第一部「妖艶の宴」第1話(完全版)

    大丈夫だよ

    もう少しだからね

    もう少しで外に出られるの

    だからもう少し我慢しようね

    もう少しだけ

      もう少しだけ


        そして

        私たちの時がまじわっていく



      ☆



 大正元年たいしょうがんねん

 その地方の一番の地主、田上たうえ家。

 五代目当主、田上華平太たうえかへいた────よわいは五三。

 先代が明治めいじ初期にアヘンの製造と密売で財を倍増させたことで、田上たうえ家の地位はその地で揺るがないものとなった。明治めいじ初期にはすでにアヘンは法的に禁止されていたが、いわゆる裏の世界でのし上がったのが田上たうえ家だった。そのため裏の世界での力も強く、地元の警察権力でも手出しの出来ない地位を確立していた。

 それは身内が犯罪を犯しても揉み消せる程のものだった。

 表向きの事業の中心は綿花の栽培と服飾生地の製造。時代はまだまだ和服が主流の時代。それに加えて洋服の広がりも大きく、取引業者は無数に、それでも更に増え続けた。同時にアヘンの製造と密売でふところを大きくすると、次々と土地を買い漁ってきた。そして時代の繁栄を背景にした公共事業の増加が田上たうえ家の財産を増やしていく。

 田上たうえ家にとって、繁栄の時代。

 そんな頃、田上華平太たうえかへいたの唯一の跡取りである重蔵じゅうぞうが、総ての事の発端となる事件を起こす。

 当時二九才だった重蔵じゅうぞうは、当主の華平太かへいたから幾度となくお見合いを勧められていたにも関わらず、遊び三昧の日々を過ごしていた。周りから重蔵じゅうぞうが道楽息子と揶揄やゆされていたことに業を煮やした華平太かへいたは、ある夜、重蔵じゅうぞうを追い詰めた。

「今夜は珍しいな。こんな早い時間にお前が家にいるとは…………」

 いつもの華平太かへいたの重い声が、田上たうえ家の夕食時の空気を震わせた。

 御猪口おちょこで清酒を口に運びながらの華平太かへいたの声は、いつも空気よりも先に畳を伝わる。雑で粗く、刺々とげとげしさを伴う言葉が続く。

「丁度いい機会だ……いい加減お前にも田上たうえ家の六代目としての責任を意識してもらわねばならん」

 何度も聞かされたそんな言葉に、重蔵じゅうぞう眉間みけんしわを寄せ、一度上げかけた視線をらした。重蔵じゅうぞうは何故か、父である華平太かへいたの言葉は耳よりも体に響くほうが早いと感じる。体全体に声が響いてくるような気もし、時にそれは重蔵じゅうぞうの気持ちを萎縮いしゅくさせた。この夜もそうだったのだろうか。それでも重蔵じゅうぞうはそれを〝おそれ〟とは思いたくなかった。

 華平太かへいたもそれに気付きながら、えて言葉を繋ぐ。

「所帯を持て。相手ならいくらでも探してやる。お前が出入りしているような店では、まともな相手が見付かるとも思えん。しかもお前はワシの一人息子だ…………」

 畳み掛けられる華平太かへいたの言葉を、御膳おぜんそろえたはしを叩きつけるように置いた重蔵じゅうぞうさえぎる。

「俺に兄弟がいないのは父親のあんたのせいだろ? あんたが女遊びに忙しかったからなんじゃないのか?」

 すると、重蔵じゅうぞうの隣で、華平太かへいたの妻────重蔵じゅうぞうの母でもあるヨシが御膳おぜんに静かにはしを置いた。

 その音に、途端に空気が張り詰める。

 それでも重蔵じゅうぞうは言葉を続けた。

「街では有名な話だ。めかけを取らなかったのは外に女がいたからなんだろ? お袋だって知ってることじゃねえか」

 口元に笑みを浮かべた重蔵じゅうぞうが、微かに震える目をヨシに向ける。

 ヨシは顔色も変えずに湯呑み茶碗を静かに両手で持ち上げるだけ。

「どうせお袋は最初から愛情なんてなかっただろうけど」

「お前は……」

 慌てたように重蔵じゅうぞうの言葉をさえぎった華平太かへいたが続けた。

「女というより遊女ゆうじょにうつつを抜かしていると聞くぞ…………下世話げせわな女とまじわりおって……」

「あんたに言われたくないよ」

 そう返した重蔵じゅうぞう華平太かへいたに鋭い目を向けると、その華平太かへいたから返されたのは蔑んだような目。

 そして重い声。

「……お前を殺して事が済むならすでに殺しとる…………さぞスッキリとするであろうな。戦国の世なら裏山に埋めれば良かっただけのこと…………」

 その華平太かへいたの声は、すごみという言葉を伴いながら、重蔵じゅうぞうの肩を重くする。

「親が子供にそんなことを────」

 反射的に出た重蔵じゅうぞうの言葉を、さえぎ華平太かへいたの声は早い。

「子供だと? ワシはお前と同じ人間ではないぞ。親子であっても別の生き物だ。別の生き物なら殺せるではないか。お前はワシを殺せないのか?」

 口角の上がった華平太かへいたの口の動きに、重蔵じゅうぞうの目が震えた。

 そのまま、華平太かへいたの言葉が続く。

「自分で嫁を見付けられないなら……強引にでも話を進めるぞ」


 それからおよそ一週間。

 まだ日中から、重蔵じゅうぞう遊郭街ゆうかくがいにいた。

 そしてこの日は田上たうえ家の使用人を二人従えていた。

 視線の先にある店は、この街の遊郭街ゆうかくがいでは一番の高級店。

 そしてその店には、重蔵じゅうぞうれていた遊女ゆうじょ────ウタがいた。

 もちろんお気に入りの遊女ゆうじょは他に何人もいた。しかしウタは遊女ゆうじょの間でも噂になるくらいの美人。重蔵じゅうぞうも誰が一番かと聞かれたら間違いなくウタを上げた。

