カモフラージュやめた

くいな/しがてら

カモフラージュやめた

カモフラージュやめた

          ◓

「本日よりマスク着用を屋外・屋内問わず個人の判断に委ねることが基本となります。街行く人々はこの変化についてどう思っているのでしょうか……」

 ちらつく雪をバックに語るアナウンサーの顔は上気し、鼻の先まで赤くなっていた。陰気な空模様にそぐわない活力ある声とニュースに、先週は胸を高鳴らせていた。そう、先週は。

「なんでみんなマスクを外さないのよーっ! 日本人だからか? 忍者の末裔たちは素顔も晒せないってか? 時代遅れなのよ、同調圧力もシノビも!」

 聞かせようとしない限り、咆哮が周りの人間に聞こえることはない。見せようとしない限り、見られることもない。

 あたしは口裂け女。ちょっと時代に遅れた妖怪である。


 人間は不可解だ。長いことマスクをつけてきたあたしだからわかる。

 マスクは、不快だ。

 自分の息が逃げ場を失い、渦を巻いて口を蒸す。じっとりとかく汗も、絶えず耳を絞る糸も、無い方が素晴らしいに決まっている。人に紛れたい時――例えば遠出のために電車を使ったり、ちょっとお茶したい気分になったり、やむなく人に見られる必要がある時――裂けた口を見られると面倒だからマスクをするけれど、もし全人類の口が裂けていてそれが当然であったならば、忌々しいこいつなんぞ喜んでかなぐり捨てる。まあ、そんなことがあっては困るのだが。消滅まで秒読みだ。

 コロナとやらは落ち着いてきたらしいが、大多数の人間はマスクを外さない。あたしに言わせればどうかしている。この三年間付き合った拷問道具に愛着でも湧いたの? なんだっけ、誘拐犯に好意抱いちゃう心理……そうそう、ストックホルム症候群みたいな? ちょっと違うか。なんにせよ、一週間前のあの興奮、快哉を返してほしい。

 もっとも、あたしが彼らにマスクを外してほしい理由は、彼らの幸福の為でも、あるいはマスクを外せない自分への当てつけのように感じられるからでもない。あたし自身の、マスクというアイデンティティの為だ。

 妖怪は異質であればあるほど強い。幽霊と違ってほとんどの妖怪がぬりかべやら天狗のように奇抜な格好をしている理由は、噂されるためだ。人々の記憶に残れば残るほど、妖怪は力を増す。信仰と言えば宗教くさくてやや語弊があるが、付喪神と妖怪は紙一重なのだから、さほど的外れでもではない。つまり異質なほど記憶に残りやすく、イコール強い。

異質さは、強さ。

この原則は時代を経るごとに多くの妖怪たちを苦しめてきた。あたしもご多分に漏れず、弱体化を余儀なくされた。別段、口の裂けたハロウィンのコスプレ程度は痛くも痒くもない。問題はマスクだ。夕暮れ時にマスクをつけた美女に出会ったら、それはもう一昔前まで口裂け女だった。マスクをつけて外を歩く人なんて基本いないから、そういうシナプスがあったのだ。

 ところがコロナがあたしに大打撃を食らわせた。あたしほど美しくないにせよ、マスクをつけた美人は珍しいものではなくなり、あたしは力を失った。何よマスク美人って。そりゃ顔のほとんどを占める鼻と口を隠せば、誰でもマシに見えるでしょうよ。あたしは違うけど!

 ともかく、『普通に』なってしまったあたし。もう子供たちは馬鹿にするどころか話題にも出さない。悪名と美貌を世界中に轟かせるはずだったのに。あたしは大逆転の機会を待ち続けた。コロナ明けとやらを一日千秋の思いで待ちに待ち、期待外れだったところでやっと先ほどの魂の叫びにつながるというわけだ。


「それにしても異常でしょ。高校生なんて、校門を出て先生の目が無くなれば、すぐにでも外しそうなものじゃないお腹すいた!」聞こえないのをいいことに、箇条書きみたいにひとりごちる。

 見渡す限り、どの生徒もマスクを外す気配がない。その統一感はかえって不気味で怖気が走る。違和感を拭い去れないが、もう無いはずの胃が鳴ったので、今週の獲物を探しに行くことに決めた。もう人間への殺意はさして残っていないが、アイデンティティの為には、食わなければならない。鳥たちのさえずりに五時の音楽「遠き山に日は落ちて」が重なった。行くか。




 こいつかな。黒い大型のリュックサックを背負って歩く少女が、野暮ったいメガネが曇るのも気にせずマスクを着けたまま歩いていくのに目をつける。続く集団が十字路を曲がって、一人になった。

 連れはいないのか、ずんずん進んでいく。リュックサックから伸びるリールと本をあしらったケースを見るに、鍵っ子か。帰宅が遅いことに親が気付くのは相当遅くなるだろう。本当に狙いやすい。あまりに都合がいいので罠を疑うが、彼女からは霊具の類のいやーな匂いがしない。最高だ。

 あたしは他の生徒が完全にいなくなるまで、姿を消したまま孤立した少女の後をつけることにした。

「ねえ」

 今だ。踏切を越えた先で声をかける。ダダンダダン、という列車の音は山に吸われていく。少女は周囲に人がいなくなっても、マスクをしたままだ。

「ひゃいっ!?」

 うふふ、そりゃ気づけないよね。さっきまで後ろに人の気配なんてしなかったもの。いつからいたんだろう、なんて思っているかな? 初めからだようふふ。気分の良くなったあたしは、いつものように続けた。

「あたし、きれい?」

 虚を突かれた今なら、言葉より身体反応の方が雄弁だ。人の本性が見られるから、あたしはこのやり方を気に入っていた。

「とと、とっても」

 あら、珍しい。聞き返さないし、泳ぎ気味の目も一応はあたしを見てくれてる。反応も早すぎず遅すぎず。どもりはこの子の特性かもしれないからノーカンね。

「これでも……?」

 そろそろとマスクを外し、花が咲くようにぱっと笑って見せる。九割は絶叫し、一割はぶるぶる震えてきれいで薄い言葉を並べるけれど、今回はどっちかしら。どちらであっても、この美しさを理解できない下等生物を減らすのに心は痛まない。

「きれい……」

 耳を疑う。今この子なんて言ったの? それにこのまん丸に開いた眼は何? 息の余韻は? 

