そのうちなんとかなるだろう

鯖じょー

きっと大丈夫

「藤丸さん、前からずっと好きでした!付き合ってください!」

日差しが照らす廊下で、飛鳥は告白された。それから、何も言わずに彼女は左目に覆い被さった髪の毛を捲り上げた。

あっ、という声が響いた。

「これでも、良いかい......?」

先程まで髪が隠していた影から大きなケロイドが姿を現した。柔らかく艶やかな彼女の肌に突然現れる、太い血管のように顔から浮かび上がった赤黒い傷。皮膚が焼け切れた痕は未だ鮮血に光っていて、あまりにも痛々しい。そしてそれらは白濁に染め上がって黒を失った左目を囲んでいた。

少年が震えた。

「......嬉しかったけれど、ごめんね」

髪を捲り上げていた手を爪が刺さるくらい握りしめて、飛鳥は言った。


生まれた時から世界がぼやけていた。藤丸飛鳥は生まれつき視力が悪かった。はっきり覚えている記憶の中で一番古い、保育園の頃から飛鳥の視界はぼやけていた。先生や同級生の顔だけでなく、空や建物までもがタイルのようにボコボコと区分けされ細かい情報が省略されてしまっているので、思い出そうにも気持ちの悪い情景しか浮かばないのである。しかしまだ視界が悪い程度だったから、眼鏡をかけることで何とかなっていた。

小学生になって、飛鳥は運命の出会いをした。テレビの中に、憧れを見つけた。

『硝子の王子』というアニメ、男の跡取りが生まれなかったとある国で、容姿端麗な女主人公のカミーユが王子として各国を欺き外交をする、という内容である。

初めて見た飛鳥は、胸の内から「かっこよくなりたい」と沸き上がり、それ以来髪を短くして中性的な顔立ちを目指した。元も良かったから、すぐにカミーユのように美しくなれた。内面も王子のように、気高く優しく頼もしい人になろうと、困った人の声が聞こえればいの一番に駆けつけて、何も言わずにそっと手を貸し、役目が終われば大急ぎで帰っていくような子であった。いつの間にか男子にも女子にも愛され頼られ、教師からの評判も高くなっていたが、飛鳥は「王子として当然のこと」として特に気にせずそのまま生き続けた。

小学生に上がってからもいつも通り理想の王子になるために人助けを続けていた。

五年生になったある日飛鳥が下校しようとした時、校舎の裏側からかすかに誰かが怒鳴る声が聞こえた。向かってみると、六年生の集団からバケツで水をかけられている同じクラスの同級生、神谷総一郎がいたものだから、大慌てで彼を引き離して間に立った。

神谷の身体は異様に熱を帯びていて、呼びかけても声が聞こえていないのかブルブル震えるだけで返事もしない。真っ赤な顔なのに真っ青な表情である。

「王子様はお呼びじゃねぇんだ!」

飛鳥より一回り大きい男子集団が駆け寄ってきたから、反射的に飛鳥は手前の奴がブラブラ差し出していた顎に一撃をかます。

すぐさま飛び出してきた二人を受け流し、奥から追撃でやってきた一人の鼻に一発打ち込む。振り返ればさっきの二人がやってきたから、眉間に握り拳を叩きつけた。

倒れ込む野郎共を確認し、一息着いた飛鳥の顔面に熱いものが飛びかかった。何とか顔を逸らしたが、左目と周囲にかかって焼けるように染み込んだ。見ればニヤついた男子一人が空のバケツを抱えて突っ立っていたから、すぐさま殴り倒し、神谷を抱えて逃げ出した。

騒ぎを聞きつけ集まり始めた学生と教師達が飛鳥の顔を見て悲鳴をあげた。液体がかかった部分が、彼らの悲鳴を浴びて徐々に溶けていくような感覚に襲われた飛鳥は、何が何だか分からず手で左目付近を探る。

とてつもない痛みと共に左目の視界が暗くなった。飛鳥は顔を抑え、アスファルトに倒れ込んだ。


飛鳥が目覚めて見たものは、生まれて初めて見た景色と同じだった。真っ白な天井、こちらを覗いてくる看護師、家族.....変わっていない。

ただ、今の光景にはひとつ違う部分があった。赤子の頃はぼやけていても、一応視野は広かったのに、今は自分の左側が見えない。自分の綺麗な鼻が大きな障壁となっている。

飛鳥は試しに左目を瞑って開いてみた。全く視界は変わらない。背中から嫌な汗が出始めた。荒くなっていく呼吸を、胸を撫でながら少しずつ抑えていく。周りの人間達が目を背け始めたのを、飛鳥は信じたくなかった。

右目を瞑った。何も見えない、真っ暗。飛鳥は、急にこんな暗闇に一人捨てられたような冷たさを感じた。

「あ、あのぉ.....僕の目は今どうなってるんでしょうか......」

看護師に恐る恐る聞いてみるも、黙って目をそらすだけである。

母の藤丸典子が唾を呑んでこちらへやってくる。

「いい......?貴女の身体は、貴女のものだから、こうやって黙っていても、いつか気付いて、受け入れなきゃいけないものなのよ」

「それは分かっているけど......」

「だから、私達が言うんじゃなくて、自分の目で、見て......」

典子は手鏡を飛鳥に渡すと、拷問でも受けているかのような歯を食いしばった表情でそばに立ち尽くした。きっと只事では無い。だけれども、母親が子に状態を伝えようとしても口を噤むなんて、一体自分の身に何があったのだろうか。

飛鳥は手鏡を左側から少しずつ寄せていった。綺麗な黒目......鼻......それから、真っ赤な焼け跡と真っ白な眼球。

この世のものとは思えない悲鳴と共に鏡が床に叩きつけられ、割れる音が響いた。一体この現実を、どうやって受け止めればいいのか。少なくとも自分の小さい身体では、全身から溢れ出る名称し難い破壊衝動から逃れられなかった。

一生懸命暴れた所を看護師と典子に押さえられて、飛鳥は悔しかった。涙と一緒に喪失感とか、怒りとか、色んなものを何度もぶつけて出来た感情の塊が、勢い良く崩れていった。笑っているようなしゃくりあげ方しか出来ない。

でも、典子も泣いていた。涙を堪えて、でも声だけはかすかに漏らしながら、強く強く飛鳥を受け止めて。飛鳥は何も出来なかった。


夜になって、ベッドに籠りながら飛鳥は手鏡に写った自分を改めて思い返していた。

外傷性白内障と重度の火傷。医師から告げられた、失明の原因。典子によれば、上級生達がバケツに入れていたのは沸騰した湯であり、それを顔にかけられてこんなことになってしまったという。マネキンから剥ぎ取った顔の左上部を無理矢理蝋で焼き付けたような異様さであったが、熱湯で出来たこの火傷痕と白い眼はまさに焼き付けられたものである。