 華平太かへいたき付けられたのもあったが、重蔵じゅうぞう常々つねづねウタを自分だけのものにしたいという想いを持っていた。当然それだけの遊女ゆうじょれていた客は重蔵じゅうぞうだけではない。

 そして、ウタの〝身請みうけ〟の噂が、重蔵じゅうぞうの中の何かを壊した。

 やがて店を張っていた使用人の情報で、ウタが週に二度ほど病院に通っていることが分かる。

 重蔵じゅうぞうはそのタイミングしかないと考えた。

 いつもの遊郭ゆうかくからの送迎車。

 運転手は一人。

 他に付き添いは誰もいない。

 その日、いつものように店の裏手に停まった車にウタが乗り込もうとした時。

 重蔵じゅうぞうはウタを車の後部座席に強引に押し込んだ。

 声を上げる暇もない。

 ドアの側に立っていた運転手が、使用人の男と揉み合う。

 やがて怒号が飛び交った。

 まだ昼を過ぎたばかり。

 周囲がざわつくのが、口をふさがれて目を震わせるウタにも分かった。

 明らかに異質な空気。

 やがて使用人の男が運転席に乗り込み、ウタを体全体で押さえ付ける重蔵じゅうぞうが叫ぶ。

「────出せっ‼︎」

 その目には、震えと迷いがあった。


 そこは田上たうえ家の裏山の別邸。

 重蔵じゅうぞうは、そこにウタを隔離かくりした。

 そのまま重蔵じゅうぞうは、使用人に車を遠くに乗り捨ててくるように指示する。

 その裏山は田上たうえ家の敷地の一部。林に囲まれた別邸のくらの中で、ウタの手足を縛って逃げられなくし、見張りに使用人を一人付ける。

 しかし、嬉々ききとして女を見付けたと言う重蔵じゅうぞう華平太かへいたが許すわけはない。

「馬鹿者が‼︎ 街は誘拐騒ぎだ‼︎ お前が置き去りにした使用人が逮捕されないとなぜ思った‼︎」

 重蔵じゅうぞうが何も言い返せないまま、その日の夜の内に華平太かへいたみずからが動いた。

 警察の上層部に賄賂わいろを送り、重蔵じゅうぞうの罪を揉み消した。もちろん人々の間では噂は広がっていくが、華平太かへいたは新聞社にまで賄賂わいろを送り、地元の暴力団を使って世間を黙らせた。

 ウタのいた店にもかなりの額を積んだと噂が広がる。

 そしてそれは、嘘ではなかった。

 そんな華平太かへいたの苦労も知らず、重蔵じゅうぞうは一日の大半をウタのいるくらで過ごすようになる。

 それから、華平太かへいた重蔵じゅうぞうの顔を見る度に叱責しっせきした。

 重蔵じゅうぞうは後先を考えてはいない。

 その時の欲望だけ。

 いつの間にか、重蔵じゅうぞう華平太かへいたから受けた鬱憤うっぷんをウタの体にぶつけるようになっていた。

 使用人に食べ物やしもの世話をさせ、体を洗わせ、一日に何度も重蔵じゅうぞうはウタの体をもてあそんだ。

 ウタの目は、日に日に生気せいきを失っていく。


 そのまま月日が流れ、およそ半年。

 ウタが妊娠していることに重蔵じゅうぞうは気付いた。

 まるで廃人はいじんのようになっているウタを本邸に入れるか、重蔵じゅうぞうは初めて迷う。子供が出来たからと言って華平太かへいたが許してくれるとは、さすがの重蔵じゅうぞうでも思えなかった。

貴様きさまはあの女をどうするつもりなんだ!」

 毎日のように浴びせかけられる華平太かへいたのそんな言葉に、重蔵じゅうぞうも追い詰められていた。

 華平太かへいたも解決策を見付けられないまま、重蔵じゅうぞうに感情をぶつけるだけ。


 その日の夜も、重蔵じゅうぞう華平太かへいた叱責しっせきされてくらに向かった。

 いつものように怒りをウタにぶつけようとしていた。例えそれが間違っていたことだとしても、その毎日が重蔵じゅうぞうの生きるかてとなっていた。もはや正しいことと間違っていることの違いすらも分からない。

