第5章 母
昭和8年日本最西端の与那国島で母は生まれた。
沖縄本島よりも台湾🇹🇼のほうが近い距離にある与那国島はカジキマグロの漁で有名で
今は亡き俳優で釣り好きの松方弘樹さんの別荘もある。
与那国ウマと言う天然記念物のウマも存在していて、放し飼いにされている。かつては、重い荷物やサトウキビなどを運搬し島民と共に働いていた。
島民はウマを大切にし、またウマも島民に尽くしていた。
そんな自然豊かな島で母は育った。
母は活発的で明るく斬新なアイディアを思いつく子供だったらしい。
母の父親は台湾🇹🇼で警察官をしていたと聞いていた。
これといった産業の無い島では台湾で働くか、沖縄本島に行くしか選択がなかった。
スクスクと育った母は夢と期待を胸に沖縄本島へと仲間たちと旅立ったのだった。
話しは変わって私の3千円事件から2年ほどたったある日、夜中仕事から帰った母が姉に言った。
『首と背中が凝っているから、揉んでくれないかなぁ…』
と母親が姉に頼んでいた。
そんな会話がなかなか寝付けない私の耳に入ってきた。
私『疲れているのかなぁ…』
『揉んでくれないかなぁ』の言葉が私には最後の母の声だった。
翌朝目を覚ますと、何やらバタバタと慌ただしく親戚の姉ちゃんや、叔母さんがいた。
私『どうしたの?』
叔母『落ち着いて聞きなさいよ。お母さん体調悪くなって病院に行ったから皆んなで病院行こうね』
母は帰らぬ人になってしまった。
脳溢血だった。
享年43歳
あまりにも早く短い人生だった。
この出来事は、姉が高校に合格し私が小学3年生に進級した春の出来事であった。
残された私達は親戚の連日の会議で児童養護施設に入る事に決まったらしいが、血縁の遠い従姉妹の叔母が施設にいれるのはあまりにも可哀想と引き取ってくれることとなった。
叔母家族は娘と息子の4人家族で小さなアパートで暮らしていた。
間取りは六畳と四畳半二間の小さなアパートだった。
そのアパートは3階建てのワンフロアー3世帯で叔母たちは3階の階段登ったすぐの角部屋、その隣は叔母の両親が住んでいてその隣がたまたま空いていたので、私達が住む事となった。
つまり、ワンフロア身内で固まっていてどの部屋も自由に行き来できた。
叔母は何故私達を引き取ったのか?
実は、叔母はかなり霊感が強い持ち主で私達の母親が叔母の前に現れて
『どうか、あの子達の面倒見てほしい…』
と、頭を下げて頼んできたらしい。
それで引き取ったと言っていた。
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