ツギハギで出来た改造人間が自分の代わりに鏡に映ったようにしか思えなかったが、ふと、神谷はどうしているのか気になった。話を聞くにまだ目覚めていないらしいが、今の彼は、考えたくないが、自分ではなくなっているのではないか、あの熱湯を頭から浴びせられていたのだから。そっと自分のケロイドを触る。中で毛虫が悶えているようなむず痒さ。神谷は、これを身体中に......。呆然とするしかなかった。

想像を振り払った飛鳥は、これから自分はどうするべきかを必死に考える。しかし、何も思い浮かばない。既に失ったものを、どうやって取り戻せば良いのだろうか。ましてや、小学生の身で。

「今は右目が見えているけれどね、それがいつ見えなくなるか分からない。もしそんなことになったら、もう一人では生きられないのよ......」

典子に言われたことが頭に響いた。右目を閉じた時、ただただ深い闇に沈んだ。消灯され真っ暗な病室よりも暗く孤独な、永遠に続く闇。あんな場所へおいてけぼりにされてしまったら......想像しただけで身体が暴れだしそうだった。

「強くならなきゃ......たくさん人助けをして、強くならなきゃ......」

『硝子の王子』のカミーユは、数多の困難に襲われ、命の危険に晒されたが、その度に己の努力と今まで助けてきた人達に支えられていた。

もう一人では生きられない。だからこそ、人に助けてもらえる強い人間にならなくてはならない。焦燥感が眠気を吹き飛ばした。死よりも恐ろしい、無限の暗黒に吸い込まれないように、布団にくるまるしかなかった。


飛鳥は不自由な視界に慣れるため、典子と一緒に廊下を歩いていた。生まれながらに目が悪いのに、追い討ちのように左目が見えなくなったのだから、物との距離感や平衡感覚に不安が出ていた。そして何よりも右目の負担が大きい。しばらく開けているだけで眼球が凝り固まっていき、どんなに頑張っても一時間に一回は休憩を入れないと、腫れ上がってしまいそうになった。

「眼鏡、買わないとね」

「その時は片眼鏡が良いな。かっこいいもの」

沈んだ母親とは対照的に大袈裟な笑顔で返す飛鳥。典子は娘を見る度に、ごめんねだとか、ありがとうとか、複雑な気持ちをこぼさずにはいられなかった。

曲がり角の向こうからヒステリックな声とともに、看護師達がそちらへドタドタと駆け込む姿が見えた。

そっと覗いてみると、知らない女性が看護師達に押さえつけられながら、あの上級生男子達に何度も何度も飛びかかろうとしていた。

「あの子はね、もうあんた達を殴ることだって出来ないのよ!?」

神谷だ、神谷の母だ。

「人だったらあんなこと出来るわけないじゃない!人間じゃないよ!」

黒板を引っ掻き鳴らすような甲高い声が耳を突き抜けてくる。こんな姿にしてくれた憎しみとこれからの不安が共鳴して暴れだしてしまいそうであった。

「聞いちゃ駄目......」

典子が飛鳥の耳を塞いだ。呪いが背中に宿って重くのしかかっているようだった。響く怒号を背に、二人は去っていった。


結局左目は回復の見込みは無かった。何となく分かっていたし、覚悟もしていたが、医者に目の前ではっきりと言われた時のショックはやはり大きかった。

「もし何かあったら、すぐに言ってくださいね」

「はい」

心の隠れ場所が無くなるような感覚であった。

病室を片付けながらも改めて鏡で眼を見つめる。相変わらず真っ白だが、きょろきょろと動かすことは出来る。

「あっという間に見えなくなってしまったように、もしかしたら何かの弾みで急に見えるようになること、あるのかな」

自分に聞いてみるように呟いた。鏡の中の飛鳥が呟いた。

「きっと戻るさ、きっと」

飛鳥は左目と火傷跡を隠すように短かった髪の毛を下ろした。

「あら、良い顔してるじゃない」

病室に入ってきた典子が言った。

「先生から眼帯をもらったのだけど、いる?」

「いや、いいよ」

「そう?でも髪で隠すなら同じじゃないの?」

「もしかしたらさ、急に見えるようになるかもしれないから。眼帯だと、分からないし、うん」

飛鳥は微笑んだ。

二人で病院を出ようとした時、典子がトイレに行くと言いだしたから、出口近くの待合席で座って待っていた。

待合室の向こうから、何やらドタドタと崩れるような足音が聞こえてきた。かなりの激しさに気になりつつも、興味津々に覗く訳にもいかず、俯きながら右目だけきょろりと開けて観察する。

全身包帯まみれの人だ。それは、ただ身体に包帯を巻いているわけではなくて、内側が膨らんでいるのを無理矢理押さえつけるかのように頑丈に巻かれていた。そして、巻き目の隙間から目だけを覗かせていた。

飛鳥はあまりの異様さに注目しすぎたせいで、その人を後ろから神谷の母が支えていたことに気付かなかった。思わず声が出そうになった。あの異形が神谷だということに気付かなかった。それだけではない、彼の姿を好奇の目で覗いてしまったのだ。心臓がキュッと絞られる感覚がした。

神谷が飛鳥に近づいてくる。もしかしたら今の自分を看過してくるのではと思い縮こまる飛鳥の前で、足音が止まった。

「どうしたの、早く行きましょう」

母親に言われたのか、神谷は何も言わずにそのまま去っていった。

それから典子が帰ってきても、酷く鳴り響く心臓が静まることはなかった。


中学生になった飛鳥は、それまで通り皆の王子様として生活していた。左目が見えない不安と、ケロイドを覗かれて怯えられるかもしれない恐怖に苛まれても、強い人を演じていれば心は軽かった。

でもひとつ嫌なことがあった。一度あまり喋ったことのない教師から、「その髪型はあまり良くないから、切ってきなさい」と諭されたことがあった。飛鳥としてもそうはいかないから、胸に一物ありながらケロイドと白い眼を見せた。

以来大人側は何も言ってこなくなったが、生徒の誰かが聞きつけたらしく、誰と話していても、一人でいても、大勢でいても、どこかで熱い視線が注がれているような気がしてならなかった。

それが遠慮や心配の視線ならば良い、しかし、これは明らかに好奇の目だった。一瞬の隙でも見せようものなら、藤丸飛鳥という女の秘密のカーテンを捲ってやろうという魂胆が見え隠れする、悪意。年頃の飛鳥を不安定にさせるには充分であった。

それでも、心の中は常に王子であった。思い込みの力は、飛鳥を強くしてくれた。

それに、そんな雰囲気を感じながらも、何事も無かったかのように自分に接してくれる友人達が救いだった。飛鳥は人の温かさに支えられながら、人助けをし、理想の王子を追求し続けていた。