 いつもくらの前にいるはずの使用人がいない。

 重蔵じゅうぞうが自分でくらの扉を開けると、そこには、ウタにおおい被さる使用人の姿。

 そして、重蔵じゅうぞうは我を失った。

 力の限り使用人を殴りつけ、周囲の〝何か〟を持ち上げ、それを振り下ろしていた。

 やがて、使用人はその体の原型が崩れるほどにボロボロに、いつの間にか息絶えていた。

 だらしなく体を開いたままの隣のウタの目には表情が無い。

 まるで生きているとは思えない顔のまま。

「………………売女ばいたが…………」

 重蔵じゅうぞうはウタの体を殴り、蹴った。

 すでにボロボロとなっていたウタの体はもろい。

 うめき声すら出てはこない。

 ウタの血があちこちからあふれ出し、はじけた歯が床で音を立てた。

 重蔵じゅうぞうはウタの腹部にめり込んだ自分のつま先を見ると、さらに気持ちの中で何かがはじける。

 ウタの冷たい肌とは違い、なぜかその血と内臓は温かい。


「────重蔵じゅうぞう様⁉︎」

 恐れおののいて座り込んだ女中じょちゅうの声に、台所に入ってきたヨシもまゆを細めた。

 台所の裏口に立ち尽くす重蔵じゅうぞうの着物は血だらけ。

 そして呆然ぼうぜんとするその重蔵じゅうぞうの表情に、すでに生気せいきは無かった。

 〝くらで何かがあった〟とヨシが判断するのも当然なこと。

「誰か……重蔵じゅうぞうさんを動けないように押さえ付けていなさい」

 そして別の使用人一人を従えてヨシはくらへ向かった。

 そして、ウタと使用人の遺体を別邸の裏に埋めることを数人の使用人に指示する。

 その日の内に、話はヨシから華平太かへいたへ。

重蔵じゅうぞうさんも……お遊びが過ぎましたね」

 誘拐から殺人へと発展した実の息子の罪を〝遊び〟という言葉でくくり、それはヨシの笑みと共に華平太かへいたの全身を震わせた。

 華平太かへいたは初めて、妻に〝恐れ〟を感じていた。

 まるで、華平太かへいたはヨシに借りを作ったように感じ、同時に初めて、冷静なまま現場を取り仕切る堂々としたヨシの姿に恐怖を覚える。

 翌日、華平太かへいたから家中に箝口令かんこうれいが出された。

 重蔵じゅうぞうが殺した使用人の家には華平太かへいたみずから「行方不明になった」むねの手紙を出す。

 そして華平太かへいたは、決して重蔵じゅうぞう叱責しっせきすることはなかった。

 それはヨシの指示。

 しかしそれ以来、重蔵じゅうぞう華平太かへいたに逆らうことが出来なくなっていく。


 二年後。

 大正たいしょう三年。

 田上重蔵たうえじゅうぞう────三一才。

 華平太かへいたが見付けてきた資産家の娘と結婚する。





 一週間の外泊が終わり。

 萌江もえは日曜日に咲恵さきえの運転で山の中の自宅へ。

 その道中での咲恵さきえの話に萌江もえは食いついていた。

「つまり、お金持ちってこと?」

 昼過ぎに家に着くなり冷凍していたカレーを鍋で温めながら、萌江もえが話の続きを引き出す。

 咲恵さきえはコーヒーメーカーのスイッチを入れながら応えていた。

「うん。それは間違いないみたい。地主って言うの? そんな家だと思うよ」

 咲恵さきえも久しぶりに大きな話を持ってこられたからか、声が明るい。

「よくそんな所から仕事取ってきたねえ。さすがみっちゃん」

 そう返す萌江もえも表情がいつもより明るい。その萌江もえの目の前の鍋から香辛料の香りが広がり出した。一週間ぶりに家中の窓を開けたせいか、その香りの広がりは空気の流れに合わせて速い。

 〝みっちゃん〟とは二人に裏の仕事を斡旋してくれている人物。その人物から咲恵さきえが相談されたことが総ての始まりでもあった。そしていつもはその〝みっちゃん〟から仕事がくる。萌江もえは当然今回もそうだろうと何の迷いもなく思った。ある意味、大きな話を持ってくる唯一の人物でもある。

 しかし咲恵さきえは、香辛料の香りを気持ちで追いながら返していく。

「今回は違うの。ヨウちゃん」

「ヨウちゃん?」

波蔵酒店なみくらさけてんのヨウちゃん。覚えてる?」

「……ああ……いたね。ヨウちゃん。まだ働いてたんだ」

「何言ってるのよ。あれでも今じゃ酒屋の専務なんだよ」

 地元では老舗しにせの古い酒屋だった。決して大きな会社ではなかったが、地元の飲食店では知らない店はない。ヨウちゃんと二人が呼ぶのは現社長の息子。当然働いて長い。配達もしていたために以前から酒屋の顔となっていた。

