第47話

 翌日、木村研には佐々原准教授からプリンの差し入れがあった。旭ひとりだけ食べられないのだが、にこにこして静夜がプリンを食べるところを見ていた。

「三峰さん、食べにくいのですが」

「あっ、すみません」

 慌てて手元のワークに視線を戻し、問題を解き始める。

 集中して解いていたら、気づくと木村研には静夜の姿が見えなくなっていた。

「っ、え」

 思わず立ち上がる。

「山口さん、静夜さんは」

「飲み物買いにさっき出てったけど。そろそろ帰ってくるんじゃね?」

「ああ、そうですか」

 置いていかれたかと思った。

 貧血のような感覚でふらりと旭は椅子に座って、顔を覆った。

 怖かった。

 静夜さんが怖かった。

 彼が何を考えているのかわからない。

 木村研の扉が開いた。

「戻りました。――三峰さん? 何をしているんですか」

 旭はぱっと顔を上げる。

「何もしていません!」

「いや、何かはしていたでしょう。さっきまで集中してワークをやっていたじゃないですか」

「はっ、そうでした」

「僕がこれを飲み終わったら帰りましょうか」

「はい、そうしましょう」

 ――わからないなら、わかるまで聞くまでだ。


 帰り道、やはり空虚な時間が旭と静夜の間に流れていた。

 旭は、それを打開するように昨日考えたことを話した。

「先輩は、恋愛経験がないんですよね」

「はい、ありませんし、恋愛について考えたこともなかったです。今はあなたのせいでたまに考えますけれど。それがどうかしましたか」

「わたし、先輩が初恋で、それ以外の恋をしたことが無いんです」

「そうなんですか?」

「そうなんです。だから信仰とか崇拝とかが混じっちゃって大変ややこしいことになっているのですが。そして、先輩も初恋をしたことが無いんですよね?」

「おそらくありませんね」

「つまり、わたし達はふたりして恋愛初心者なんです。なのに、交際とかいう高等技術をしようとしていたわけです」

「しようとしていたのはあなただけですけどね。それで?」

「つまり、お友達から始めようという先輩の提案は正しいルートなのだと思います。なので、わたしも心の底から先輩をお友達だと思って接してみようと思いました」

 旭がそう言うと、静夜は少し黙った。

「――そうですか」

「いい友人としてよろしくお願い致します」

「僕は、別に――あなたが僕のことを好きでいても、構わないのですけれど」

 え?

 旭は隣を歩く静夜の顔を見上げた。

「あなたが僕のことを好きなまま友達になってくれるなら、それが一番うれしいのですけれど」

「それ、本当ですか?」

「本当です。あなたに好かれていること自体は嫌ではないんです。ただ表面に出してほしくないだけで」

 静夜が立ち止まったので旭も立ち止まった。

「家につきましたね」

「あ、本当だ」

「それでは」

「静夜さん」

 静夜さんは一瞬惑ってから振り返った。

 さっきの言葉が本当なら、あなたはきっとわたしのことが好きだと思います。

 わたしに向ける感情は恋だと思います。

 そして、わたしに負けず劣らずのエゴイストだと思います。

 ――こんなタイミングで吐けるセリフじゃないな。

「ごめんなさい、なんでもありません。おやすみなさい、静夜さん」

「はい。失礼いたします」

 おやすみなさいって言ってくれなかった。

 たったそれだけのそれは、心に穴が空いたような喪失感を旭に与えた。

 静夜さんは今何を考えているだろう。

 もしかするとわたしは、あの人の唯一だったのに、自分からその立場を崩してしまったのではないか。

 恋愛感情なんてもののために、先輩をより孤独な存在にしてしまったのではないか。

 だったら恋愛感情なんてもの捨てればいいのに、捨ててしまえない自分可愛さに腹が立つ。期待を捨てられない自分に腹が立つ。

 表面上の『いい友達』を装って、先輩の側を、薄氷<うすらひ>の上を歩く毎日を止められないでいる。一歩踏み込んでしまえば薄氷は割れて旭は水中に落ちてそのまま失恋の海に沈んでいってしまうだろう。それでもいいか。もともとくらげのような存在だ。

 旭は踵を返した静夜の背中が見えなくなるまでじっと見送っていた。


 午後十一時。静夜さんにメッセージを送る。

「おやすみなさい」

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