第9章 若さバカ発

中学までかなり厳しかった叔母も私が高校に進学すると怒鳴ったり叩いたりする事が全くなくなった。


恐らくもう大人に近づいたからなのかも知れないが、内心ビクビクしながら生活していた。


が、夜遊びしようが酒を飲もうが何も言わなかった。

半ば諦めていたのかも知れないが…


初めて自由を感じた瞬間だったかも知れない。


学校が終わると毎日の様に近所のマンモス団地のバスのロータリーに仲間と集まった。いわゆる溜まり場である。

私達仲間は、同じ中学出身だが高校はバラバラだった。いつしか仲間達はロータリークラブと読んでいた。


そのロータリーには、小さなスーパーとプレハブで出来た沖縄そば屋さんがあった。


お腹が空くと決まって沖縄そばを皆んなで食べた。当時、250円くらいだったと思う。

勿論、普通のお店より格安設定でもっぱら学生しかこなかった。

お小遣いをもらったことのない私は勿論お金などない。

では、どうやってそばを食べられたのか?

もう時効だと思うので書いていく。


当時、今もそうなのかも知れないが、瓶に入った飲み物例えば酒、ジュースなどには瓶の保険があり瓶を酒屋なり、スーパーなり、買ったところに持って行くと換金できたのである。

通常、3円から10円くらい。

この当時コーラの1リッターの瓶は50円の破格で換金ができた。


じゃあ、コカコーラの瓶は?


はい、沖縄そば屋の隣にある小さいスーパーの裏側に山積みにされているのを夜中忍び込み盗み出したのだ。

その瓶を、あろうことか盗んだスーパーで換金すると言う何と酷いことを…


申し訳ないと深く深くお詫び申し上げます。


週末になると仲間達とSガーデンと言う名前のディスコに通った。

ユーロビートや、アメリカの音楽が好きで当時は、ブレイクダンスが流行り始めで、私はダンスとラップにのめり込んでいた。


そんな時ある噂を聞いた。


『コザにマイケルジャクソンのモノマネが上手いアメリカ人がいる!』と。

コザとは那覇から北に向かった町で、ベースキャンプが近くアメリカ人が多い地域だった。

私と仲間達はワクワクしながらマイケルのモノマネが上手いアメリカ人に会いにコザのディスコにでかけた。


やばかった。と言うか、オーラがハンパなく話しかける事も出来ないくらい光り輝いている黒人だった。


まさか、あの人が後のMCハマーだったとは彼の自伝を読んで初めて知る事となる。


何やかんやバカ青春を謳歌していた私だが、叔母の家を早く出たくて仕方がなかった。


高校を卒業した後就職も何も決めず横浜に行く事にした。

友達が横浜で働いていたからだ。

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