 もちろん萌江もえも知っていた。咲恵さきえと出会ったバーで働いていた時に少なくとも週に一度は顔を見ている。

「社長入れて従業員が五人くらいだっけ?」

「小さいけど老舗の酒屋なんだよ。で、そのヨウちゃんが昨日の配達の時に相談してきてね」

「あれ? 彼って私たちのこと…………」

 今回はいつもの〝元締め〟を経由しない初めての仕事。

 それを自ら持ってきた咲恵さきえが応える。

「まさか。困り果てて誰か相談に乗れる人知らないかって聞かれたの。なんでもお馴染みさんのお屋敷らしいんだけどね…………」

「いい感じの響きだねえ。老舗しにせの酒屋のお馴染みさんのお屋敷…………あ、帰ってきたばっかりでお米無いからパンね」

 萌江もえが冷蔵庫からロールパンの袋を出して電子レンジに放り込んだ。

 咲恵さきえはリビングのプランターから水菜を数枚。ザルに入れて水で洗い始める。

 そして返した。

「でしょ? そのお屋敷の奥さんから相談されたんだって…………誰かおはらいみたいなこと出来る人を知らないかって」

「そんな大きなお屋敷なら、神社とかお寺とか行けばいいのに」

 萌江もえはそう言いながら深めのスープ皿にカレーを注ぐ。

 咲恵さきえはテーブルにサラダの皿を移動しながら。

「……つまりさ……何か…………訳ありってことなんじゃない?」

 カレーと共に二人がテーブルにつくと、咲恵さきえがコーヒーをマグカップへ。

「いい感じの響きだねえ……訳あり」

 そう言った萌江もえは、目の前のサラダにたっぷりとオリジナルのドレッシングをかけた。

 それを見ながら咲恵さきえが返す。

「でしょ? ドレッシングはかけ過ぎだけど」

「オリーブオイルは大丈夫だよ」

「ポン酢も塩も胡椒も入ってるでしょ。もう若くないんだから塩分は控えないと」

「へいへい」

 適当にそう応えながら、萌江もえは水菜のサラダを頬張る。

 そして続けた。

「その塩分の話って結構怪しい情報みたいだけどね」

「どんなものも取り過ぎていいってことはないでしょ?」

「この水菜を来年はレタスにするぞ」


 ──……これを可愛いと思っちゃう私も悪いんだよねえ…………


 そんなことを思いながら、咲恵さきえが話を戻した。

「その奥さん曰く、その家は呪われている…………ということらしいの。ヨウちゃんはその家のことは地主ってことしか知らなかったらしいんだけど、酒屋の社長────ヨウちゃんのお父さんね────に聞いてみたら〝あまりあの屋敷には関わらないほうがいい〟と先代から聞かされていた、ということみたい。気になるでしょ?」

「いい感じの響きだねえ」

「でしょ? じゃ、来週の日曜日に迎えに来るので今日は私は帰ります」

 そう言ってロールパンを千切る咲恵さきえ萌江もえが反射的に声を上げていた。

「なんで⁉︎ 泊まって行かんのかい⁉︎」

「昨日まで一週間も私の部屋に泊まり込んだでしょ。おかげで由紀ゆきちゃんは元気になったけど……萌江もえを泊めると私の体力が持たなくて…………」

「喜んでたくせに…………」

 そう言いながらニヤニヤとした笑みを浮かべる萌江もえに、咲恵さきえの返答は辿々たどたどしい。

「毎日は……しなくてもよかったでしょ」

「最終日は咲恵さきえから────」

「分かった────分かった────分かったから、泊まるから来週はそのお屋敷に話を聞きに行くってことでいいわね」

「仕方ないなあ咲恵さきえは…………泊めてあげるからゆっくりしていきな」

 すると溜息ためいききながら咲恵さきえがパンをカレーに浸す。

「久しぶりに稼げそうだから、カレーお代わりしよっかな」

 萌江もえがそう言って台所に移動すると、再び咲恵さきえ溜息ためいきいていた。


 ──……手に負える仕事ならいいけど…………


 萌江もえは99.9%幽霊や心霊現象を信じていない。それには萌江もえなりの考えや根拠がある。元々の幼い頃からの霊感体質をて辿り着いた思考。世間一般で言うところの、いわゆる〝霊感〟というものの感覚を知っているからこそ、今はそれに相反する立場でものを考えることが出来る。

 もちろん咲恵さきえもその萌江もえの考えに感化され、受け入れられたからこそ興味を抱き、そして付き合いを続けてきた。

 それでも咲恵さきえの中では90%。咲恵さきえ自身はそのくらいに思っていた。意見の多くに相違があるわけではない。

 しかし、世の中には事実として不可解なことは存在する。それを心霊現象で片付けてしまうことは簡単だ。そして萌江もえがそれを嫌うことも知っている。その通りだと咲恵さきえも思う。だからこそ萌江もえが知識を蓄えて、自分で勉強していたことも知っていた。

 それでも咲恵さきえは恐れていた。いつか0.1%の〝何か〟に出会ってしまったら、萌江もえはどうなってしまうのか。

 それだけが、咲恵さきえには怖かった。





 一週間後。

 日曜日。一四時。

 待ち合わせ場所は市街地からだいぶ離れた静かな駅だった。

 周囲に大きな建物は無い。

 隣に駐車場の広いスーパーマーケットと、そこを囲むように配置された簡素な住宅街。ビルがあっても高くて三階程度のテナントビルが所々にあるくらいだった。いわゆるベッドタウン。商業地ではない。

 雨が降るほどではないように感じられたが、曇り空のせいもあるのか風が冷たく頬をかすっていく。

「よくある田舎街だね」

 湿度の籠った夏の空気とは違う秋口の乾いた風に肩をすくめながら、そう言った萌江もえが続ける。

「それほどこの近辺に人口が集中してるわけでもないのに、駅だけこんな立派な物建てちゃって……ここまで郊外だと大手のフランチャイズすら入ってこないよ。そもそも駅の利用者も少ないからタクシー乗り場にタクシーが一台もいないし。私たち以外に誰もこの駅で降りなかったし…………田舎ほど車社会なんだけどなあ」

 小さく溜息ためいきいた咲恵さきえも素っ気なく返した。

「……確かに…………よくあるね。こういう所」

「今時さあ、駅だけ立派にしたって地方の都市開発なんか進まないんだからさ。いつの時代の考え方か知らないけどもっと税金の使い道を考えて欲しいよね」

「でも鉄道は民営でしょ?」

「今でも税金は投入されてるよ。民営化した元御役所なんてみんな同じ。眉唾まゆつばだよねえ」

「所得税を払ってない人の言う言葉じゃないけどね」

 その咲恵さきえの言葉に、途端に萌江もえが声のトーンを上げる。

「あ────あれが迎えの車かなあ?」

 駅前のタクシー乗り場で二人に近付いたのはレトロな黒塗りの車だった。不思議とそれだけで高級車であることが分かる。

 すると一転して声のトーンを落とした萌江もえが呟くように口を開いていた。

「嘘でしょ…………シルヴァークラウドじゃん…………ロールスロイスだ」

「は⁉︎ 外車⁉︎」

 おかしなくらいに高い声を上げた咲恵さきえは車の知識をほとんど持っていない。そもそも興味がない。自分の車にしても、中古車屋で値段とデザインだけで選んでいる。

 それに対して萌江もえは車に詳しい。しかもレトロな名車と言われる部類にうるさかった。自らが車を所有しない理由。こだわり始めるとお金が掛かり過ぎることを知っていたからだ。