「えっと……もう一度訊こうか。あたし、きれい?」

 今度はもっとしっかりした態度だった。

「は、はい。自然と綺麗で羨ましいです。そのすうっと通った鼻筋、奥歯までずらりと整った歯並び、濡れているかのような肌のつや。生まれついての容姿ですか?」

 自分の言葉が熱を帯びていることに気づき、「すみません早口で」と彼女は謝ってそそくさとその場を立ち去ろうとした。ちょ、ちょっと待って。

「あなたはそういう……趣味なの?」

 異形頭だとか、怪物とかにフェチシズムを感じる人間なのかな。そうね、そうに違いないわ。ところが返答は思いがけないものだった。

「いや、そういうわけでは」

「本当に美しいと?」

「はい」

 言い切られてしまった。まさかこっちが驚かされるなんて。マスクを着けなおしながら、口は勝手に動いた。

「な、なるほど、あたしの美が判る人間がいたなんて。でもでも、お嬢さんもどうなのよ。ちょっとそのマスクとってごらんなさい」

 あたしは何を言っているんだ。褒めそやされて――照れている? この大妖怪口裂け女が?

「いや、見せられるものではないのでごめんなさい」

「いいじゃないの、減るもんじゃないし。ずるいわ、そっちだけまじまじと見て」

 それでも頑なに素顔をさらそうとしない少女に業を煮やし、最終手段を使うことにした。がぶり。

「え……」

 少女の素顔がさらされた。あたしが一瞬でマスクをかじり取ったのだ。肌とマスクの隙間で口を閉じなければならないのは少々神経を使ったが、少女の鼻は出っ張ったままなのでよしとする。不本意ではあるが、能力がここまで繊細に使えるのは弱体化の唯一の賜物だ。改めて少女の顔をじっくり観察するが、ここでは予想を裏切られた。

「なーんだ、端正じゃない。あたしには及ばないけれど、人間の世界でならさぞちやほやされるんじゃないの? 鼻は高いし、その紅潮していく頬なんてとってもチャーミングで……」すべて正直な感想だ。醜い顔を隠していたわけではなかったようだ。ならいったいどうして……?

「ししし、失礼しますっ!」

 言い終わらないうちに、少女は両手で顔を覆って駆けだしてしまった。その徹底ぶりは異様だ。どうして傷一つないこの顔にコンプレックスを抱えている? 

――む。茂みの奥から話し声が近づいてくるのが聞こえた。少女は動転して気づいていないようだ。

疑問は残るが、数少ない理解者には恩を売っておくことにした。

「待ちなさい。人が来てる。それに予備のマスクなら持ってるわ。急にはぎ取ってしまってごめんなさいね」

 少女はピタリと立ち止まって、きまり悪そうにこちらへ戻ってきた。


「あの、ありがとうございます」

 踏切の茂みで人をやり過ごすが、また一人、また一人とやってくる。残念、今回はくいっぱぐれちゃった。まだ余裕はあるし、ここは好奇心のやり場、もとい理解者を見つけただけで良しとするか。

「どうしてそんなに顔を隠すの? あたしに匹敵するなんてすごいことよ」

「見せかけです。口裂け女さんで合っていますか?」

「ええ。よかった、まだ知名度はあるのね」

「……整形ってご存知ですか」

「もちろん。へえ、整形でこの顔になれたの。やるじゃない、人間も」

「どうして顔を隠すのか、でしたね。私は醜形恐怖症です」

「なにそれ」

「ほ、他の人が何と言おうと、この顔が恐ろしく醜く思えます。見れば見るほど私の顔は私じゃない。でも、鏡を見ずにはいられないんです」

 彼女は肩で息をしている。

「とても、辛いです。小学校のころ、私は泣き虫でした。いじめられましたが、私が悪いんです。すぐに泣くから。でも、いじめられっ子のキャラクターを卒業できない理由に、泣きぼくろが一役買っていました。ある時どうしようもなく嫌になって右目の泣きぼくろを工作用のハサミで切りとろうとしました。でも、根が深くて取れなかったんです」

 馬鹿ですよね、と自嘲的に笑い、ポケットから取り出したティッシュで鼻をかんで一息つくと、少女は続きを語り始めた。

「結局病院に行って、無事に切除することができました。でもあれだけ邪魔だった泣きぼくろは、なくなった瞬間にかえって存在感を増しました。これは私の顔じゃない。そう思うと、もはや私の顔はキャンバス……いや、粘土の作品と何ら変わらなくなりました。汚れを上から塗りつぶすだけじゃ、いずれ剥がれます。醜い部分は根本から直さなくちゃって。でも欠点は次々と現れます。そうやって……」

「整形、何度もやったんだ」

 少女は目に涙をたたえて、変わらず自嘲的なほほえみを浮かべている。

「周りの人が羨ましいです。テストが近づいているとか、お金がないとか、誰かに無視され始めたとか。そういうことで悩んでいたいです」

 どきん、と既になくなったはずの胸が鳴る。平静を装って質問を続ける。

「ご両親は」

「悲しがるとあなたも言いますか」

「美に許可はいらないわ。ただ、何て言っているのかなと思って」

「両親はもういません。家族はおじいちゃんだけです。整形代もおじいちゃんから盗んで、私なにやっているんだろうって……」

 そういうと彼女はメガネについた涙をハンカチで吸い取った。

「そう、悪かったわね」

 沈黙が流れる。どうも、縁というものは判らないものだ。

「他の子……学校の子も整形するの?」

「しないですよ。皆強いです。コンプレックスに負けないんですから」

 その時、引っかかるものがあった。顔にコンプレックス……あ、アレだ。

「そうそう、なんで高校生たちは外でもマスクを取ろうとしないの?」

 息を整え、語り始める。自分の事よりも話しやすそうだ。

「もちろんコロナが完全に収まってはいないから、というのはあります。でも、もっと決定的な理由があってみんな自重しているんです。いまさら素顔をさらすのが恥ずかしいからでも寒いからでもなく……噂と言えばいいんでしょうか」

「噂?」

「都市伝説というか。マスクの用途を幽霊や妖怪は知らない。だからマスクを外している人は、実は人間じゃないんだって。マスクを外していると、簡単にいじめの標的になれますよ」