中学二年生になった時だった。休み時間中に何やら廊下が騒がしくなっていた。それも大きな声ではなく、聞こえないようひっそり喋っている声が何重にも重なって大きくなっているような騒がしさ。

「何事だい?」

「転校生らしいよ」

取り巻きに聞いてみたが、それほどまでに珍しい人が来たのだろうか。少し気になって人混みの中からその転校生がいるクラスを覗いた瞬間、ハッと息を飲んだ。紺色の制服が似合わないぐらいに真っ白な顔は、ぐるぐるに巻き付けられた包帯で、その隙間から眼光が覗いている。

「神谷じゃないか......」

漏れ出るような小さい声だったのに、神谷の目が敏感にこちらを向いた。明らかにこちらを認識している。

学校という社会集団にいるはずなのに、今は飛鳥と神谷の二人だけしかいない空間になっているように感じた。

神谷の眼光が笑っている。口も頬も声も見えないのに、揺れる瞳だけがニヤついているのだ。そうだ、彼は自分の秘密を知っている。今ここで突然ぶちまけられてしまったら......彼と同じ、異形の仲間入りである。あの笑いは、地獄の釜から伸ばした手で、お前の足を掴んだぞという笑いなのではないか。

飛鳥が神谷のいる教室へ飛び込もうとした時、チャイムがなって人だかりがいっせいに流れ始めた。神谷はあっという間に隠れてしまった。


「俺は別に藤丸のことを脅かそうってわけでここに呼んだんじゃないんだ。それはどうか信じて欲しいわけで」

「そう......なの......?」

「一体何をされるつもりで来たんだい」

苦笑い声の神谷を見て、飛鳥の緊張の糸が一気に解けた。関節の力が緩んで壁にもたれる。

放課後神谷に屋上へ続く踊り場へ呼び出された。誰もいない、影ばかりの静かな埃っぽい踊り場は、秘密を隠した二人の居場所としてはお似合いのものであった。

「まず言いたいのはね、俺は藤丸には感謝しているんだ」

小学生時代から大きく伸びた背で神谷が見下ろしてくる。

「あれ以上熱湯を浴びていたら、こうやって生き延びることも出来なかったわけで、今俺が立っていられるのも、君のおかげ」

「でも......」

「そこからは言っちゃいけない」

強い口調で神谷が寄った。

「俺だって何度も思ったさ。こうやって生き伸びることが出来るぐらいの運があったのなら、どうして運ってやつはもっと早く味方してくれなかったんだろうって。今も納得はいっていない。でもな、無理に言い聞かせてやらないと、いつまで経っても立ち直れなかった」

ガラス窓から夕陽が差し込んで、神谷の顔を照らした。そういえば、神谷は良い顔だった。いわゆる、美男子というやつだった。どうしてそれを今思い出したのか、飛鳥はよく分からなかった。

「重いんだろう。藤丸は優しいからさ、俺のせいで、変なこと思わせてしまったんじゃないかな」

図星である。飛鳥の呼吸が途切れそうになった。

「何も言わなくても良いんだ。人間黙っておきたいものはある」

優しい目だった。顔は見えないのに、彼の表情は穏やかだった。

病院で神谷のことを好奇の目で覗いたことを思い出した。あれ以来自分が行っていた王子としての行動には、一種の罪滅ぼしというものもあった。そうでもしていないと自分の良心が許さなかったし、いつか自分に返ってきそうな恐ろしさには耐えられなかった。所詮は自己満足であるが、心は神谷のことを考えていたのだ。

「許してくれるの......?」

「うん......」

堪えていたのに、縛り上げられた精神が解き放たれた感覚を抑えられず、ぐすぐすと泣き出した飛鳥は、そっと背を向けた。神谷も背を向ける。

「ごめんね......ごめんね」

「うん。人は来ないから大丈夫だよ。辛かったろうに。気の済むまで一緒にいるよ」

それから飛鳥は随分と長く泣いた。

ようやっと落ち着いて自分のことを冷静に俯瞰できるようになった時、もう機能を失っている左目からも、涙が溢れ出ていることに気付いた。自分の左目はまだ生きていたんだ。飛鳥は安堵した。

「僕、怖かったんだ。君に許してもらえるかどうか分からなくて、毎晩自分を責めてた」

「俺のせいで追い詰めてしまってたのか......伝えられて良かったよ」

「ありがとう。本当にありがとう」

「うん、こちらこそ」

神谷はそっと飛鳥の目を見つめた。

「藤丸、上手く生きてくれよ」

「うん」

神谷はそう言って階段を降りていった。彼の背中が、踊り場の影に隠れてどんどん薄暗くなっていた。

窓を見ればもう夕陽は半分以上地平線の向こうへ顔をしまっていた。飛鳥も早く帰ろうと思い、どうせなら神谷と一緒に階段を駆け下りて行ったが、既に誰もいなくなっていた。


翌日、学校へ向かった飛鳥を待っていたのはとても騒がしい校舎だった。それも、生徒達だけが喚いているのなら分かるのだが、警察やら救急車も来ている。一体何事なのか。

集団の中を抜けて校門を進んでいくと、危険表示バリケートテープを着けたカラーコーンと警察官が行く手を阻んだ。

「これ以上はいかんよ!」

押し返されながらも警察官の脇からその先を覗く。コンクリの上に倒れている、というより潰れている人間を他の警察官が捜査をしていた。上を見ると、ちょうどそこから直線上に学校の屋上が見える。

校門前まで戻った飛鳥は身震いした。自分と神谷が帰った後に、そのまま屋上へ行って飛び降りた人がいるのだ。

死体を見た時、飛鳥は飛び降りた人間の強い怨念のようなものを感じた。あの潰れようは、何か強い想いが上から踏み殺したとしか思えなかった。彼女の身体に強い寒気が走る。

「おい、藤丸」

顔を上げると、担任の教師が疲れた顔で飛鳥を呼んでいた。

「なんでしょうか」

「ちょっと来なさい」

そのまま校舎へ入り案内された誰もいない廊下で、警察官が待っていた。周囲を確認した彼から一通の封を渡された。

飛鳥は心臓が飛び出そうだった。封には、宛先に自分の名前、宛名には神谷総一郎と書かれていたのだから。

「分かってしまっただろうけれど、飛び降りたのは神谷くんだったんだよ」

担任が言う。

「なんで......なんで......!」

意味が分からなかった。昨日一緒に許しあった相手が、何故自殺なんてことを。あの優しい目は何だったのか。

「私たちは開けられないから、君が確認してくれないかね」

警察官に言われてすぐに手を震わせながら封を開けた。便箋が一枚入っていた。


藤丸、君が今から、他人として生きることを押し付けられたら、耐えられるだろうか。自分は耐えられなかった。あの日から別人になってしまった。それも、神秘のベールに包まれてしまったが故に、常にそれを剥がさんと狙う人間に囲まれて。実際はただの腫れ上がった醜い男がいるだけってのに、あいつらは馬鹿だから、想像力がないから、陰で隠れて噂話を立てることが出来るのだ。