 目の前に停まったその名車に、当然のように萌江もえは目を配り始める。

「使い込んでるけど凄い……ピカピカだ…………」

 右ハンドルの運転席から黒いスーツの男性運転手が降りてきた。五〇才まではいかないくらいだろうか。印象のいい立ち振る舞いだ。車の前から回り、二人の前で軽く頭を下げる。

黒井くろい様と恵元えもと様ですね。お待たせ致しました」

 そのまま後部座席のドアを開ける。

「はい……どうも」

 咲恵さきえが応えながら辿々しく乗り込む。シートの感触が自分の車と違うことに驚くも、懸命に冷静を保っていた。

 続けて乗り込む萌江もえは満面の笑み。シート、天井等、周囲の装飾に目を配らせる。

 運転手が閉めたドアの音にまで品を感じる。そのまま運転手が車の後ろを回り始めると先に口を開いたのは咲恵さきえだった。

「外車って左ハンドルじゃないの?」

 目の前のハンドルは日本と同じ右ハンドル。

 それに萌江もえはすぐに返した。

「オリジナルの右ハンドルだよ」

「オリジナル?」

「ロールスロイスはイギリスの会社。イギリスは日本と同じ右ハンドル。もちろん左ハンドルの国向けに作られた左ハンドル仕様が日本に来れば左ハンドルになるけど」

「よく分からないけど分かった」

「絶対分かってないでしょ。これから咲恵さきえも外車を買うかもしれないし…………左ハンドルの国の車でもイギリス経由でイギリス仕様のやつなら右ハンドルで────」

「買わない買わない絶対買わない」

 運転手が乗り込み、エンジンを掛けた。当然萌江もえはその音に満面の笑みを浮かべ、今にも何かを語りたくて仕方のない様子。

 そこに運転手の、ルームミラーに目を配りながらの柔らかい口調が届いた。

「ここから一時間程かかりますが、もし途中でお寄りになりたいところが御座いましたら、いつでもお申し付け下さい」

 それに、咲恵さきえが小さく応える。

「…………はい」


 ──……この車でコンビニは無理だなあ…………


 どこにも寄らずにまっすぐ向かった所は、だいぶ人里から離れた山沿い。

 それでも小さな街を見下ろせる小高い所に、その屋敷はあった。

 周囲に民家が全く無いわけではなかったが、点々とあるその建物は草木に覆われた明らかな廃墟が多い。

 道路沿いから見えるのは高いへいだけ。

 不必要なくらいに高いそのへいは、木製のだいぶ古い物だ。まばらな色の変化に時間を感じさせる。しかしその高さのせいで中は見えない。

 そのへいの切れ間に車が入ると、すぐに背の高い門が現れる。

 すると両開きのその門が開いた。使用人と見られる男たちが重そうな門を動かしていた。

 車の中から呆然ぼうぜんとしながらその光景を見ていた萌江もえ咲恵さきえの目の前に現れたのは、巨大な和風の豪邸と言うのが相応しい建物。古くもしっかりと管理された印象までが威圧感いあつかんを感じさせる。

 すると車の中から見惚みとれるように屋敷を見上げていた萌江もえが小さく呟いた。

「同じ古い日本家屋でも…………我が家とは違うねえ」

 車が停まり、運転手が後部座席のドアを開ける。

 車を降りた二人は更に興奮した。豪邸の玄関まで続く石畳と、その周囲の砂利じゃりまでが美しい。

「我が家の庭もこのくらいにしたいねえ」

 その萌江もえの呟きに、咲恵さきえが鋭く返していた。

「いや……おかしいから」

 萌江もえの家くらいもあろうかという広さの玄関を抜け、縁側えんがわに面した、萌江もえの家の寝室くらいの幅の通路を歩いて通された綺麗きれいな和室は、明らかに咲恵さきえの経営するバーが三つは入る。日頃何に使われている部屋なのか想像も出来ない広さだった。広い中庭の見える障子しょうじが数枚分開け放たれ、反対側も開けられているその空気の流れにすら品が感じられた。緩やかな風に流れるのは木々の香り。ほとんど山の中と言っても遜色のない場所ならではの空間に、思わず萌江もえが呟いていた。

「この草の香りはウチのに近いけど、ウチはカビ臭さもプラスしてるからなあ」

 部屋に取り残された二人は、自然と正座になる。座布団の厚みですら高級感を感じさせた。

 すると咲恵さきえが小さく呟く。

「足がしびれる前に来てくれるかな…………」

「んー…………」

 萌江もえはそれだけ返すと、首の後ろに両手を回し、ネックレスを外すと、左手の中指に巻き付け、ぶら下がった水晶を左手で握った。

 そして急に正座を崩して胡座あぐらをかく。

 それを見た咲恵さきえが思わず声を上げた。

「ちょっと────」

 その咲恵さきえに対して、萌江もえは冷静に返した。

「…………何か、変だね」

 その声は先ほどまでのものとは明らかに違う。

 落ちた声のトーンに、思わず咲恵さきえも声を漏らしていた。

「…………え?」


 ──……しまった…………スカートにしなきゃよかった…………


 咲恵さきえがそう思った直後、背後のふすまが開く音。

 すぐに振り返る咲恵さきえに対して、萌江もえは振り返らないまま。

 そして、落ち着きのある女性の声が空気に漂った。

「大変お待たせしてしまって…………」

 二人の前に回った女性の年の頃は四〇代半ばといったところだろうか。派手過ぎない品のある黒い和服に身を包んだその女性は静かに二人から距離を置き、前に膝を降ろす。和服を着慣れた人特有の衣擦きぬずれの音と立ち振る舞い。それに合わせて静かに空気が揺れる。