 吐いた白い息はすぐに消えた。バカバカしい。そんなくだらない噂で絶滅してたまるもんですか。

「噂の出どころは? あなたの学校だけなの? って、判らないか。あなたの学校に最近できたものとか、突然転勤してきた先生とかに心当たりはない?」

「え、ええ。快川和尚とかいう人物のブロンズ像が最近……。ご興味あるんですか? 都市伝説側じゃないですか。てっきり笑い飛ばすかと……」

 この少女は噂の伝播した学校にいる。それに何より、あたしを美しいといった。利用できそうだし、しばらくの間は食わないでおいてやろう。それにあれだけ自分のことを語ってくれたんだから、事情くらい話しておかないとアンフェアか。そう思い、口を人間がひらける程度にひらく。

「実は……」以下、冒頭の内容につき省略。


「強いですね、口裂け女さんも」

 話し終えると、少女はつぶやくように言った。思わず眉をひそめる。

「あなた、話を聞いていたの? あたしは弱体化されて、全盛期の力はない。もう山は削れないし、一週間に一人を平らげるのがせいぜいよ。悪いことばかりじゃないんだけど」

 といっても、能力範囲が制御できることが、明確に役立ったことはあんまりないけどね。 

「や、山を……? そうではなくて、強くなろうとしているところが強いです」

「あなただって美しくなろうとしてるじゃない」

「欠点を無くしたい私のとは違って、プラスの意志というか」

 夕焼けに照らされて、寂しそうな目がマスクの上に光る。

「判らないわね。あたしは噂を潰すけど、あなたはどうする? 協力してくれるなら食べないであげるわ」

「た、食べていただいても良いんですけれど、折角なのでお姉さんの姿をもう少し見ていたいです」

「あなた見かけによらず馴れ馴れしいわね。ふつう異形と出会ったらもっと落ち着きをなくすものよ。気に入った。名前は?」

「伊勢です。伊勢そしらです」

「そしら、明日は土曜だけれど、外せない用事はあるかしら? 手を貸してちょうだい」

 すぼまり気味のその肩に、あたしはポンと手を置いた。




「そしら、噂の正体は知ってる?」

 翌日。肩をすぼめて隣を歩くそしらに問う。そしらは指のないタイプの手袋をこすり合わせるのをやめ、困惑した目を見せる。今日もそしらはマスクを忘れていない。

「質問の意味がよくわからないんですけど……」

 茶色のダッフルコートのポケットに手を突っ込み、いつものヒールを鳴らして闊歩する。今日は狩り、もとい食事をしないから、赤いコートはお休みだ。いつだったか、あの爺に無理に聞かされた蘊蓄を横流しする。

「噂ってのはね、人が伝えるものではあるけれど流しているのは妖怪なの。妖怪とか神様が作れる要石というものから噂があふれ出る。それを信じるか否かは人間に委ねられるけれどね。迷信や俗説というのは、大半はこれによるものよ。ほら、夜に口笛を吹けば蛇が出るなんて迷信を信じる人はいないけれど、ずっと消えずに残っているでしょう? ああいうのは要石の効果が独り歩きしてるのね」

「噂を流すメリットというのは……?」

「ああ、言ってなかったか。人々に信仰される妖怪とか神様ほど強くなるのよ」

「つまり、マスクをつけない人=妖怪の噂を流したのは神様か妖怪ってことですか。でも、そんな噂を流すメリットはあるんですか?」

「それはもちろん、あたしへの嫌がらせかしらね。無敵だから鼻につくんでしょ」

 すかさず言うが、そしらは適当にあしらった。おのれ馴れやがって、下等生物が。

 無論あたしだって、そんなことが目的だとは思っていない。没落しかけの、ブームが過ぎた怪異だ。それに追い打ちをかけるメリットは果たしてあるのか……? 正直なところ、そしらに同感だ。

「ともあれ、この情報だけじゃとても特定することはできませんよね。黒幕も、居場所も」

「あたしたちだけならね。だから人、いや妖怪を頼るのよ」

 昨日調べたところ他校にこの噂はないようだったので、要石のありかはおおよそ快川和尚像の中だろう。しかし作り手が神様や格上の妖怪だった場合、考えなしに破壊するのはとてもまずい。それにくだらない噂だとは思うが、事情はあたしも気になるところだ。

 ようやく合点がいったという風に、そしらは声を漏らした。

「ははあ、それがさっき言っていた、情報屋のぬらりひょんってことですか。それにしても、ぬらりひょんって妖怪の総大将なんでしょう? そんなお方と対等だなんて、すごいですね」

 そしらは、ぬらりひょんに謎のこだわりを見せていた。そしらの仕事は後半に学校を案内することのみであったが、あいつの話をした途端に目の色が変わって食いついてきたのだ。

「……勝手にお茶をしていくだけの爺さんよ」

 なぜか夢の壊れたような顔をしているそしらを横目に、普段よりも小さな歩幅で歩く。お茶するだけ、か。自分の反射的な答えに苦笑する。浮かぶのは、遠い夏の日の夕暮れだ。




「さて、いろいろ言いたいことはあるが……」

 あいつは座ったあたしを一瞥し、天気や政治の話をするように何気なく言った。注意しておくが、あたしが座っているのではない。あいつがあたしを組み敷いて椅子にしているのだ。

「まずはようこそ、というべきかな、お若いの……。儂はぬらりひょん」

 聞き覚えのある悪名。最悪だ。

 なんでこんなところに

「日本妖怪の総大将が……か? 臆するなよ若人、そいつは誤りだ。たかがシケモク、情報屋。おぬしには到底かなわんよ……ああ失礼、思考に隙があったので這入らせてもらったよ」

 そう言うとぬらりひょんはキセルの煙を吐き出した。

 こんな状況で謙遜されたって、素直に受け取れるはずもない。ぬらりひょんはいつの間にか家にいる程度の妖怪と聞いていたが、思考盗聴なんて芸当もできるのか。

 ほんの一分ほど前、あたしはある屋敷の前にいた。何としても行こうと心に決めていた家だった。

 最近取り付けられたらしいインターホンを押すと、マスクを外さないうちにカメラの向こうで絶叫が響いた。愉快だった。玄関に出てきたクズどもの命乞いを聞くのも面倒になり、もたもたしていると勝手口から逃げ出す可能性が頭をよぎったところでマスクを外し、屋敷ごと丸かじりして飲み込んだ。これが普通の家屋だったら、間違いなく両隣の家も巻き添えをくらっていただろう。豪邸でまこと、結構結構。

