第38話 ウィリアム・アダムス

 戦国時代にイギリスからはるばる日本に初めて来たイギリス人で、侍の称号を初めて得たという外国人である。


 ウィリアム・アダムスはイングランド南東部のケント州ジリンガムに生まれた。


 1588年に海軍に入り、スペインの無敵艦隊がイギリス本土を攻撃しようとした時には、イギリス艦隊の食糧や弾薬の輸送艦であるリチャード・ダフィールド号の艦長に抜擢され、アルマダの海戦に参加したという。


 1589年には、バーバリー会社ロンドン会社の航海士や船長としてシベリアから東洋へ至る北東航路の探検隊への参加や、アフリカへの航海で多忙を極めたそうな。


 1598年にロッテルダムに渡りオランダの東洋遠征隊に志願したという。


 1600年4月29日、豊後国臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報したそうな。


 広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイギリス人の彼らを即刻処刑するように要求したという。


 五大老首座の徳川家康が指示し大坂に護送させ、併せて船も回航させた。


 オランダとイギリスはスペインやポルトガルとは覇権を争うプロテスタントの国で、カトリックの国ではなかったことから、彼らとの交流に反対し、アダムス以下、リーフデ号の乗組員であるイギリス人やオランダ人を処刑するように家康に申し出たという。


 1600年5月12日、家康は初めて彼らを引見する。プロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤンヨーステンを家康は気に入ったという。


 家康は幾度かにわたって引見を繰り返した後にアダムスとヤンヨーステンらを釈放し、城地である江戸に招いた。


 アダムスはオランダ東インド会社日本支店となる肥前国松浦郡平戸島のオランダ商館設置に携わったという。


 また、家康はアダムスを顧問にした。


 1611年、スペイン使節が来日して諸港を測量していた。そのことが反撃の材料となると思ったアダムスは、家康にこう告げた。


 「スペインは、まず托鉢修道士たちを派遣します。彼らが測量するのは、各港にどの船が入港できるか知るためです。彼らが入念に日本を調べ後に、兵士たちを送り込みます。このようなやり方で外国を支配下に入れていきます。」と、すべてのカトリックの宣教師を国外に追放すべきであると答えたという。


 イギリス商館が設置されると、商館長にはリチャード・コックス(英国国教会信徒)を任命し、6人の部下を付け、アダムスも商館員として採用され、顧問を務めたという。


 家康に信頼された按針だったが、1616年4月に家康が死去、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちが海外貿易を幕府に一元化する目的で貿易を長崎と平戸の二港のみに制限した。


 アダムスは、幾度も幕府に方針の転換を説いたが相手にされず、また秀忠との目通りも叶わず、按針の立場は不遇となった。


 幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月26日に平戸で死去したという(満55歳没)。


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