 そしてその女性は、両手の指を畳にそろえ、深々と頭を下げた。

田上たうえ家当主……田上浩一たうえこういちの妻……裕子ゆうこと申します。この度はこのような遠くまで御足労頂きましてありがとう御座います」

 裕子ゆうこは頭を上げると、続けた。

 その目の鋭さが、咲恵さきえには少し気になった。

「大したおもてなしも出来ませんが…………」

「いや」

 さえぎるように鋭く口を開いたのは萌江もえだった。

 その萌江もえが続ける。

「違うよね。話の本筋を知ってるのはあなたじゃない」


 ──……もう何か……見えてる…………?


 そう咲恵さきえが思った直後、意外にも裕子ゆうこの声はすぐ。

「これはこれは…………」

 視線を落とし、畳を見つめた裕子ゆうこは、僅かではあるが明らかに困惑の表情を浮かべているように咲恵さきえには見えていた。そこから目だけで萌江もえを見ると、萌江もえはその裕子ゆうこから視線を外していない。

 相手に関わらず、萌江もえはこの仕事に於いては堅苦しい言葉を嫌う。相手によっては敬語を選ぶが、これまでもこのパターンのほうが多い。かつて、接客業の世界で働いていた人間としては珍しいかもしれない。接客業が身についた人間というものは態度にもそれが現れることが多い。言葉遣いはそれが特に顕著だ。しかし萌江もえは全くその逆。そのくらい萌江もえにとっては明確な違いがあるのだろう。また、そこを完全に切り分けたいという感情もあった。

 すると、裕子ゆうこの背後のふすまから小さな声がする。

「…………裕子ゆうこさん」

 ハッとして目を見開いた裕子ゆうこが、静かに目を閉じた。

 背後の声が続く。

「……そちらのお嬢さんは……もうお分かりみたいですよ…………」

 明らかな老婆の声。

 すると裕子ゆうこは腰を軽く上げ、膝を曲げたまま背後のふすまの前へ。そのまま腰を落とすと、両手の先をふすまに添えた。そしてそのふすまを静かに開く。反対側に回ると、残りのふすまを開いた。

 小さな音までも部屋の中に響く。まるで外の世界が消えてしまったかのように、部屋の中の音だけが空気を包んでいた。

 やがてその音が開けたふすまの先。

 そこには同じくらいの和室。

 その中央に、やけに分厚い紫色の座布団に身を沈めた老婆の、静かな笑顔があった。

 だいぶ背中が曲がっているのか、顔の位置は低い。真っ白な髪を後ろで束ねているようだったが、その白髪はくはつは不釣り合いなくらいにまっすぐ整えられている。

 そして顔と手のしわから、かなりの高齢に見えた。

 しかし着物はその年に似合わず派手だった。薄いピンクを基調としながらも、所々に緑や黄色。帯は合わせたのか、落ち着きながらも主張の激しい赤。

 ふすまの脇にいた裕子ゆうこが口を開く。

「当主、田上浩一たうえこういちの御母上様です」

 そして、先程聞こえていた老婆の小さなはずの声が、再び空気を震わす。

「……イト……と、申します」

 僅かに顔を下げ、やがて頭を上げると、そこには老婆とは思えないような、妖艶ようえんひとみがあった。

「……決して…………楽しいお話ではありませんよ…………でも…………聞いてもらいましょうかね…………」

 そして、咲恵さきえの背中に悪寒おかんが走った。

 〝見たくないはずのもの〟が体に吸い込まれていく。


 ──…………この家は…………だ…………


 イトの口角が、少しだけ上がった。





 聞かされた田上たうえ家の歴史は、想像を絶するものだった。

 正直、咲恵さきえは自分が冷静でいるのか自信がなかった。イトの話に合わせて、まるで自分がその光景を直接見ているかのような感覚に襲われていた。

 というより、咲恵さきえには見えていた。

 こんな時、咲恵さきえは自分の能力をうらむ。

 本来なら自分が知ることのない他人の過去。自分が見ることなどなかった他人の歴史。

 しかもそれは、見たくないもののほうが多い。

 なぜだろうかと咲恵さきえも不思議に思う。


 ──……どうして…………人の歴史は重いんだろう…………


 いつの間にか体が小刻みに震えるような、そんな感覚が全身を包む。

 そして、田上たうえ家の歴史は重過ぎた。

 それはあまりにも残酷な光景。

 すると、強く握られた膝の上の両手に、萌江もえの手が被さった。水晶を持った左手。

 熱かった。

 その熱が全身に伝わる。

 隣を見るが、萌江もえの鋭い目はイトに向けられたまま。それでも萌江もえには咲恵さきえの状態が見えていた。気持ちの奥底がザワザワとうごめく感情の中で、やはりこんな萌江もえの行動は咲恵さきえにとっては嬉しい。だから離れられない。唯一無二の存在と言わざるを得なかった。


 ──……大丈夫……大丈夫…………


 少しずつ咲恵さきえの気持ちが落ち着いていった。


 ──……さすが……萌江もえ…………


 咲恵さきえは再び萌江もえに顔を向ける。

 その萌江もえの目は、怒りに震えているようにも見えた。


 ──……萌江もえにも……同じ光景が見えてるの…………?