 本懐を遂げたところで不意に煙草の匂いが気になり、マスクをつけた。誰だ、こんな公共の場で……気に入らない。食ってやろうか。煙草風味とはいただけないが……そう思って煙の流れてくる方向を睨みつけるも――誰もいない。しかし煙草の匂いは増す一方だ。

 やっと自分の周りに白煙が充満していることに気が付いた頃には、既にあいつに畳まれていたという訳だ。

 訳だ、じゃない。意味が分からない。まさしく煙に巻かれたようだった。

 悪名天下に轟く口裂け女、このあたしが……容易くやられた? 混乱は、煙が晴れてその特徴的な頭を見た瞬間に解けた。

「さんざん荒らしてくれたな、お若いの。ここまで急速に育った奴は初めて見たよ」

 襲われる道理は思い当たる。片っ端から人間や都市伝説を食らって、消えた怪異とは相対的に力を増した。総大将なら看過できないだろう……。しかし。

「その口ぶりからすると……消しに来たわね? あたし死なないわよ」

この距離なら問題なくやれる。さっきは不意打ちだったけれど、今なら負ける気がしない。

「歓迎しておると言っておろうが、話を聞かん小娘め。新入りにはルールを教えてやるのが年長の務めよ」ため息とともに煙を吐く。

「口裂け女。赤いコートに身を包み、マスクの下には裂けた口を隠している。この理由については……触れんでおこうか。ポマードを嫌い、べっこう飴を好む――苦手説もあるが、ポケットに忍ばせとるからやはり好物だな。鋏は使わんのか。これも誤って伝わっておるようじゃな」

 それにしても久しぶりに食べるとなかなかいい味だ、と飴をがりがり噛み砕く。こいつ、勝手にあたしのべっこう飴を……。しかしあまりの図々しさに咎める言葉が出てこなかったので、裂けた口の由来をべらべら語らないで済ませてくれたことへのチップとして自分を納得させる。

「目撃談が多いのは夕方十七時、ちょうど小学生の下校時間じゃな。姉妹説は嘘くさいの。その……家を丸ごと飲み込んだのを見るに。あと三時間くらい語れるが、必要はあるまい。先ほども言ったが、儂は既に隠居の身。いまは情報屋をやっておる――やれやれ」

 今度はこっちがだまし討ちを仕掛ける番だ。予備動作などいらない。ただマスクを外して顎を開くだけだったのだが……口の中に入っていたのは老獪きわまる情報屋ではなく、ただの霞だった。

「だから話を聞けい、仙人」真後ろから声がする。

「誰が仙人だ」駄目だ。当たらない。あいつが避けたのではない。どういうわけか、あたしが当てられないのだ。気にならないものは認識できない。観念して胡坐をかいた。

「諸説あるといえば、あんたこそ。人の家にしれっと上がり込んで茶を啜るだけじゃなかったのね。鉄壁の守りに不可視の攻撃。無敵じゃないの」

「ああ、知らんのか。ポイントは解釈の拡げようよ。『しれっと』『いつの間にか』は無意識を意味する、とかな。儂もおぬしも、能力は解釈次第、やる気次第」

「へえ。じゃああんた程の能力持ちもごろごろいるの?」子泣き爺が物理的負担だけでなくありもしない記憶で精神的負担をかけられたり、正体不明の鵺がぬらりひょんと同じことができたり、そんなことを言い始めたらもはや何でもありだろう。

「意外とそうでもない。できると思うたことはできるが、心からできると思うまでには一つ高い壁があるものじゃ。もし最強の妖怪、総大将がいるとしたら……天上天下唯我独尊、自分を世界の中心と信じて疑わない大物じゃろうな。もっとも、そんな奴は危なっかしくてとても従えんがね」くくく、とぬらりひょんは笑った。

 それから何年か、あたしは彼と行動を共にした。自分から追ったわけではない。気が付くと彼は背後にいて、実働部隊として顎で使われていたのだ。

道を外れそうな怪異を潰すとか、パワーバランスを保つとか、何やら御大層なことを語っていたが、生憎そんなスケールの大きな話には興味がなかったので覚えていない。こいつには逆らえないな。こいつといれば強くなれるかも。その程度しか考えていなかったが――世話になったのは確かだ。危ないところを何度も救われたし、そもそも怪異の掟やルールを知らなかったならば、もっと早く消滅していたかもしれない。平たく、有り体に言うならば、恩人だ。

 都市伝説、魑魅魍魎、悪鬼羅刹を知り尽くす彼ならば、今回のことも把握していないとは思えない。なに、手順さえ踏めば、いつでも会えるのだ。


 


 やっと見つけた人の少ない喫茶店に二人で入る。からんからんという鈴の音と、不愛想な主人の目線に出迎えられる。

「うまく会えますかね」

「呼べば来るわ」

 テーブル席を希望して、そしらと隣り合って座る。ぽかんとしているそしらに代わって注文をする。

「ミーコ三つ。一つは砂糖たっぷり」

「かしこまりました」

 なぜかニヤリと笑う主人が奥に消えていったのを見届けると、そしらはすぐに聞いてきた。

「ミーコってなんですか」

「え!? 何って……ミーコよ。喫茶店あんまり行かないの? 牛乳の入った……」

「あっ! ひょっとしてミルクコーヒーのことですか。多分それ死語ですよ」

 信じられない。自分が若いとは思っていないけれど、年を取っているとも思いたくない。時代はあたしを気にも留めず先へ先へ進んでいるのが……

「ショックですか? 妖怪もそんなこと気にするんですね」

 ぶすっと黙り込むあたしを、そしらはからから笑った。

 お待たせしました、とミーコ改めミルクコーヒーが運ばれてくる。ああ、同志を見つけたみたいな顔しないで、マスター。砂糖入りをそしらの前に、残りの二つをあたしの前に置き、ごゆっくりどうぞ、と言葉を残すとマスターは退いていった。

「それと、子ども扱いしないでください。私だって砂糖なしでも……」

「何について知りたい?」ひょんなことに、ぬらりと自然に。しゃがれた声が突如響く。

 そしらは予想通りぎょっとしてくれた。

 おごってくれるのか、と言ってそいつは笑う。干し大根のようにしなびた老人がいつの間にか向かいの席に座って、甘いコーヒーを物欲しそうに見つめている。どうぞ、と勧めて本題に入る。

