溘焉
小紫-こむらさきー
闇夜
「泣くなよ。僕がいなくたって、君には幸せにしてくれる人がいるだろ」
銀色の月を分厚い雲が覆い隠していくと、夜の闇と同じ色の上品に短く切りそろえられたこいつの髪も瞳も空に消えてしまいそうだと思った。
息切れしている呼吸を整えながら早足で歩く。後ろを振り返って耳を澄ませるけれど人の気配は感じられない。
こいつに痛手を負わせたやつらは、もう追っては来ないだろう。
頬を濡らして顎に雫を作っている涙を肩でむりやり拭ってから、抱えていたツルギに目を向ける。自分よりも頭一つ分小さな、パッと見は男子高校生にしか見えないこいつは力なく左腕を持ち上げて細い指で俺の頬を撫でた。
俺の頬に当てられていたこいつの左手からは温度がどんどん失われていくのがわかる。
右手で心臓に刺さった銀の杭を抜いて投げたツルギは俺の顔を見る。
どこか焦点の合っていない目尻がわずかに下がって、それからゆっくりと瞼が閉じられていく。
「そんなことない! お前がいなきゃ……。そうだ、ユミを呼べば」
「……ったく。もう無理だ。ユミには……そうだな、僕はどこかへ消えたって伝えてくれよ」
「今からでも助か……」
控えめな音を立てて落ちた俺の涙に、少しだけ眉を顰めたツルギは乾いてカサカサの唇の右側だけ持ち上げて、いつものように不敵な微笑みを浮かべた。
こいつが死ぬなんて、信じたくないけれど、その微笑みはどこか力が無くて、俺の手首を口元に押し付けても噛みついてくれる様子すらない。
手首を切って血を直接口に流し込もうとしたけれど、両手は塞がっている。
「コウキ、お前は」
俺の名を呼ぶときにわずかに開かれた目はすぐに光を失い、ツルギは息を引き取った。
こいつのことだから、きっと最期まで悪態を吐くんだろう。でも、それももう聞くことは出来ない。
身体を抱き上げて、薄い胸に顔を埋めた。めったに乱れることのない控えめな鼓動は、もう聞こえることはない。
泥まみれのワイシャツに染みこんで広がった涙は、俺の頬をどんどん冷やしていく。
ひとしきり泣いてから、空を見上げる。
真っ暗だった空が、わずかに白んでいた。
「ツルギ」
顔を上げて、名前を呼ぶ。でも、いつものように憎たらしい笑顔を浮かべて俺に返事をしてくれるこいつはもういない。目を離さない。
目を袖で擦る。それから、こいつの背中と膝の裏に腕を差し込んで立ち上がった。
冷たい風が音を立て、土の上に落ちた葉と俺の長い髪を舞い上がらせる。
一歩一歩ゆっくりと土の軟らかい感触を踏みしめながら、目の前に広がっている崖へ進んでいく。
こいつの遺体を、何も知らないやつらに見せたくなんてないから。
こんなこと言ったらどうせ「気持ち悪い」って照れながら言うんだろうな。
ああ、ユミに会ったらなんて言おうか。素直にこいつが死んだなんて言っても信じないだろうな。死に目に会わせなかったことを怒るかもしれない。
なあ、ツルギ、お前は俺を幸せにしてくれる人がいるだろうなんて言ったけどさ、俺もユミもあんたがいたから、幸せでいられたんだぜ?
崖の先端に据えられた大きな長方形の石の台座へと、ツルギの死体をゆっくりと寝かせた。
スーツの内ポケットからタバコを一本取りだして、口に咥える。
安いライターで火を付けて息を吸い込むと、波の音に混じって葉が燃える音が聞こえてくる。
紫煙を吐きながら、俺はツルギが眠る台座の前へ両膝を着いた。
「死ぬのは、俺とユミを
組んだ指に額を付けると、うざったいくらいに伸びてしまった横髪が台座上にはたはたと軽い音を立ててあたる。
一口しか吸ってないタバコの火を台座の上でもみ消して、俺は安らかな顔をしているツルギの顔を見た。
「僕が髪を伸ばせない代わりに、君が髪を伸ばせばいい。君のへらへらした顔はムカつくが、太陽に照らされた麦畑みたいな色の髪とその脳天気な顔を見てるとクソみたいな世界も少しはマシなんだと思えるからさ」
ずっと昔に言われたことを思い出して、また涙が溢れてくる。
鼻を啜りながら、すっかり血色を失った白いツルギの手に自分の手を重ねた。
夜を閉じ込めたような色をした瞳も、同じ色の髪も、もうすぐ失われてしまう。
「さようなら、ツルギ」
こいつの死体を一度隠して、ユミを迎えに行こうかと迷ったけれど俺はその選択をしなかった。
ツルギの心臓に銀の杭を刺した
最初に出会った俺だけが、この人の死を看取りたいと思ってしまったから。
携帯電話が何度も震えるのを無視して、俺はツルギの手に自分の手を重ねながら朝を待つ。
太陽の日がこの人の身体を灰にしてしまうまで、俺はここにいよう。
まだ人間の俺は、この人と一緒に灰になることすら出来ない。
青みがかった紫に染まっていた空の下が、燃えるように赤くなる。
もうすぐ太陽が昇ってくる。
「君にはさ、闇夜なんて似合わないんだ。考え直せよ」
何度も言われた言葉を思い出して、この人は俺を
「じゃあ、俺なんて側に置かなかったらよかったんだ」
泣き言を言っても、もうこいつは何も言い返してくれない。
崖の先端に安置されているツルギの身体は、足先から徐々に灰色に変わっていき、海の方から吹いてくる風によってぼろぼろと無情にも崩れていく。
「……形見の一つくらい残してくれよ」
握っていたツルギの手は脆く崩れて、台座の上に落ちた灰は空に舞い上がって見えなくなった。
涙を拭いながら、その場から立ち上がる。
物心ついたころから一緒だった
雲一つ無い快晴の空の下、俺はポケットの中から携帯電話を取りだした。
息を深く吸い込んでから、電話口の向こうにいるユミに朗らかな声を作って話しかける。
「ツルギの家に行ったけど、どこにもいなかったよ。そう……まあ、そのうち帰ってくると思うけどさ。声が枯れてる? 風邪引いたかも。うん。帰って寝るよ。ありがとう」
いつまで嘘を吐いていられるんだろう。ツルギが俺から「仲間にしてくれ」と言われた時もこんな気持ちだったのかな。なんで俺を
もし地獄に落ちたとき、あんたと会えたら問い詰めてやろう。
そんなことを考えながら、俺はこの場を後にすることにした。
溘焉 小紫-こむらさきー @violetsnake206
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