君だけが救いだった。元の顔を覚えていてくれた、同じ境遇の仲間だ。好奇の視線を注がず、ただの人間として扱ってくれた仲間だ。そんな君を一人だけ残してしまうことが、人としてとても情けなく、辛く、許せないことだが、自分には耐えられなかった。

最後に、以前会った時に言ったことをもう一度言わせて欲しい。あの時助けてくれて本当にありがとう。藤丸が来てくれたから生きることが出来たし、ちゃんと自分の本心を伝えることが出来た。

だから、助けることが遅れてしまったなんてこと、思わないでくれ。もっと早く助けられたら、なんてこと、考えないでくれ。今から死ぬ人間がそんなことを言うのは、鬼のようかもしれないけれど、君が来てくれたから、嬉しかったんだ。いつまでも幻影を引きずって自分を責めないでくれ。今から死ぬのは神谷総一郎ではない、醜い火傷を残した他人なのだ。神谷総一郎は君が助けたから、今も元気にどこかで生きている。そう思ってくれ。

ありがとう!ありがとう!僕の代わりに君があと百年生きられることを願おう!さようなら!


飛鳥は頭が痛くなり、ぐったりと膝を崩して壁に倒れかかってしまった。必死に堪えようと思っていたのにどんどんと溢れ出てくるものだから、顔を下げて目を思い切り瞑った。

警察官と別れ、神谷と最後に出会った踊り場に一人座った飛鳥は、さっきから自分の頭を痛めつけている言葉をもう一度思い返した。

「だから、助けることが遅れてしまったなんてこと、思わないでくれ。もっと早く助けられたら、なんてこと、考えないでくれ。」

飛鳥は「違う」と呟いた。

二人は酷い思い違いをしていた。飛鳥にとっての後悔は「包帯まみれの神谷を他の俗人と同じように好奇の目で覗いてしまったこと」だったが、神谷はそれを「飛鳥が自分をもっと早く助けていればと考えすぎている」と思い込んでいた。そして二人は行き違いをしながら許し合い、一人は真実を知らずに死んでしまったのだ。

「なんで、なんで私はあの時、神谷が生きていた頃に、勇気を出して懺悔出来なかったんだ!」

何が王子だ。保身のために事実を隠し、相手が死んでしまってから今更公表しようとしている。馬鹿な女だ。

「ごめんよ......ごめんよぉ......」

右目の視界が揺れて、凄まじい吐き気が襲う。飛鳥は執念で心臓を押さえ込み、吐瀉物を飲み込んだ。胃酸が喉を焼き、気色の悪い感覚が襲う。ここで感情を顕にしたら、ただの女に戻ってしまうような気がした。

奥歯に力を入れ前歯で下唇を噛みちぎる。訳の分からない心情が一気に痛覚へ集中し、ぼんやりとだが元に戻れた飛鳥は、がくりと頭を抱えて階段に座り込んだ。泣かないにしても、せめて落ち着くまで時間は欲しかった。罪を償うのはそれからでも許してくれると言い聞かせる。そうでもなければ耐えられない。飛鳥はひとりぼっちになってしまった。


それからというものの、飛鳥は何度も飛び降りを計画しては、自分の顔を叩いて止めていた。

死は楽になれる。罪悪感という十字架を振り払って、何も考える必要がない場所へ還ることが出来る。それに神谷にも謝れる、こんなに良いことはなかった。神谷と同じように屋上に立ち、顔を打ち付けるのは怖いから目を瞑り背中からぴょんと飛び降りようと何度も試した。

しかしいざフェンスを乗り越え死への崖っぷちに立つと、彼の遺書が脳裏に蘇る。

「ありがとう!ありがとう!僕の代わりに君があと百年生きられることを願おう!さようなら!」

最期の最期まで神谷は自分のことを考え、生きて欲しいと願い続けていた。そんな事実が、飛鳥にとってもう堪らなかった。こんな嬉しくて、優しくて、ほっとするような言葉でさえも、今の飛鳥には呪いである。

「死ねない......死ねない......」

神谷の想いを投げ捨てることなんて、飛鳥に出来るわけがなかった。飛鳥はまたひとつ大きな十字架を背負いながら生きる羽目になった。

そんな折、不思議なことがあった。

寝支度を終え布団に入り、今日の出来事を思い返しながら目を瞑った時、左目の内側からぼんやりと温かい感覚が湧き出た。

「君」

はっきりと聞こえたその声は、低くも優しく紳士的な男の声だった。誰だと思い目を開けて周りを見ても誰もいない。

「どこにいるんだい?」

「ここだよ」

枕元から緑色の瞳がぱかりと開いた。

「君は酷く愚かなことをしてしまったんだね。だからそんなに責めるようなことをしている。だが当然だ。それは受け入れなければならないのだよ」

飛鳥は枕を蹴飛ばした。そして壁にぶつかり跳ね返る枕を何度も踏みつけ、言った。

「今、それもどこから来たのか全く分からないお前が言うことじゃないだろう!」

改めて布団に戻った飛鳥はギョッとした。周りがいつのまにか岩のようなゴツゴツした球体に囲まれて、部屋の壁が隠れてしまっていたからだ。

「誰がいつ言ったところで事実は事実なのだ」

球体から眼が浮かび上がる。思わず殴りつけるも、一瞬で消えた眼は、飛鳥の背後にある別の球体に浮かび上がっていた。手が痛む。球体は見た目通り硬かった。

「逃げるな」

「黙れ!」

飛鳥は布団の中に潜り込んだ。すると毛布から眼がどんどん浮かび上がってくるから、もう飛鳥は手で視界を覆いうつ伏せにうずくまった。ようやく眼は視界に映らなくなったが、声はずっと聞こえてくる。耳を抑えても、頭の中から響いていた。飛鳥はそれ以来夜に全く眠れなくなってしまった。


緑の眼が見えるようになってからというもの、ぼやけながらも見えていた右目がとうとう眼鏡があっても危ういレベルにまで視力が落ちてしまった。

それと同時に、妙なものが見え始めた。ある日から飛鳥の入る湯船には蛇が浮くようになった。初めて見たのは風呂場の戸を開けて、さぁまずはかけ湯でもしようかと手桶を取った時だった。五、六匹のクリーム色なヘビがしゅるしゅると泳いでいるものだから、大慌てで典子を呼んだが、いつの間にかいなくなっていた。不思議に思いつつもとりあえず身体を洗ってから浴槽に入ると、さっきのヘビが現れて飛鳥の身体を這って回るのだ。