「久しぶりです、お爺さん。ちょっと老けました?」そしらが目を丸くしてこちらを見る。あたしだって敬語くらい使えるわよ、失敬な。

「寄る年波には勝てんね。マスコット化っていうのかな。儂を恐れる人間なんてほんの少しもおらん。漫画やら何やらでまたブームになればええが……お嬢ちゃん、描いてくれんか?」

「え……えっと……」

 そしらが困っているのを見て、元の話題に戻す。

「聞きたいのは最近この辺りで広まっている変な噂についてでして。誰が流しているか、それと要石の場所です」

「どれのことかな……?」

「マスク、妖怪」

「あ……あれね……」

 皺の深く刻まれた顔を歪ませて、周りに聞こえないようにずいと乗り出して片手をメガホンのように口に当てる。


「僕さ」

 目の前のコーヒーが爆発し、熱風が喫茶店をくるんだ。

「わお。まさか爆発の衝撃をすべて喰らい尽くすなんて。面白いなあ、いつから気づいてた?」

 落ち着き払って奴は尋ねる。あたしは唯一残った座席から立ち上がり、睨みつける。そしらへの爆風はあたしが消したが、そしらは腰が抜けているようだ。

「最初から。爺さんはおごりかどうかなんて気にせずにすぐに口をつけるほど図太いのよ。あたしの敬語に何のツッコみもなかったし」

なるほどしまったなあ、と言いながら、鼻をぐしゃりとつまんでマスクを投げ捨てる。青い血の乾いた裏面がおぞましい。奴は余裕たっぷりにぽりぽりと頭を搔いた。呑まれるな、と自分に言い聞かせる。

「爺さんから顔を奪うのには苦労したんじゃないかい? のっぺら坊」

「そうでもなかったよ、口裂け女」

「なんでこの場所に姿を現せた?」

 突然の出現は透明化解除だろうが、あたしの居場所が判っていないとここにいる説明がつかない。

「内緒さ。口が裂けても言わないよ」

 日は落ちた。あちこち焼けているのに、炎の弾ける音はしない。サイレンもない。嘘のように静かな町の一角で対峙する。

「好都合ね、黒幕が出向いてくるなんて」あたしはマスクを外す。

「好都合だな、邪魔者が来てくれるとは」あいつは白手袋を脱ぐ。

 空は深い藍色をたたえ、早めに沈みかけている太陽のわずかなオレンジは無くなりかけている。 


          ●

 ひたひたと雨漏りする廃工場。知らないうちに自分の机の引き出しに入っていた招待状を片手に、私は震える膝の皿をなだめようとしていた。寒いからではなかった。

 季節外れの袴と下駄を身に着けたそいつに顔はなかった。しかしその穏やかかつ存在感ある声が反響した。なんとなく、もういない父を想起させる声だった。そいつはのっぺら坊と名乗り、本題に入った。

「明日はいつも通り一人で下校してくれ。ある赤い女性が話しかけてきたら成功。ダメだったら成功するまで毎日続けて」

「そうすれば……」

 のっぺら坊は首を縦に振った。

「お望み通り顔をなくしてあげる。死ぬのが怖いから消去法的に生きてきたんだろう? 僕の手にかかれば、生きながら全くの別人になれる。僕の『顔を操る能力』なら、一度触れた人の容姿を他人に移せる。君はハリウッドスターにも浮浪者にも平均を極めた人にも、完全に生まれ変わることができるんだよ。顔は人生そのものだからね。これで目立ちたくなくて休日でも地味な服を着たり、あえて学校から遠い方のファミレスに行ったりする日々ともおさらばさ!」

 例がいやに俗っぽいな。しかし、それは夢にまで願った望みだった。どれだけ私をアレンジしても、私はどこか私でしかない。私は私を脱して、表面だけで思い悩んで人生を歩んでいくんだ。今の人生から忽然と消えて、どこか知らない街へ……。のっぺら坊は、まさに救世主そのものだった。でもこれだけは言っておかなくては。

「ひとつ条件があります」

 ん、と首をかしげる。

「あなたが何をしようとしているのか、私には判らないし聞くつもりもありません。でも、他人に迷惑はかけないでください。私はどうでもいいんです。でも人に迷惑はかけたくありません」

「面白いなあ。良いよ。任せた」

 そういうと彼は私の頭を撫でた。表情は判らなかったが、たぶん笑っていると思った。

 

 あの爆風で、最初から何もなかったかのように店は消えた。机も、コーヒーミルも、ごつい顔のマスターに似合わない丸眼鏡も。私たちが座っていたソファと、マスターだったものだけが残っている。

 見たところ損傷はまるでないが、命が拭い去られているのは目に明らかだった。

 私のせいだ。私があいつと契約したから。私が口裂け女を連れてきたから。

 指示からするに、あいつの狙いは口裂け女。あの時、あいつは私の頭に触れた。人間の私には判りようもない方法で、口裂け女と接触したら場所が分かるように私にマーキングを施したのだろう。

 柔らかいソファにどこまでも沈んでいくように、全身の力を抜いていく。私は私に、生きていてほしくない。


          ◓

「ちょこまかちょこまかと!」

 跳躍し、回転しながら何度目かの赤いヒールを振り下ろす。のっぺら坊は表情を変えず掌で受け止めようとしてきたから、膝を曲げて踵落としをキャンセル。勢いそのままに地面を蹴って接近して大顎を開く。厄介な手と急所の首の両方を狙うが、既にもう片方の掌が待ち構えていたので慌てて進路を変える。もどかしさのあまり単調になっている悪循環を自覚した。のっぺらぼうはくすくす笑っている。

「話をきけい、お若いの‥‥‥ってね。今日は警告しに来たんだ。何も殺しあおうなんて思っちゃいない」

「先に仕掛けてきたのはそっちじゃない」

「そりゃ殺そうと思ったからね。殺すのはいいけど、殺されるのはまっぴらごめんだ」

 おめでたい奴だ。一番嫌いな、アンフェアなタイプ。時間が得られたのをいいことに、こっそり息を整える。

「お嬢さんには二つの道がある。一つは噂を放っておく道。同時に自身の強化をしばらくの間諦めるってことでもあるね。僕はこの方が賢明だと思うよ。待てば栄光が訪れるんだから。もう一つは僕に殺される道。お勧めできないね。あの噂を作った時点で君と敵対することは判ってたが、僕の平穏に君はいらない。気は進まないけれど、躊躇うことはない」

