる葵に、信之はきっぱりと答えた。

「あそこまで言い募れば、流石に気づいてくれたはずです。……二人とも無事だと」

「そうか、だが……大丈夫かってのは、お前の安否の方なんだが?」

 大男の刑事に問われ、中肉中背の刑事は乾いた笑いで天井を仰いだ。

「まあ、精神的にへし折られる可能性は、あるでしょうから。休職届けの申請をお願いします」

 それは、不味い。

部下の言葉で、葵は一人の若者を探すことに決めた。

 捜索を一通り終え、そろそろ引き上げる時間だ。

 地道な捜査が始まる。

 その若者を、捜査の合間に探す。

 彼は、これから精神面を削られる部下から、あの二人の矛先を変えることができる事情を持っているのだ。

 元相棒であるその若者も大事だが、数少ない人員である信之と秤にかけると、意外に上に傾くのだ。

 悪く思うなよ。

 葵は心の中で軽く謝罪しながらも、街中という迷路の中に迷い込んでいくのだった。



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