どう考えてもおかしい出来事だから、きっとこれは疲れて見えてくる変なものと言い聞かせるものの、それにしてはヘビの柔らかく冷たい感触がしっかりと身体に染み渡ってくる。心休まる温かい風呂は一変した。

「頭がおかしくなってしまったんだろうか......」

ヘビだけではない、あの緑の眼や岩のような球体、大量の虫が頻繁に見えるようになった。飛鳥の目はもうほとんど見えていないはずなのに、それらはしっかりと見える。また、彼らの動く音、声もしっかりと聞こえる。

なにが真実なのかが分からなくなってきた飛鳥はすっかり辟易した。しかし彼らは何度も何度も飛鳥の前に現れては、精神を弱らせて大急ぎで消えていく。もう疲れて仕方なかった。

ボロボロになった飛鳥にトドメを刺すようなことが起きた。飛鳥が学校に心の拠り所を求め例の踊り場でぐったりしていた時、下の方から何やらガヤガヤと騒ぎ声が聞こえた。覗いてみると、そこには神谷に熱湯をかけていたあの連中がゲラゲラ笑っていたのである。

「あれはまぁ、不運だったってことよ」

「まぁやられる方が悪いな」

「はっはっは」

曖昧で適当な言葉を使い神谷を侮辱する連中の姿はあの時と一切変わっていなかった。今すぐにでも飛び出して全員殺してやりたかったが、これもあのヘビと同じようなものだろうと言い聞かせ堪える。

神谷と一緒にいられた場所に、二人を引き裂いた元凶の声が高らかに響く。

「助けて......」

飛鳥の声は弱々しくて、けたましい笑い声にかき消されてしまった。


緑の眼に見つめられながら、飛鳥は自室でうずくまっていた。彼から何か問いかけてくることはなく、ずっと責め立てるような、鋭い目線を注いでくる。そして時折、お前はああだこうだと放ってくるのである。

「......これは、なにか一種の天罰なのかい?」

会話もなくジロジロと見られるのもむず痒いから、こっちから声をかけてみるも反応は無い。

「そうならそうと言ってくれ。神谷なんだろ、君。君が僕に罪と罰を与えたんだ、その眼で何もかもを見透かして、僕が気の狂うのを待っているんだ。全く甘いことを、僕は王子だぞ」

ぎょろぎょろと蠢く瞳を睨み返す。眼光が少し怯んだように見えた。

「自分だけでは勝ち目がないから、バカみたいに訳の分からないものを溢れさせてるんだ。だがそう簡単に負けてたまるか」

「受け入れろ」

急に眼が返答をしたものだから、思わずたじろいで声が出なくなった。暗い部屋にシンとした空気が通り過ぎていく。

「目を背けるな」

「目の癖に何言ってる」

「事実から目を背けるな」

舌打ちした飛鳥は机の上にあるハサミをとって、眼に向かって思い切り投げつけた。大きく鈍い音が響き、刃が壁に向かって突き立った。

「何を喚いてるの!」

廊下から典子が飛び込んできた。さっきの音を聞きつけてやってきたのか、ずんずんと飛鳥の方へ向かって顔を引っぱたいた。

「そこに何かあるのね?私が取ってあげる」

飛鳥の視線の先にいた緑の眼に典子が触れると、それは霧のように消えてしまった。

「何も無いのよ、あなたはね、変なものに惑わされてるの」

典子が娘に寄り添う。

「いいこと?あなたを混乱させるものから私は守ってみせるからね......みんながみんな気狂い扱いしたって、私は母親だから、最期の最期まで見守ってあげる」

なんだか前も同じようなことがあった気がする。飛鳥は目を思い切り瞑って涙がこぼれないようにしたが、ほんの少しだけ漏れてしまったから、こっそり拭き取って頷いた。


「これはシャルル・ボネ症候群ですな」

「シャルル、なんですか?」

「シャルル・ボネですよ」

眼科医が髪を上げて出てきた飛鳥の左目を見つめながら言う。

「先程から話を聞く限り健康で記憶もはっきりしているし、幻覚のことを自覚していますから精神障害や意識障害ではないでしょう。それに飛鳥さんは急激な視力低下、外傷性白内障による左目の失明を経験しています。これがきっかけになったんでしょう」

「でも、目が見えなくなってからしばらくは大丈夫だったんですよ」

「そこについてもちゃんと理由があるんです」

眼科医が周りを確認してから飛鳥に小さい声で聞く。

「飛鳥さん、これは辛ければ詳しく言う必要はないんですが、あなたは最近酷く衝撃的なことを経験しましたね」

頷いた飛鳥は、ぼんやりとあの遺書の文面を思い出した。気付くと眼科医の背後に包帯を巻く前の神谷が立っている。

「見ちゃいけない!目を逸らしなさい」

眼科医に言われた通り自分の足元を見た。

「これはとても大切なことだから言っておきます。シャルル・ボネ症候群で見える幻覚は基本的に目を逸らせば消えるようなものなんですが、時たま何時間も見えることもあります」

もう一度眼科医の顔を見つめると、さっきまでいた神谷は消えていた。

「そしてもうひとつ。この病気で幻覚が見える理由ははっきりとは分かっていないのですが、ストレスが症状を発現させる誘因となることは分かっています」

「......何が言いたいか分かりました」

一呼吸おいた二人は改めて目を合わせる。

「改めて、自分のことを見直せ、ってことですね」

「原因を取り除いて、癒しを作りなさいってことだから、まぁ合ってるのかな」

「でも、僕は耐えますよ。僕は、それが出来る人間のはずですから」

「そういう人間だからこうなってしまったんだ」

ああ、そうか。飛鳥はそう思った。あらゆるものを王子としての運命だからと引き受けすぎてしまったのだ。

「一旦王子をやめて、一人の人間として誰かに頼ってみないかね。元々あなたは女の子なんだから、胸を貸してくれる人だっているだろうに」

飛鳥はすっかり黙りこくってしまった。


通学路で飛鳥は街の向こうに巨大なクモが佇んでいるのを見ていた。以前は特撮番組に出てきそうな四足歩行の恐竜みたいなのが地面を突き破って出てきたり、朝なのにも関わらずサイケデリックで毒々しい色彩の空が広がっていたりしていたが、今日は随分大人しいなと思っていた。

教室に入った飛鳥は、自分の机の隣にもうひとつ机が用意されていたのに気付いた。飛鳥の机は右目の視力が悪いことに配慮した担任によって最前列にあるのだが、クラス内で同じように視力が悪いやつがいるのだろうか。