「平穏? 出会い頭に霊力を爆散させてくる奴は言うことが違うわね」

 のっぺら坊は無視して続ける。

「コロナ禍は良かった。僕もマスクと長髪ウイッグをつけたら、人間社会に紛れるのは造作もなかった。バスクド窯のクロワッサンは食べたことあるかい? 絶品だよ。店員さんも尊敬できる人間だ。生きる価値がある。それに君にもメリットはある。このまま手を引けばマスク姿で歩き放題なんだよ? いやあ、懐かしいね。あの頃はマスクをした赤い女を見れば、みんな大騒ぎだった。第二の人生どころじゃ無かったろうねえ……。失礼、話がそれた。ね? お互い悪くない話のはずだろう?」

 世間話をするように軽い口調でのっぺら坊が喋る。もうないはずの心臓が冷える。こいつ、あたしの過去を知っている……? いや、関係ない。冷静になれ。

 冷めた頭に、ふと気が付いたことがあった。なにも、こいつを倒さなくてもいいのでは……? 

「あたしが逃げて要石を壊す道を考えなくてもいいの? 確実性は減るけれど、場所は他の情報屋に聞けばいずれ割れるわ。見当もついているし」

 正直なところ、勝てるかどうかは怪しい。戦わずに済むのなら、それに越したことはない。しかし返答はがっかりするものだった。

「それは不可能だ。当然要石には結界を巡らせているし、僕の能力なら結界の綴じ口を完璧に消せるんだ。ああ、コートに泥が跳ねているよ。もうお家へ帰りなさいな」

「そうねえ……なんて」

 赤いヒールの爪先で地面を握るようにして疾風の如く駆け出し、攻撃に転じた。ま、そんなに甘いわけないよね。

「悩むまでもない。後者よ」

 予測されていては手に捕まる。何とかガードを崩さねば。直線的に飛び込むと見せかけて右の塀を蹴り、その勢いを乗せた回し蹴りを繰り出す。しかしすぐさま自分の判断を呪った。奴が既に円弧上にいない。値踏みをするように、左側で首を傾げている。まずい、何をされても避けられない……。しかし予想に反して、のっぺら坊は何もしてこなかった。

「血の気が多いねえ。それなりの速さだけど、生まれながらの妖怪たる僕の敵ではないな。それでも果敢に挑んでくるのは、あそこで腰を抜かしている愚図のためかい?」

 そしらを指す指、へらへらと笑う声。

「生まれながらの妖怪、ね‥‥‥あんた、あたしの過去にずいぶんと詳しそうだね。なんで今攻撃しなかった?」

「作用反作用の法則ってあるだろ? 僕はあれが嫌いだ。嫌な奴を殴ったら自分が痛くなるなんて馬鹿馬鹿しいだろう。じゃあどうするか? 簡単さ」

 のっぺら坊は芝居がかった仕草でぱちんと指を弾いた。

「人にやらせる」

 あちこちから土嚢を引きずるような音がする。凹凸のない真っ青な顔をした人間たちが取り囲んでいることに、全く気が付いていなかった。

「やけにギャラリーが多いわね。照れちゃうじゃない。死体を使うなんていい趣味」

「死体はいい。無理に動かしても、無意識のブレーキが掛からないからねえ」

 恍惚とした声で呟く。傍観者気分か。

 関節が外れて異様に伸びきった腕が、鞭のようにしなり風を切る。急いで地面を大顎で削り、即席の防空壕に身をかがめる。何とか避けるが、うなりを上げて頭上を掠めていくその速さが痛ましい。

「僕の能力は『まっさらにする』能力。ひとたび触れたらいつでもまっさらにできるし、単純に吊り動かす程度ではあるが体の自由を『まっさら』にして生き物を支配できる。死体を生き物って呼ぶのは変かな? さらに」

 死体が周りから一斉に飛びかかってくる。

 危なかった。人間の速さを想定していたらダメだなこりゃ。間一髪で上に脱出したが、さっきまでいた場所を見てぞっとする。死体のなだれ込んだ即席のシェルターは、セメントを流し込まれたように不自然に平らになっていた。あたしと似た能力だけど、削り取るわけではないのか……?

「まっさらにする能力は付与できる。面白いだろ」

「何よそれ、ずるっ!」

 能力の拡大解釈ってやつか。

 のっぺら坊から辛くも逃げた先で人と出会い、助けを求めるとその人の顔も無かったというあの有名な怪談を、ゾンビ映画よろしく解釈するとは。やれやれ、まさしく爺さんが危惧していたタイプじゃないの。避けるだけで精いっぱいで、攻め込む隙が見当たらない。あたしを追い回すしか能がないようだが、人間というよりも隙間さえあれば染み込んでくる濁流のような群衆に呑まれるのは、時間の問題だった。


          ●

 騙された。こいつの能力は顔をいじる程度のものなんかじゃなかった……。うまい話につられて人に迷惑をかけた自分の愚かさが恨めしい。これ以上悪くなりようがないと思っていた気分は悪化の一途を辿っていた。

「そろそろ動けるようになっているだろう、そしら」

 名前を呼ばれ、背骨に冷や水を流し込まれたような感覚を味わう。

「怒ったかい? 仕返ししたいかい? たぶんそうじゃないだろうが、万が一に備えて君の心をへし折っておこうね。君の味方は僕だ」

 穏やかな声が波のように寄せては引く。

「口裂け女。本名、 周

あまね

サキ」

 金縛りにあったように一歩も動けない。さっき生まれながらの妖怪じゃないとか言っていたけれど、口裂け女はもともと人間だったってことか。口裂け女は何も反論しないまま、数多の腕をかいくぐる。喋っている余裕もないようだ。

「妖怪としては新参だ。整形手術の失敗で頬を裂かれてしまい、すべての人間に見放される。良家に生まれた一人娘には、許嫁以上の意味は無かったんだ。醜いってのは罪だねえ……あっさり我が子を捨てた家族もどうかと思うけど。ポマードを嫌うのは執刀医がポマードを愛用していたため。今の子ってポマード分かるのかな? まあ、どうでもいいや。そのまま自殺を選び、死体に付近の魂が宿って、昭和時代後期に岐阜県で突如誕生――面白いだろ」

 息が詰まる。

 自分が世界の中心だと考えている人間は掃いて捨てるほどいるけれど、揺らがない高慢が服を着て歩いている人なんて創作の中だけだ。私は彼女を誤解していた。

 私と口裂け女は、同じだ。違いは死にたくないというちっぽけな恐怖と、環境と、覚悟だけだ。あの口を自分で受け入れるのに、どれだけの月日を要したのだろう。初めて出会った時に、自慢げにマスクを外して見せた口は少しも震えていなかった。

 自信家なんかじゃない。自信家というマスクを、彼女は何年もかけて完璧に作り上げたのだ。マスクといってもあの美しさは、偽物じゃない。偽物すぎて、本物だ。

 私は? 