 そして、イトの話が続く。

「結婚から二年ぐらいと聞いていましたが、長女が産まれたそうで御座います…………しかし二才で病死……詳しい病名等は分かりませんで…………どちらが先だったか、同じ頃に長男が産まれ…………その多一郎たいちろうが七代目当主になり……私が嫁いで参りました。多一郎たいちろうが産まれた数年後に次女も産まれたそうですが…………やはり二才で…………」

「────それが、呪い…………?」

 口を挟んだのは萌江もえだった。僅かに震える声。懸命に冷静を装っているのが咲恵さきえにも分かる。

 すぐにイトが返していく。

「それも…………ありますな………………裕子ゆうこさん────」

「はい」

 少し驚いたように裕子ゆうこが返した。

 しかしイトは視線を萌江もえに向けたまま、続ける。

「なかなか、面白い方々を紹介して頂けましたね…………浩一こういちさんの所にお連れを…………」

「──お母様……それは…………」

 応えた裕子ゆうこの目が泳ぐのを、萌江もえ咲恵さきえも見逃さなかった。

 しかしイトの声は落ち着いたまま。

「見て頂かなくては…………解決は致しませんよ。とは言え、この方々にはもしかしたら…………もう……見えているのかもしれませんが…………」

「どこにあるの?」

 萌江もえが言葉をぶつける。

「当主の浩一こういちさんって人、そこにいるんでしょ? その〝くら〟まで連れてって」

 その声に、イトの口元に再び笑みが浮かんだ。

 そしてその口が小さく開く。

「さすがに私はこの歳ゆえ……案内は致しかねますが…………裕子ゆうこさん、お願いしますよ」

 裕子ゆうこは何も返さず、少し間を空けてから立ち上がる。

 その視線は、ただ足元を見つめていた。





 場所は本邸の裏山。

 そこに別邸があるという。

 家の敷地を囲むへいの数カ所に門があり、その一つが裏山に通じているとのことだった。

 黒いスーツの使用人二人を先頭に、裕子ゆうこ、そして萌江もえ咲恵さきえが続いてその門を出た。門が開くと、そこからまっすぐ山へ小道が続いていた。周囲は雑草が多い。へいの中とはだいぶ雰囲気が違う。それよりも、目の前の真っ赤な鳥居とりい萌江もえ咲恵さきえは驚いていた。太い木を使ったかなり大きな物だ。


 ──……神社でもないのにどうして?


 咲恵さきえがそう思った時、隣から萌江もえの声。

「ご大層たいそうだこと」

 軽く呟くだけ。

 萌江もえは以前から神社や寺院が好きではなかった。古くからの信仰というものを否定しているわけではないし、その歴史も知ってはいた。しかし萌江もえに言わせれば、そのどちらも人間程度が作り上げた宗教というものの産物に過ぎない。

 萌江が好きなものをえて宗教と呼ぶなら、それは八百万やおよろずの神と呼ばれる土着信仰だけだ。それは歴史の権力者が利用してきた一神教とは対極に位置している。しかもそれがあるのは日本だけではない。

 門をくぐった直後、萌江もえは足を止めて声を上げた。

「ねえ、ここに盛り塩置いてるのは誰?」

 門の外側の両脇に小さな皿とその上には綺麗に三角に盛られた塩。

 振り返った裕子ゆうこの足が止まり、軽く振り返って応えた。

「私が指示を出して使用人に────」

「何のため?」

「……それは…………」

「意味が無いから必要ないよ。塩で何するつもり? 塩ではらえるのは虫だけ……盛り塩で呪いは解決しない」

「……そう…………でしたか…………」

「さ、案内して」

 鳥居とりいくぐり、細い道を登っていく。山といってもそれほど大きな物ではなかった。その代わりに横に広いのか、鬱蒼うっそうとした林の木々はどれも高い。ただでさえ季節的にすでに薄暗くなる時間、その道は周囲の木々のせいで、更に暗さを増長させていた。風がほとんど無いせいか、木々や葉の擦れる音は聞こえない。静かな外の空気がたたずむだけ。

 歩いて一〇分程だろうか。聞いていた別邸が姿を現した。

 本邸程ではないが、決して小さくはない二階建て。違いはあまり整備されているようには見えないことだ。庭と思われる部分には雑草も多く。あまり頻繁に人の手が入っているようには思えない。

 何より不自然なのは、なぜこんな場所に別邸があるのか、ということだろう。まるで隠されてでもいるかのように、ひっそりと存在しているとしか思えない場所だ。

 隠している理由があると考えるほうが自然なその光景に、萌江もえ咲恵さきえは違和感しかなかった。

 二人の使用人と裕子ゆうこは別邸の建物には入らず、雑草だらけの脇から裏に回った。裕子ゆうこは着物に小さな枝が触れても気にしている様子はない。

 そこに不自然さを感じながらも、萌江もえ咲恵さきえも後ろに着いて裏に移動した。そこにあったのは、二人が頭の中の映像で見ていた大きなくら。壁に入った無数のヒビが古さを物語り、素人目に見ても修繕の跡は見られない。