だが朝礼が始まっても隣に来る人はいない。なんだかよく分からないまま担任の話を聞いていると、彼が忘れてたと言わんばかりの反応で、

「今日から一緒に生活する転校生がいます」

と言い出した。神谷がいなくなったのを見計らって現れたかのような意地悪いタイミングである。

担任の合図に合わせて戸が開く。同時にクラスの男子が唾を飲むような音が聞こえた。

輝かしい金髪で、スタイル抜群の美少女が入ってきたのだから、それはもう皆が落ち着いていられなかった。

「金色星見です。よろしくお願いします」

黒板に名前を書いた彼女が振り返る。カナイロホシミ、なるほど確かに金色で星のように輝いている。ここまで名の通りの人を見たことがなかったから飛鳥は感心してしまった。

「金色は藤丸の隣だ。困ったら何でも聞いてみろよ」

星見は一礼しそのまま飛鳥の隣の席に座って、「よろしく」と呟いた。飛鳥も「よろしく」と呟いた。ここまで綺麗な人はそうそういないから、そのまま授業が始まっても星見をしばらくじっと見つめていた。

昼休みになり、弁当箱を取り出した飛鳥に星見が顔を寄せた。

「一緒でいい?」

「ええ」

彼女も弁当を食べるのかと思いきや、そのままにこやかに座って何もしない。飛鳥の箸裁きを興味深そうに目を開いてみるのである。

「お弁当、忘れてしまったんです?」

「まぁそんなとこです」

気にしないように配慮しているのか笑っている星見だったが、自分の腹の虫が鳴いて真っ赤になってしまった。なんだか猫の瞳を覗いている気分になった飛鳥は、いじらしさでのくすぐったさに胸を襲われて、そっと弁当箱を差し出し、

「食べてください」

と言った。

「いいの?」

「ええ。初めてここへ来たんですもの、そういうこともあります」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

申し訳なさそうに箸を手に取った星見だが、何やらモジモジしている。なんだろうと見ていると、彼女は弁当箱の卵焼きを取ろうとしては上手くいかず滑り落としていた。

ははぁ、と思った飛鳥は星見から箸を取って、卵焼きをとり、

「口を開けて」

と言った。直後飛鳥は自分が相手に酷く不躾なことをしているのを自覚して、あ、と一言、硬直した。

星見も最初は戸惑っていたが、すぐにやんわりと微笑み周りから見られていないのを確認してから卵焼きを一口で食べてしまった。

二人は改めて目を合わせてみたが、段々とおかしくなった。大きな笑いとか楽しさがあるわけではないが、二人の間には妙にふんわりとした温かさが漂っていた。


「そういえばお名前を聞いていなかった。なんて言うんですか?」

「藤丸飛鳥です」

「藤丸飛鳥さん。かっこいい名前。だからお顔も綺麗なのね」

「......ええ、ええ」

「下の名前で呼んでいいかしら?口で言いたくなっちゃう」

「ええ......もちろん。じゃあ僕も下の名前で呼んで良いですか?」

「はい!」

放課後、担任から軽い学校の案内を頼まれた飛鳥は星見を連れて四階まである校舎を歩いていた。

廊下に揺れる影があった。一人で大量の資料を運んでいる女子生徒。飛鳥はすかさず手を貸し、半分以上をひょいと抱えた。

「お手伝いします」

「あ、ありがとうございます!」

「うん、気にしないで」

星見も飛鳥の手にある資料を取った。

資料を部屋に片付けてさぁまた案内だと思ったらまた揺れる影。今度は教師が窓を掃除しているではないか。飛鳥は飛んでいく。

「お手伝いします」

「おお、いつもありがとうな」

星見も窓拭きを手伝った。

「なんだか酷く暗い顔をしていますが、良いことをしたんでしょう?」

夕暮れで薄暗くなっていく廊下と同じような気の滅入り方をしていた飛鳥を、星見はしっかり見抜いていた。

『一旦王子をやめて、一人の人間として誰かに頼ってみないかね。元々あなたは女の子なんだから、胸を貸してくれる人だっているだろうに』

あの時の眼科医の言葉が胸に刺さる。そうは言っても、身体が勝手に人助けをしてしまう。日々習慣のように誰かを助け続けた、頼れる王子を目指していた飛鳥にとって、元の人間に戻れなんてことはそう簡単に出来るものではないし、そんなことはしたくない。

アイデンティティ。この言葉が飛鳥にとっての人助けを表している。存在意義を失うのはいつだって恐ろしい。

「大丈夫だよ。元気だから」

空元気。

「......そう」

星見はそれから飛鳥について何も言わなかった。


雨降る放課後、何もすることがないのでとりあえずまだ新鮮な学校をほっつき歩いていた星見は、音楽室からずいぶんと楽しそうな、懐かしい感じの曲が流れてくることに気付いてそっと覗いた。

誰もいない音楽室のど真ん中で、特等席からコンサートを見ている人のようにでっかく座ってCDプレーヤーから流れる音楽を聞いている飛鳥がいた。椅子へのもたれ方がすごいものだから、そのままスライムみたいにどろりと滑り落ちてしまいそうで面白かった。

「何聞いてるの?」

慌てて装いを整え普段のしっかりした顔に戻った飛鳥は、ちょっと赤くなりながら座り直した。

「なんだか穏やかな曲調だけど、古い曲なの?」

「うん。18年前だから、僕らより年上だね」

「夏って感じの曲」

「透き通ってるんだ、胸にスーッと染み込んでさ、心地良い」

飛鳥が語りながら椅子を持ってきたから、星見も隣に座った。

「ここは良い場所なんだ。自分の好きな曲を好きな音量、好きな格好で聴ける」

さっきと同じように少しずつとろけ始める飛鳥を見て、星見も肩の力を抜いてそっと背もたれに寄りかかってみる。目を瞑り、耳を澄ませてみれば、全身に歌詞と旋律が入り込んでくるような気がする。

「他にはどんな曲聴くの?聴かせて」

飛鳥の髪の毛がぶわりと膨らむ。口元の緩みが可愛らしくなって、目が輝き始めた。星見はその時、彼女が隠していた白くぼやけた眼が現れたのに気付いた。星見は何も言わなかった。そんなこと、今はどうでも良い。

飛鳥がケースからCDを取り出す。知らない人が書かれていた。

「それも古いの?」

「これはまぁ50年前だから、僕のおじいちゃんおばあちゃん世代だね。誰も知らないと思う」

ギターの音とやさぐれつつも優しさを捨てられないような男の声が流れてくる。世の中の狭苦しさとか、自分の心の内、日常のワンシーンを切り取った歌詞が、切ない気持ちになるリズムと共に乗ってくる。

「これは、演歌ってやつ?」

飛鳥がずっこけた。

「えーっとですね、これはフォークソングってやつなんです。とはいってもアメリカとかから流れてきた音楽を日本流にしちゃったのが現在のフォークだから、元の意味とは全然違うんだけれど」

