故郷~私の帰る場所~

海乃マリー

第1話 退職

 「‥‥今後につきましては、一旦休養期間を設けまして、趣味を楽しんだり、孫との時間を過ごしたりしながら、有意義に過ごしたいと思います。先ずは私の故郷である佐渡島に旅行に行く予定です。現時点では次の仕事は決めておりませんが、時期を見ながら考えていきたいと思っています。最後になりますが、皆様の更なるご健勝と‥…」


 高藤晃たかとうあきらの所属するマーケティング企画部は、大きな部署であり、本社ビルの八階の片側の広いワンフロア全体を占めている。端の方まで声が届かないため、総勢百名ほどの社員たちが寄せ集まって私の挨拶に耳を傾けた。それなりに型どおりの退職の挨拶であったが、皆を飽きさせないために軽いユーモアを交えるなど、全体的には悪くなかったと自分なりに評価した。曲がりなりにも大企業に分類される会社の部長職である。人前で話すことは日常的なことであり慣れたものだった。


 これまで多くの退職者を見送る側しか経験したことがなく、実際に送られる側になろう日が来るとはにわかに信じがたかった。こういった挨拶自体は転勤や部署移動などで何度も経験していたものの、今回は新卒時から長年勤めあげてきた会社を去るわけで、これまでの挨拶とは全く心持ちが違うものであった。


 私の会社員生活は一言で言えば順風満帆だったと言えるだろう。大きな問題を起こすことなく、上司にも部下にも恵まれてコンスタントに出世してきた方だろう。最後の挨拶においても「人に恵まれた」というような話を何度もしたように思う。


 私の場合、運命を左右するのはいつも「人」だった。勿論、仕事には情報力や頭の回転の早さや人脈、コミュニケーション能力など他にも色々と大事なものはあるのだが、私自身は人間関係を円滑に保ち、人を大切にしていくことが結果に繋がったと感じている。


 部内全体で送別会をするとなると百名以上となってしまうため、部として外で送別会をすることはなく、業務終了後の挨拶の際に心ばかりの品や花束などを受け取ったりした。


 「高藤部長、長い間本当にお疲れさまでした」

 「部長がいなくなっちゃうの寂しいです~」


 寂しいというのは社交辞令だろうが、普段あまり関わることのない若い女性社員までが私に声をかけてくれたのは素直に嬉しかった。沢山の人に声を掛けられて、その一人一人にこれまでの感謝の意を伝えた。


 今日は最終日ということで、日頃からよく絡みのあった部内のグループ長達や上司である執行役など一部の者たちが最後の酒の席を用意してくれているようだった。女性のグループ長は一人だけいるが、後はおっさんばかりの会である。企業戦士として共に戦い、運命を共にし、長い時間を共に過ごしてきた仲間達であるから、おっさんだろうとおばさんだろうと性別なんか関係ないかな。


 ここ最近は飲み会続きだったので身体というか内臓がかなり疲弊している気がする。年度末であり、期末の打ち上げや慰労会などがあちこちで開かれていた。部下に誘われるのは悪い気はしないものだし、同期や仲間の誘いも最後ともなると断るわけにはいかない。若い時とは違い少々身体に堪えたものの、最後だからと誘われたほとんどの会に参加してきた。


 最近は業務終了後の飲み会の場を敬遠する者も多いようで、そういった考えの者達からすると、ここ最近の私の連日の宴会っぷりは正気の沙汰ではないだろう。仕事後の飲み会の参加可否は本人たちの意思によるべきだが、私自身は社内の交流においても、社外の接待の場においても、お酒の場は強力なコミュニケーションの潤滑油となると考えていた。

……まぁ単に酒好きというだけかもしれないが。そして、とうとうそんな怒涛な日々にも終焉を迎える時が来たのだった。


 息つく間もないほど賑やかだった毎日が突然プツリと断絶される寂しさを想像するとなんだか虚しいような不安感が湧き上がってきた。




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