第11話 関ケ原後の鳥取城にくる敵は我が蹴散らす

 昔々、因幡国に多賀三郎兵衛なる者がいたそうな。


 多賀三郎兵衛は宮部継潤と宮部長房の二代に付き従った猛将であり図体が異様に高かったという。


 関ケ原合戦が起きた1600年には、宮部長房が当初東軍にいたため、主君は会津征伐に従軍した。


 しかし、上方で石田三成が挙兵した報を受けて反転して西上し、鳴海まで来たところで小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう要請してきたそうな。


 与力の木下重堅・垣屋恒総が既に西軍に走ったこともあり、長房は西軍についたようである。


 そして、長房は東軍から抜け出そうとしたが失敗してしまい、拘束されてしまう。

 

 その場にいた者らは、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わったそうな。



 一方、城主がいない鳥取城には、多賀三郎兵衛を含めた長房の家臣がいた。


 その城に、関ケ原合戦後、城主の長房が西軍についたため、居城の接収を行おうと、亀井玆矩と斎村政広の軍勢が押し寄せてきたようである。


 亀井勢は鳥取城の者らに開城を迫ったようであるが、城主も不在、安否も不明なため、亀井の命令を鵜呑みにするわけにもいかず、返答を先延ばしにしてこれを拒否しつづけたそうな。


 「一戦にも及ばずして開城しては武士の面目が立たぬであろう。ここは開城するべきではない」


 多賀三郎兵衛はそう申して、開城するのを断固拒否する側にいたらしい。


 また、敵の者達にもそう告げたりしていたらしい。


 このため、亀井玆矩と斎村政広は鳥取城を攻めることになった。


 亀井、斎村の双方の軍勢が攻め入ると、城外へ出た宮部勢はまたたく間に蹴散らされ、亀井、斎村の軍勢は城下の町屋まで攻め入り、町屋一帯は猛火にさらされたそうな。


 多賀三郎兵衛は下の丸の大将として、十余騎にて門々を堅め、 鉄砲や矢を射かける穴を開いていたという。


 多賀三郎兵衛は、背丈が高く、金の大半月の指物に真っ黒の装束をして、142cm~145.5cmの大馬に乗りながら、約18cm~21cmの槍を持っていた。


 そのため、大将としての風格があったという。


 そして敵が迫ってくると、多賀三郎兵衛はこう申した。


 「亀井、斎村の軍勢が押し寄せてきたぞ。鉄砲や弓矢を射かけよ!!」


 三郎兵衛が命令すると、鉄砲や弓矢が絶え間なく撃ち、少しの者が撃たれたという。


 そのため、寄手も心易くは攻め入れなかったそうな。


 「どうだ、見たか。敵勢が億劫になって攻め寄せてこぬぞ。このまま敵勢がきたら撃ちかけるぞ!!」


 しかし、何分寄手は大勢のため、堀際へ詰め寄り「内に入ろう」と叫んで進んだようである。


 その時、三郎兵衛はこう申した。


 「何時までもこらえておればよいのだ!!」


 そう言いながら、切って出て、群がる敵勢を巨大な槍で打ち払い、蹴散らしながら戦ったようだ。


 この時、寄せ手の者は、多賀三郎兵衛をみて「悪鬼の如くにも見えたのであった」と言ったという。


 この威風堂々とした三郎兵衛を見て、大勢の寄手が崩れて嘆いたのをみて、「得たり!!」と言いながら、追付き突き倒していったそうな。


 また東の門を開き突きながら出て、たてよこ十文字にかけ廻った。


 亀井茲矩は、「退くな!! 進め! 進め!」と下知したが、味方勢は「うわっ! 多賀が出たぞ!」といって一同恐れて攻撃するのに億劫だったという。


 そして、三郎兵衛は数多くの敵や将である進野九郎左衛門、湯野一族などに傷を負わせたり打ち取ったという。


 

 そんな時、柴田半四郎なる者が名乗り、「槍合おう!!」と言ってきたのである。


 三郎兵衛はこう言い返した。


 「やさしき若者だな。だが、柴田半四郎という者は、聞き覚えがない。我が相手にはなるまい。そこを退いてはくれまいか!!」


 しかしながら、柴田半四郎は「相手にならないとは失敬な。わが槍さばき見せてくれん!」と言って攻めてきた。


 三郎兵衛は、「若者を手にかけるは不憫なり」といいながら、前にでた。


 「是非に及ばず」といって、槍合いを行い一突きで柴田半四郎を打ち倒したそうな。


 

 さらに、三郎兵衛は北の門も開き、斎村勢にも向かっていき、歴戦の武士二騎を馬より倒れるように突き落とし、追いかけまわした。


 さらに、敵の大勢の中を乗り通し堀の外を乗り廻しながら、こういった。


 「我こそは多賀三郎兵衛という大剛の者なり!! 打ち留めて功名せよ!!」


 東の門へ乗り廻し門を開かせ入ったのだが、敢えて近付く者もなく、皆々開けて通してしまったそうな。


 しかし、寄せ手の銃撃にあい、右の腕を撃たれ、手の働きが自由にならないので三方の門を固め、暫く休みはじめたそうな。


 だが、三郎兵衛は鉄砲を打ち出し門を固めたので、敵は攻めあぐねたらしい。


 

 これを見た亀井玆矩は、「これ以上城攻めに日数をかけても兵を疲れさせるのみなので、むしろ扱いを受け入れて降伏開城を勧めよう」と言ったそうな。


 その後、鳥取城の者と、亀井玆矩が交渉を行った。


 鳥取城の者は亀井玆矩の説得に応じて、城を明け渡すことに決定した。


 

 こうして、城の中の者は、武器を捨てて城の外に出ていったのである。


 しかし、三郎兵衛だけは、右手に傷を負いながらも手拭いを結んで、大馬を片手で手綱を取りながら、槍を従者に立たせながら城の外に威風堂々と出ていったそうな。


 それを見た敵の者は、「場内から出たものは皆、武装解除して出ていった。貴殿も武器を捨て馬から降りられよ」と言ってきたのである。


 だが、三郎兵衛はこう言い返した。


 「武士が武器を捨てることなどはできぬ。捨てよとまだ言うのならば、場内に戻り、城を枕に一戦して討ち死にしようぞ!!」


 この発言を聞いて、敵の者らは何も言わなかった。


 さらに、三郎兵衛は馬に乗りながら、従者と共に悠々と通っていったのである。


 それを見た敵の者らは遮らずに、「天晴なる勇士なり」と言ってほめたたえたという。



 その後、多賀三郎兵衛は田中吉政の配下になった。


 

 


 


 


 


 

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