「あるあるですねそういうの」

「うん、でもこれだと言ったらこれと形に当てはめず、自分たちの感性に合うものに変化させて、独自に発展させ続けていったからこそこういう良い曲が生まれたと思うと、面白いんですよ。今歌ってるこの人がいなかったら現代日本の音楽は無かっただなんて言われてるし.....」

「あ、今度は愛を歌い始めた」

「そう!この人はね、誰かへの優しい愛とか、自分の身の上とか、そういうのがすごく上手くて、ムズムズするんだよね。誰かが好きだ、とても好きなんだって照れくさくて言えないから、こんないじらしい言い回ししちゃうんだ!君の近くにいよう、だって?男の子が言う言葉にしてはなんて可愛らしいんでしょ......」

ハッとした飛鳥が星見を見る。彼女はくすくす笑いつつ柔らかい顔であった。どんどん顔が赤くなった飛鳥は、それまで子犬みたいに膨らませていた髪の毛をしぼませて、すっかり黙り込んでしまった。

「良いんですよ、楽しかったですし。私こんなにかっこいい顔の人が弾んでるの、初めて見ました」

「ぼ、僕だってこんなに楽しかったの初めてだし......良くない言い方かもしれないけれど、星見さんがこんなこと聞いてくれる人だとは思っていなかった」

星見の尾骶骨に何かこそばゆいものが走った。縮こまった飛鳥は星見より背が小さいから、同い年なのに自分の弟のように思えてきてしまった。そうか、彼女は誰かを顧みることに心血を注ぎすぎたために、誰にも甘えることが出来なかったのか。なんて悲しい子なんだろう。

そういえば彼女は同級生から王子様と呼ばれているらしい。なるほど中性的な美少女が困った時に現れれば何でもかんでも王子に見えてしまうだろう。それが彼女が望んだ結果だったとしても、その前に飛鳥は一人の女の子であるのに。

「飛鳥さん、ひとついい?」

星見はそっと飛鳥の肩を抱き寄せて言った。

「賢者は聞くっていうけれど、私は今から賢者になるからね。なんでも言ってね」

飛び上がりそうなぐらい悶えた飛鳥を包み込んだ星見は、ゆらゆらと揺籃のリズムで揺れ始めた。あんなに賑やかだった音楽室から、椅子が軋む音、雨が跳ねる音、可愛らしいラブソングしか聞こえなくなった。


飛鳥は屋上に出ていた。神谷が飛び降りたと思われる場所に立ってみる。下から首を上げて見るよりも圧倒的に高く感じた。警察の調べでは、神谷は教員がやってきて仕事を始める頃、つまり学生は誰一人いない時間帯にやってきて、誰にも見られないままぴょんと飛び降りたという。今はまだ放課後すぐだから周りには下校していたり部活動に勤しむ学生もいるが、彼は孤独に死んで行ったのである。

好奇の目によって死に追い込まれた神谷だが、自殺という死に方を選んでしまったが故に皮肉にも自身の亡骸だけではなく遺された親族にまでも視線が注がれることになった。

明るい声を出す生徒達を見下ろしながら飛鳥は神谷の葬儀を思い出していた。神谷の母はこの世のものとは思えない表情で、息子の同級生を見つめていたが、あれはもしかしたら自分の子供を死に追いやった人間がこの中にいると思っていたのだろうか。真意はともかく、飛鳥には瞳の奥まで覗こうとしているようにしか見えなかった。そんな彼女が、飛鳥にだけは妙な視線を送ったのをよく覚えている。仲間意識、そんな言葉が頭をよぎった。息子と同じような事情を抱える人間が、同じようなことをしないだろうと思っていたに違いない。しかし、飛鳥は彼を好奇の目で見ただけでなく、恐怖の対象にもした。気付かれたら今この場で殺される、飛鳥は瞳を探られないように顔を下げていた。神谷が目の前を通った時と全く同じことをしたのだ。果たしてそれを察されたのかは未だに分からない。

意識を現実へ引き戻すと、見下ろしていた地面から巨大な緑の眼が開いた。何か言いたげな黒目の動きをしているくせに、普段のように話しかけることもせず、それはただずっとこちらを見ていた。

「勝手に現れるくせにずいぶんと図々しくなったな」

眼に背を向けると、そこには星見が立っていた。一瞬の静寂の後、星見はきょとんとしながら、

「ごめんなさい」

と、呟いて去ろうとしたものだから飛鳥は慌てて弁明した。

「あら、そうなの?」

「ええ、ええ。僕は星見さんが図々しいだなんて言っていないんだ」

「じゃあ独り言なの?」

「ええ......まぁ......」

くすくす笑う星見が飛鳥の横に座る。涼しい風が星見の髪の毛をなびかせて、飛鳥の唇を掠めた。

「飛鳥さんって、意外と神経質だよね。でも分かる。表情見てればそう思うもん」

ぼんやりと日に照らされる星見から、緩やかな温もりとまろみが流れてくる。

「星見さん」

飛鳥は星見と顔を合わせるように前に座った。

「なぁに?」

飛鳥は口をつぐんでしまった。今から自分は震える心をぎゅっと縛って大きな決断をしようとしたのに、まだ人を信じることが出来なかった。

「......私は貴女の賢者だよ」

星見は言った。


いつの間にか真っ暗になっていたから近くの公園で話している二人は、街灯の光に照らされてブランコに揺れていた。

飛鳥の真っ白な左目を見た星見は、最初こそ驚いたもののすぐに普段の物腰柔らかい調子に戻った。

「あそこから飛び降りた人がいたんだね......」

「僕も殺しに加担したようなものなんだ。でも、彼は最期まで僕を信じていたんだ。本当のことを勘違いしたまま......」

不意に星見がブランコを止めた。

「貴女を苦しめるのは、その人なの?」

「いや、違う!」

すぐに返した飛鳥は、星見の後ろに立っている包帯姿の神谷を見て絶句した。

「じゃあ、貴女を苦しめているのは何?」

「そ、それは......」

気付いていたけれど、気付きたくなかった。しかしもう誰にも見透かされている。現に目の前の賢者は分かっている顔だった。飛鳥は俯いた。

「貴女は優しすぎるの。そうやって何もかも完璧で賢しい人間でいようとするから。自分の理想と他人の見方は違う」

「あんまりにもズケズケ言うじゃないか。僕だって、こう見えても女の子なんだよ」

「あ、そうやって都合いい時だけ素を見せちゃって。卑怯ですねぇ」

冷たく放たれた一言に、野球選手の火の玉ストレートが心臓に飛び込んできたような感覚に、飛鳥は悶えそうになった。衝撃で心の殻が突き破られて、妙に清々しくなる。

「そうだよ、そうだよ、私は王子様でもなんでもなく、ただの情けない人間だよ」

「よく認められました。貴女を追い詰めていたのはその強がりです」

開き直った飛鳥に対して、星見が手を叩きながらいつもの優しい笑顔になった。

「昔の人は誠意、正直を貫き、卑怯な行動や不正、狡猾な行いを恥ずべきものとして嫌い、遠ざける精神を「義」と称したそうですが、なるほど確かに言っていることは素晴らしい。しかし裏を返せば、そのようなことを素晴らしいと考えるのは、根っこが卑怯で、嘘つきで、臆病だからなんです。飛鳥さん、貴女が王子様を目指してしてきたこと、それは素晴らしいと思います。しかし、自分自身を弱くて情けないものだと受け入れようとせず、上っ面だけで演じようとしていたことはいただけませんね」