 私をさいなむ毒に火が付き、燃え広がり、消し炭にする。代わりに現れたのは切な願いと、新たな自意識だった。どうか、勝ってほしい。私もこの顔と生きていきたい。

 しかしその新たな思いは、ほどなく凍らせられることになった。

「能力は『喰らったものをこの世から消す』。ここからが大事なんだけれど、地力が違ううえに僕とは相性最悪だ。だってこの能力って……口がなければどうしようもないよね?」

 弾かれたように立ち上がる。ここまでしゃべくっていたのは、戦闘から抜けて奥で傍観を決め込んでいる袴姿のあいつじゃない。口がないから、その泰然自若とした態度で勝手に決めつけていた。声はあそこから発せられていない。もっと近くから、はっきりと聞こえる。まずい。口裂け女は何とか避けているのではなく、避けさせられている。すべては唯一の動かない死体へ誘導するために。

 マスターのチョッキを着たこいつの脚が、ひゅんと水平に風を切る。両手で地面から跳ね上がり、回転をのせた拳が彼女を迎え入れようとする。


          ◓

 あ、負けた。

 普通の人よりも長かったけれど、大していい人生ではなかったな。

 のけ反れば後ろの死体に捕まる。飛び上がれば着地を狩られる。目の前の攻撃は緩慢だけれど、再び地面を掘ってもどのみち詰む。拳を食べるのと拳をくらうのではどちらが早いだろうか、なんて考えるまでもない。マスターのふりをしていたのか。動かない口に死体の物量とミスディレクション……無駄がない。そりゃ勝てないわ。

 そしらは逃げられたのかな。こんなろくでもない奴と手を組んでいたなんて思いもしなかった。人間ごときにのっぺら坊がこだわるとは思えないけれど、彼女の今後が心配だ。

 おっと、一瞬のうちに思考を巡らせられる極限状態はそろそろおしまいのようだ。走馬灯じゃなかったってことは、あたしはまだ無意識にこいつに勝とうとしているのかしら。真っ白な拳がズームされて……。

「馬鹿!」気が付いて叫ぶ。

 服に着られているような小さな影が、ほほ笑みを浮かべながらあたしと死の間に割り込んできた。何を焦っているんですか、というように生意気に。

「木っ端が、邪魔しやがって……! ――なんてね」

 のっぺら坊はたぶんニヤリとした。

「シナリオ通りだ、人間の子! 最後のピースが綺麗に嵌った! 気弱だった主人公が勇気を振り絞って恐怖を跳ね除ける! 最高だよ、ただし……」

 背筋を凍らせるような無機質な声が、不釣り合いにおどけた台詞を吐く。

「さっき言っただろう? 僕は、反作用が嫌いだ。君の手で口裂け女を消すがいいさ」

 パチンと指をはじく音。そしらの顔の上からは、はじめから何もなかったかのように全てが消えた。二筋の滴が伝うそのまっさらな面が、こちらに突き飛ばされる。

「ねえ、お嬢さん。あんたの敵って……もしかしてこんな顔していませんでしたか?」

 たぶんニタニタ笑っている。


          ○

 迂闊だった。何もしなければよかった。あの人に憧れて、ちょっといいところを見せたくなって、自己犠牲を期待して、結局私が敗因になる。

 頭はやけに冴えていた。眼耳鼻の情報が無くなったからか……? そんなことを考えられるほどに。しかしそれは決して喜ばしいものではなかった。

 何で私がのっぺら坊になっている……? ああ、あの時か。廃工場で接触した時、頭を撫でられた。任意のタイミングで眷属に出来るようになっていたのか。会敵させ、口裂け女さんの位置さえわかれば、あとは触れるもの皆平らにする兵器として処分する。まったく、自身の顔の如く無駄がない。とんだリサイクル精神だ。

 避けて……。見えないけれど、脳に直接イメージが飛び込んでくる。本能で突き出しそうになる両手を、必死の思いで身体に縛りつける。彼女に触っちゃだめだ……。裂けた口の鮮やかな赤の残光が、上に消えていく。日は完全に落ちた。


