第36話 鉄格子のはめられた病室

『梅小路さんのリハビリの担当になった、新谷と申します。よろしくお願いします』


 窓枠に飛び降り防止のための鉄格子のはめられた病室が、新谷と梅小路の出会いの場だった。


『……』


ピンク色の病衣を着た梅小路は新谷を一瞥しただけで返事さえない。だが新谷は穏やかな笑顔を崩さなかった。


この程度で心を乱していては精神科の仕事などつとまらない。


 カルテと家族からの情報によれば、薬の副作用とうつの意欲低下にさらされた梅小路は数か月ほとんど口を聞かなかったらしい。


はじめのうちは病室に引きこもり、新谷が訪ねていっても会うことさえない。


だが辛抱強く訪ねるうちに徐々に心を開きはじめ、一月が経過した頃にはリハビリ室に顔を出すようになる。


手芸や折り紙、陶芸から農作物まで。患者が手掛けた様々な作品が並べられた精神科独特のリハビリ室。最初はただそこに座って他の患者さんが行う作業を見ているだけ。


 それでいい。


 病室以外の居場所を作ることが、梅小路のこころのリハビリの第一歩だった。


「おはようございます!」


「……おは、ようございま、す」


新谷は無理に距離をつめず、軽くあいさつを交わすことから始める。同時に世話好きな患者や、躁状態で騒がしい患者からさりげなくガードすることも忘れない。


初期の梅小路が会話するのは、同じようにうつの患者とだけだった。


だがリハビリ室で共有する時間が増え、彼女は他の患者とも接するようになっていった。同時に誘われて作業療法のリハビリにも参加する。


「それはこうするといいんですよ、梅小路さん」


それと共に指導的立場にある新谷とも少しずつ会話を重ねる機会が増えていく 。


やがて梅小路は新谷と患者から誘われて、作品作りを行うようになった。薬の副作用で震える指先のためか、生来不器用なのかはじめはうまくいかずかんしゃくを起こしていた。


紙をちぎり、糸を引き裂き、作品を床にたたきつける。


だが梅小路のそんな態度にも嫌な顔一つせず、新谷は辛抱強く付き合った。かんしゃくの頻度が減り、指の震えも収まってくると梅小路はめきめきと腕を上げていく。


やがては毛糸を使ったぬいぐるみ、「編みぐるみ」ならば新谷を上回る作品を作れるようになった。


「ふふ、私の勝ちですね」


この頃にはすっかり新谷とも打ち解け、気安く会話ができるようになっていた。

年も近かったせいか好きな食べ物、学生時代の出来事など突っ込んだ話も多くするようになる。


感情鈍麻や意欲の低下、罪業妄想などの病状が回復するとともに、外見にも変化が訪れる。


 ぼさぼさだった髪もブラシを通すようになって整い、規則的な生活で痩せこけていた体にも肉が付き、肌にも年齢相応の張りが出てきた。


 梅小路の担当になって半年ほど経ったころ、新谷は彼女の容姿に驚愕したのを覚えている。


 黒い宝石のような瞳は流れるような雀色の髪の下で輝き、なだらかなカーブを描く細いあごとまっすぐに伸びた鼻梁との間で絶妙なバランスを保っていた。


(こんな美人だったら、男が放っておかないだろうな……)


 そう思った時、新谷の胸は針を刺されたかのように痛んだ。


 梅小路から連絡先を聞かれたことも一度や二度ではないが、そのすべてを新谷は断った。


 自分と梅小路の関係はあくまでも医療従事者と担当患者。その一線を越えるわけにはいかない。


 それに担当患者から連絡先を聞かれるのも初めてではない。


 まあ、連絡先を聞かれるのはほとんどが中年女性ばかりで若い女子は梅小路が初めてだったが。


編みぐるみを地域との交流バザーで売り出し、完売した頃から彼女は更に回復していった。やがて退院し、雑貨店のアルバイトから社会とのつながりをふたたび持つようになる。


 そのことを報告しにきた梅小路の笑顔を、新谷は一生忘れないだろう。


「新谷先生! 私、来週から二年ぶりに働くんですよ! 親もとっても喜んでくれました!」


「そう。でも無理は禁物だよ。まだ心身が回復しきってないから。まずは週一回から。休みたいと思ったら無理しないで」


 梅小路が退院するとリハビリも終了し、新谷とのつながりは週一回の通院のたびにリハビリ室に挨拶に来るだけになる。


 彼女との縁が徐々に切れていくのが寂しかったが、患者が回復して社会復帰してくれるなら医療従事者としてそれに勝る喜びはない。


 自分に会いに来るとき、彼女が笑っていてくれればそれでいい。どこか寂しそうな顔をしているのが気にかかるけど、時がいずれ癒してくれるだろう。


彼女が「二条雑貨」という小売店の正社員への登用試験を受ける前日に、新谷はタイムリープした。

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