 裕子ゆうこはその扉の前に立つと使用人に開けさせた。

 見た目にも重そうな両開きの扉が低く鈍い音を立てて開かれると、そこには真っ黒な内扉。使用人たちがその内扉を横にスライドさせるが、そこから見えるのは闇だけ。

 その闇から、夕暮れの赤い陽の光を反射したほこりがまるで外の空気を欲するかのように舞い始める。

 すると裕子ゆうこが背後の萌江もえ咲恵さきえに軽く体を向け、口を開いた。

「……田上たうえ家当主…………浩一こういちです」

 そしてゆっくりと、闇の奥に薄らと浮かび上がる影。

 くらの中央、両腕を上げたまま立っている浴衣ゆかたのような薄手の和服を着た人影がある。

 上から両手を広げて吊るされ、頭は項垂うなだれて、顔は見えない。

「座らせると……頭をひざにぶつけて自殺をしようとするので…………こうして立たせたままにしております…………」

 震える裕子ゆうこの言葉に続いて、くらの中から、ゆっくりと異様な匂いが漂い始めた。

 それでも萌江もえ咲恵さきえは目を細めながら奥に目を凝らすが、しだいに慣れてくる視界が映し出す光景は決して気持ちのいいものではない。

 裕子ゆうこが着物の袖で口と鼻を押さえて続けた。

「若い女性にお見せするものでは御座いませんね…………少し離れましょう」

 裕子ゆうこは二人をうながして少しだけくらから離れると、眉間みけんしわを寄せる使用人に指示を出した。

「すいません……綺麗きれいにしてください…………」

 使用人はすぐ近くの古びた井戸から水を汲み始めるが、その井戸も周囲を雑草に囲まれ、決して管理された印象には見えなかった。水がれていないと言うだけで、見えるその水は綺麗きれいな物とはとても思えない。

 裕子ゆうこの話が続く。

「私たちにも娘がおりました…………しかし呪いのせいで二才で亡くなり…………それ以来、浩一こういちは気がおかしくなりまして……訳の分からないことを言い始めたかと思うと、手当たり次第に暴力を振るう始末で…………」

「病院には行かれたんですか?」

 その咲恵さきえの質問に、裕子ゆうこは言いずらそうに、小さく唇を開ける仕草を繰り返した。

 その不自然な態度。再び泳ぎ始めた両目に咲恵さきえが多くのことを理解する中、裕子ゆうこの震える声が続く。

「いえ…………その…………お母上様が、呪いは病院に行っても無駄だからと…………」

「食事は…………」

「はい……食事の時だけは猿ぐつわも外して────」

「猿ぐつわ⁉︎」

「舌を噛もうとするんです…………私たちにもどうしたらいいのか…………」

 裕子ゆうこの声がか細くなったかと思うと、ひざを落とし、咲恵さきえのスカートにその細く震える指をかけて続けた。

「……どうか…………どうか主人を…………お願いします……私たちにはもう…………」

 やがて裕子ゆうこは、咲恵さきえにしがみつくようにして泣き崩れていた。

 しかし咲恵さきえは感じる。


 ──……何か…………違う…………


 それが何かだけが、分からなかった。

 次に口を開いたのは萌江もえ

「……ここが…………あのくらか…………」

 萌江もえにも見えているに違いない、と咲恵さきえは感じていた。

 そして咲恵さきえも口を開く。

「他にも……いるよね」

 萌江もえの返答は早い。

「うん…………最初の二人だけじゃない」

 そして萌江もえ裕子ゆうこの横にひざをつくと、泣き崩れる裕子ゆうこに顔を向ける。

裕子ゆうこさん、一旦戻ろう。使用人の人たちには悪いけど…………私はこれ以上ここにはいられない……ここの歴史は重過ぎる…………」


 ──……やっぱり萌江もえ…………今までとは違う…………大丈夫なの?


 そう思った咲恵さきえが、不安気な萌江もえの姿を見下ろした。


 ──…………違う……これは0.1%なんかじゃない…………


 事は急ぐ必要がありそうだった。

 しかし、古い歴史を紐解ひもとかなくてはならない。それに、まだ聞いていない話もあった。

 物語は決して終わっていない。

「次は……水曜日にお伺いします」

 本邸に戻った萌江もえがイトに伝える。

「……もしかしたらこちらの都合か……いや違うな…………あまり時間は無いようです。ただ、少し、色々と整理する必要もありそうなので…………」

 すると、その言葉にイトはすぐには応えなかった。

 だいぶ傾いた陽の光が影を強くするせいか、裏山に行く前と同じ場所、同じ姿のまま、イトは総てを見通しているかのように座敷の空間を掌握しょうあくする。

 そして少し間を空け、しかし表情は変えないままに、ゆっくりと返す。

「……分かりました…………よろしくお願いします」

 イトはそう言うと、深々と頭を下げた。


 駅に送ってもらった時には、すでに辺りは夜。

 早目の最終電車に乗り、着いた先で咲恵さきえの車に乗り込むと、二人ともやっと、何となくホッと胸を撫で下ろしていた。

「とりあえず……送るよ」

 そう言って車を走らせる咲恵さきえに、助手席の萌江もえが返した。

「泊まってって…………今夜は一人でいたくない」

「うん…………」

 咲恵さきえは左手を伸ばして助手席の萌江もえの手を握る。

 まるで飛びつくように握り返してくる萌江もえの手に温もりを感じながらも、日中に田上たうえ家で見た光景が頭から離れない。

 何も理由は分からない。

 ただ、咲恵さきえの中で静かに膨れ上がる不安が何か、それが分からないもどかしさ。

 その咲恵さきえが続けた。

「私も…………」

「でもごめん…………抱けないかも…………」

「私も……今夜はちょっとね…………」

「でも一緒にいてね」

 そう言いながらまっすぐ前を見続ける萌江もえの頭に、何が見えているのか、咲恵さきえは計りかねた。萌江もえひとみに交互に映る街の灯りが、その心中を誤魔化すかのようだ。

 僅かに、それでも確実に、咲恵さきえと同じものを見ているだけでは、ないと思えた。





          「かなざくらの古屋敷」

      〜 第一部「妖艶ようえんうたげ」第2話(完全版)へつづく 〜

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