          ◓

「油断したね。おかげで勝てるわこの野郎!」

 そしらの足元の地面をえぐり取って転ばせる。そしらの身体が弧を描き、鼻先を掠める。倒れたそしらの奥からやっとあいつの顔が覗く。

 そしらの頭上を飛び越え‥‥‥がぶり。間髪入れず喰らいつく。くくく、と本当に楽しそうにあいつは笑った。

「全ッ然! 届いていないじゃあないか! 後ろの死体を忘れたかい? 僕の勝ちだ!」

「届かないからいいのよ!」

 叫びながら、近づいてくるその顔のど真ん中へ拳を叩きこむ。

 解釈の拡大解釈。あたしが食らったものは、何であろうとこの世から消せる。

「なん……で……僕の身体が……吸い寄せ……られて……」

「あたしが喰らったのはあたしとあんたの間、空間そのもの! じっくり味わえこのカスが!!」

 振り抜く拳がまっさらな顔面にめり込んで、塀に叩きつける。背後の死体も糸の切れた人形のように倒れ、辺りは再び静寂に包まれた。




「そしら! 目ぇ覚ましなそしら!」

 煌々と照らすガス灯の下、気を付けの姿勢でうつぶせになって倒れているそしらを揺さぶる。

「……起きています。判らないかもしれませんが」

 ひっくり返してみて息を呑む。そしらの顔は、再び動かなくなった他の亡者と同じくパーツを失ったままだった。顔の凹凸のすべてが肌色のセメントに埋められているようだ。

「畜生、そりゃそうか。本体を倒せば能力まで消えるんなら、継ぎ目をなくした結界の話なんてするわけがなかった」

「結界を喰い破ることはできないんですか」

 話題が急に変わり、しばし脳が混乱した。どうして自分のことを棚に上げられるんだ。

「いいんだよ。自分の心配しな」

「できるんですか」

 頑として譲らない声に、仕方なくふっと息を吐いて答える。

「できない。張った本人が解かない限り、他のいかなる力も弾かれちまう。ま、弱まるのを気長に待つとするよ。あたしは人間よりも寿命がちょっとばかり長いからね」

 あっけらかんと聞こえるように言った。そしらは、そうですかとぽつりと呟く。変に気にしないでくれると良いのだが。

 嘘をついた。いつまで経っても、ほころびのない結界が弱まることはない。大妖怪に返り咲くという当初の目的を果たすことができず、残念ではある。ひと噛みで景色を変えていたあの頃にはもう戻れない。それどころか、目覚めたら消えているかもしれない恐怖とともに寝つき続けなければならないのだ。しかし悔やんではいない。溜飲は下がり、気分は意外と悪くない。弱い能力を最大限に駆使するキャラクターは格好いいし、ここらで転換もありかしら。

 ……ん? 弱いまま……ってことは……!

「そしら!」

「ひゃいっ」 急な大声にびくついた。

「あんたには二つの道がある。一つはこのまま妖怪として生きていく道。あたしもハウツーを教えられるし、のっぺら坊はさっきあたしが喰ったから商売敵もいない。悪くない話だと思う。あんたには度胸が足りないかもしれないけれど。もう一つは、人間として生きていく道。もっと度胸が要る。あんたにとっては酷な話かもしれないけれど……でもあるんだよ、顔を取り戻す方法が! 全盛期に戻れなかったからこそ! あ、でも……」

 言い淀んだが、そしらの返答に時間はかからなかった。

「悩むまでもない、です。よろしくお願いします」

 声は確かに、未来を覚悟した芯あるものだった。死ぬのは道じゃない、なんて付け加えるまでもなかった。むしろ失礼ね。

「やっぱり、あんた嫌いじゃないわ」

 下顎の中切歯を使って額から首にかけて輪郭をがりりと削る。健康的なピンクの肌が覗き、安堵する。

 即席の防空壕に顔のない群衆がなだれ込んできた時に感じた違和感。

 触れたものをまっさらにするのなら二パターンが考えられる。一つはトンボを掛けるように、表面の凹凸を完全に削り取ってしまうもの。しかしそうでないとすれば‥‥‥のっぺら坊の能力は、ある種あたしの正反対だ。

 補填。本当にパーツをなくしてしまうものではなく、上からまっさらな仮面を被せるようなものだったらしい。

 鼻筋は犬歯で細やかに鋭く。鼻の頂点から口にかけては、接吻するように横から入り、大きめに齧ってから整える。脱力しつつ首へと牙を運ぶ。耳を掘り出すのには神経を使ったが、なんとかやりおおせた。若干血がにじんでいるが、本人は気が付いていないようなので言わない。残しておいた眼を丁寧に取り出したころには夜はとっぷりと暮れ、あたりを月と街灯のみが照らしていた。

「私の顔……」

 そしらはスマホの内カメラをそろりと起動し、泥だらけの手でぺたぺたと顔を撫でまわし、そこに確かな凹凸があるのを確認すると微笑んだ。

「うん、さすがあたし。美術の才能もある。ちゃんと作ったつもりだけれど、眉毛は無くなったし耳も欠けちゃったわ。気に入らなかったら後ろ側にも顔を彫ってあげるわよ。二口女みたいに」

 そしらはふふっと声を漏らした。ああ、本当に可愛いな。

そしてしばしの静寂が訪れる。

「じゃ、そろそろお別れね」

 あたしは妖怪、この子は人間。そこの線引きを曖昧にするつもりはない。明日からはお互いに、別の問題で頭を悩ますのだ。

「ありがとうございました」

「なんであんたが礼を言うのよ。内輪もめに巻き込んじゃって、ごめんなさいね」

 手を差し伸べて立たせる。それじゃ、と手を上げてくるりと背を向ける。あの、とそしらがおずおずと呼び止めた。

「美しさってなんですか。醜さをなくしてできたのが私です。しかし、どうもこれは美とは違うようで」

 少し考えてから振り向き、過去のあたしに慎重に口を開く。

「たぶんもう判っているんでしょう。花はその形もサイズも色も様々なのに愛でられる。美のイメージ自体は湧かないのに、誰だって美しいものを見ればそれが美しいとすぐに判る。共通項は、たぶん生きているみたいに生きていることよ。対称だとか非対称だとかに関係なく、見事な建築物は世界中にあるけれど、建築家や大工の命がみてとれるから美しい。山や海が美しいのは命にあふれているからよ。星が綺麗なのも、寿命があるからよ。命を感じると、あたしたちは美しいと言うのよ。美しくあろうとする命が美しいのよ、きっと」

 そしらが言葉を咀嚼し、噛み切れなかった塊を無理に飲み込むように頷くのを見届けた。

 これでいい。あたしは決断が早すぎたのかもしれない。背を向けて、今度こそあたしは姿を消しながら久々に大股で歩み始めた。

 あたしは口裂け女。今日も今日とて妖怪である。


          ●

「あら、いらっしゃい」

 来客は珍しい。誰でも歓迎なんて呼びかけをしても、結局ここに来るのは少数派だ。

「なんでも話を聞いてくれるって、マ……本当すか」

 校則で禁じられているはずの金髪はきちんとセットしてある。学校指定の鞄はボロボロで、とても教科書が入っているとは思えない。唇の血が痛々しく歪に固まっている。普段から授業に出席せず他校の不良とつるんでいる生徒というのはこの子か。

「いや、やっぱ何でもないっす。ササイなことなんで」

 言うが早いか、くるりと踵を返してしまう。

「待って。あなたの話を聞きたいの。紅茶でいい? ミーコでも良いわよ」

「ミ‥‥‥? ‥‥‥なんすか、それ」

 くたびれたソファに座って、しばらく大切なことやくだらないことを話すとその子は帰っていった。特別なアドバイスはできないけれど、誰かの拠り所になれたなら。大変だけれど、私はこの仕事を気に入っている。

 私、綺麗ですか。あれからずっと会えていない人を想って問いかける。

 生意気ね、というように、滑り出し窓から吹く春風が優しく頬を撫でた。

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