飛鳥は項垂れた。そうだ。自分が理想から外れたことを、自分のせいにせず、誰かがそう感じたことにして勝手に追い込まれていたのだ。

今まで外面だけは何とか王子様フィルターで守ってくることは出来たが、思い出せば自分はどうしようもなく卑屈であった。神谷が言っていない、思っていないことを勝手に妄想して既成事実化したこともそうだし、痛いところを突かれた時だけ王子という鎧を脱ぎ捨て被害者面した。これの何が王子様だろうか......。

「で、でも、私、そういうことしかしてこなかった」

飛鳥は顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら星見の脚に擦り寄る。人生で一番素直であった。

「そうやって、いい人を演じて自分を守って生きることしかしてこなかったから、これしか知らなくて、これをやめるなら、これからどうやって生きていけばいいのか、分かんない......」

「......それで?」

「お、教えてください......どうやっていけば良いのか教えてください......お願いします......」

飛鳥の顔面が地面に着いた。もう王子様のプライドも威厳もなかった。ただ、本当の姿をさらけ出すことは恐怖もあったけれど、一種の解放感もあった。妙な感情が全身に鳥肌を立たせた。

「うん、いいよ」

星見は飛鳥に寄り添って片眼鏡を取ると、手を強く握った。

「瞑って。目」

ぼんやりとしか見えていなかった世界があっという間に真っ暗になる。しかし幻覚というのは面白いぐらいにはっきりと映る。包帯を巻いた神谷がバスに乗ってどこかへ行くのだ。

「ダメ!」

思わず声をかけそうになって身を上げた飛鳥を、手を握っている星見が強く引き抑えた。

「さぁ、このまま歩きましょう」

星見に手を引かれる。飛鳥は思わず足に力を入れた。何も見えない。足元が分からない。彼女と一緒に歩くだけなのに、こんなに恐ろしいことはなかった。微かに見えていた右目も失い、完全な盲目と化した飛鳥は、産まれたての小鹿みたいに細かに震えてしまった。

「大丈夫。信じて。貴女を一番人間扱いしているのは私なのよ?誰よりも、尊重しているから」

よくよく考えてみれば少し高圧的というか、支配的な物言いだが、今の飛鳥にとってその言葉は心を支えてくれる言葉だった。大丈夫。私は大丈夫。何故なら星見がいるんだから。飛鳥は勇気を覚えて、少しずつ暗い闇に向かっていく。

途中、色んなものが見えた。足元に絡みつく髪の毛、クラスメイト達が自分を馬鹿にしている様子、巨大なUFO、気色の悪い色をした泡、大量の岩に潜む眼光......しかし、いつものように現れては自分に語りかけてくる緑色の眼は現れなかった。目を逸らせばわざわざ視界に入って見つめてくるアイツは、どこにもいなかった。

徐々に歩幅が大きくなっていく。今はまだ無理だが、このまま行けばいつか目を瞑ってでも走り出せるような気がしてきた。

「はい。目を開けて」

目を開けるとそこは自宅だった。

「今みたいに、誰かに頼って、信じて、歩いていけばいいんだよ」

そういうと星見は、「じゃあまた明日」と言い残して走り去っていった。住宅街の光にまだ慣れずぼんやりとした視界と同じように不思議な心地に包まれていた飛鳥は、よく分からない心の落ち着きのまま家の戸を開けた。


星見はどこかへ行ってしまった。

彼女は一ヶ月足らずでまたどこかへ転校していった。最後の日、さようならを言うのは忍びなく、かといって何も残さないのは寂しすぎる。

「一緒に、音楽聴かない......?」

星見はにっこりと笑った。

あの時と同じように、誰もいない音楽室で二人椅子にもたれかかり目を瞑ってみる。CDを選んだ時は気づかなかったが、流れる曲はみんながみんな別れ歌で、未練とか、失恋だとかを悲しいリズムに乗せているものばかりである。思わず苦笑してしまったが、やっぱり自分は弱い人なんだと素直になれた。

「あれからどうですか?」

星見が聞いた。

「泣いたり笑ったりできるようになりました」

「そう、よかった......」

心の底から安心したような口調の星見は、それからひとつも喋らなかった。でも、何故かは分からないけれど、それでもとても楽しかった。

別れ際、飛鳥は星見を呼び止めた。

「これから、どうやって生きていけばいいのかな」

「まぁ、辛いのはお互い様だよ」

「......うん」

星見の後ろに神谷が立っている。

「でも、私は貴女が生きている間、ずっと生きるよ」

「そりゃ大変、星見さん、私百年生きるんだ」

「ほんと!大変ね」

お互いおかしくて笑ってしまった。

「じゃあ、どこかで会えるね」

「ええ、ええ」

「......見つけてくれたなら、肩でも叩いてね」

「そっちも」

「うん」

神谷はいつの間にか消えていた。星見はそのまま陽炎のように去っていった。


眼科医がカルテを見て驚いた。飛鳥の右目の視力が本当に少しずつであるものの、回復しているのだ。

「変なのも見えなくなったんだってね」

「はい」

「こりゃあいいことだ。本当にいいことだ」

自分事のようににこやかな眼科医が言った言葉に引っかかりながら、飛鳥は診察室を出た。

いいこと。確かに幻覚に惑わされなくなったし、神谷のことも、もう前に進むしかないとある程度の割り切りをして落ち着くことも出来た。しかし代償として星見が消えた。幻覚と一緒に去っていったような、タイミングの良すぎる別れ。

「......」

考えたくないことが頭を巡った飛鳥は頬を叩いて目を覚まさせる。

「しかし、それにしたって、あの人はどこへ行ってしまったんだろうなぁ......」

支払いの後クリニックを出て、優しい夕暮れを背にした飛鳥は、小石を蹴りながら帰路に着いた。

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そのうちなんとかなるだろう 鯖じょー @Sabazyor

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