つくつく

どですかでん

つくつく

 海は間遠なようで、ガラスの板張の下に波が張る。夜の月が消えた日は透き通ってざらざらのガラスのきわに水面がうつっている。塩がしょっぱいきれいな海ではなかった。

 床上でうなされ、目がさめると口元から唾液が垂れている。つめたい風が床をなでた。ほほをぬぐい、抱きつくように腕を背中にまわしたが寒かった。

 影。

 魚影が走った。

 死んだオウムガイがガラスの下にとどまっている。

 上半身に、するどく傷のついたペンダントがかかっている。何本もの傷の筋がついている。銀のふたを人さし指で開ける。固く、こじ開ける。

 一葉の写真がある。男の子の写真だった。つるつる頭に短い無精髭が生えている。笑っていた。口辺を無理矢理あげている。

 見覚えがなかった。こんなピースをしたことがない。とおもって、ピースをつくってみた。てのひらを折り曲げて、胸から徐々に離してみる。

 ついにうでをぴんと伸ばしてしまった。

 そこに相手はいなかった。

 折り曲げた親指が見えるように、くるりとひっくりかえした。指が二本立っていた。

 てをひらいて胸にあてた。服の上から皮膚をつかんで、にぎってみた。

 やわらかい。かたい。混在している。

 つきでた灯台になだらかな丘陵が反撥した。

 こういう感覚だったろうか?

 鼻に近づけて、てのにおいを嗅いでみる。わからない。

 ぼうっとそこに佇んでいた。佇んで、思いだそうとしていた。思いだそうとして、浮かんでくるのは泡だ。泡は、はじける。はじけて、消える。消えて。……

 ……それから?

 しばらくペンダントをいじって、閉じた。わたしとはちがう。ようだ。が。ほんとう。だろう。か?

「だいじょうぶですか」

 ふいに淑女がいた。うしろにいた。

 女は淡いベージュの服を着ていた。なにを着ているかはよく言いあらわせなかった。

「ここは……」言葉が出てこなかった。

「図書館です」

「図書館……」

 まわりには塵ひとつない。棚ひとつない。本ひとつない。暗さの音だけがどこまでもつづいている。

 淑女は手をさしのべて、体躯をかるがると引き上げた。浮遊感があった。

「契約です」

 女は上着の内側から本を取りだした。海の色だ。

 それを間近にひきよせると、青く見えたものがじつは無色だとわかった。つかむとつかみどころがなく、つかんだ気がしないが液体の感触があって、本のかたちをたもって手の中に収っている。氷と水をいったりきたりするような紙だった。本はひらくとうすい膜のようなページがふたつならんだ。


契り


 べつのページをひらこうとして、めくった。


契り


 文字が膜に透けていた

 チギリ。その言葉を聞くとむずむずするのは性的な意味合いを喚起するから。

 中学生の頃からその言葉を知っていた。はじめはうぶとして、アレもコレもわからなかった。理科の教科書の、メダカの川の中でふりかける受精、アレが通常だと思っていた。

 高校に上って図書館に入り浸るようになると、時々ピンクの象が夢に出現した。ひとりだった。ゲーテ。旧制高校あたりで男子生徒がキャンプファイヤーの焚き火の前でデーカンショと叫ぶ。デカルト、カント、ショーペンハウアーの信奉。ゲーテは当時ギョエテと呼称されていた。その十八世紀はるかかなたの詩人の代表作「ファウスト」と、三世紀、清純なギリシアの恋愛小説「ダフニスとクロエー」に惹かれた小説家。図書館のよく効いたエアコンの送風口に背中を向けて立ち読みするおのれに、汗の不快な臭いがした。ふいにだれかがコツコツと階段を下がった。さっと身を棚のうしろに隠した。肉体のあいだに隠しきれぬものがあった。

 ピンクの運動靴の小柄な淑女は目を凝らしてそのまま歩みよってきた。肩まで切りそろえた白髪交じりの髪に覆われた顔の真ん中に、鼻梁に近い目が隣り合うように並んでいる。

「「ダフニスとクロエー」?」

「はい」

「うらわかいギリシャ男女が野山で裸になって愛撫するイメージは、ある作家のとりこになっていたね。その作家は純文学作家だったが、とうとう通俗小説家になってしまった。T(それはある女性の歌人の名前だ)がその小説家の家に上がって、その男性作家に、とうとう小説で男女を裸にさせてしまいましたぞ! とうれしそうに言われたそうです。かれはかれなりに「ダフニスとクロエー」を模して、戦中を舞台とする清純な恋愛小説をつくりあげた」

「はい」

 農婦とおぼしき黒づくめの女性――名は清水と言った――に、後藤は生涯つきまとわれることになった。メフィストフェレスだったから。【魂のこと】をしたから。魂のことのためには、願いを叶える代りに魂を引換えにするという伝説がある。

 しかし浅黒い日焼けの農婦は、反対に後藤に魂を差し出してきたのだ。魂がふたつある。体をともにしながら生れてきた双子は、半身として切り離されることはかなわずに合わさったままだ。彼女はそう形容した。

「要するに私は二重人格なのだ」

 悪魔のはじめの願いは、この二重の人格を一重にすることだった。解決はいとも簡単だった。切り離された半身が後藤に渡った。

「ありがとう」

 手で卑猥なかたちをつくった彼女は言った。後藤は田舎者めいたそのいたずらに恥じらった。その日は一九九八年一月二十八日、誰かの命日だった。

 大人になって、後藤は小説家になった。下女との姦通を書いた大先達に倣って私小説を書こうとし、失敗した。このいびつな関係を暴露したい誘惑に駆られ、赤裸々に書けば書くほど、しかし滑稽じみてきた。しばらく通俗小説しか書けなかった。フランス文学者の批評家は私小説にたいして、週刊誌的なゴシップ興味は低劣な物だと批判する。しかしそのような倫理観は文学にとって束縛させる枷でしかないと後藤は考えた。だが、自分の生活があまりに浮世離れしているために、そばからおのずと通俗めいてしまう。しだいに批評家は後藤に目を向けなくなった。後藤は童話や絵本にも手を出そうかと考えた。

「しかしおまえにはアンデルセンのような心はない」

「なぜですか」

「その頃、私もまだ少女だった。やつはこんな田舎娘に懇願したのだ。女になりたい、とね! だからアンデルセンの魂を買ったのだよ。しかし男を女に変換することは手間を取らせることだ。さいわい、やつには文才があった! そこを見越して、私は内面だけ女に取り替えたのだ」

 アンデルセンが「人魚姫」をものにできたのは、そのためだった。しかしこれこそ残酷な話だと後藤は思った。

 最後の魂を後藤に渡すとき、悪魔はこう言った。

 ――人間になりたい。

 しかし魂を渡してしまえば、そこに残るのはなにか?

 ただの抜け殻!

 悪魔の魂は人間にはもてあまされる。

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つくつく どですかでん @winsburg

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