小夜啼鳥は歌う。

水玉猫

墓場鳥

 男は悲しかった。悲しくてたまらなかった。

 あたり一面焼け野原だ。火はまだ至る所で、くすぶっている。

 星も月もない夜の中を焼けただれた真っ黒な残骸を片手で引き摺って、男は歩いていた。残骸には広げたままの大きな翼があった。翼をたたむ合間も無く息絶えたようだったが、その手は男の左手と固く結ばれていた。



—— 逃げればよかったんだ。くそったれなこの世界から。こんなことになる前に、こいつとふたりで、さっさと地の果てまで逃げれば良かったんだ。



「—— さま」

 鈍い音がして、背後で名を呼ぶ声がした。

 男は立ち止まり振り返った。残骸から右の翼が捥げ、瓦礫の間に転がっていた。熾火が獲物を見付けた蛇のようにくびをもたげ、チョロチョロと赤い舌を伸ばしている。


「そんな運び方をなさっちゃ、墓場に着くころには何も残っちゃいませんぜ」


 褐色の布で両目をおおった見窄らしい身形みなりの墓掘り人は、嘲りとも同情ともつかぬ声で言った。嘲笑にも憐憫れんびんにも慣れていない男は自尊心をひどく傷付けられ、掠れた声で毒突いた。


「出過ぎた口を利くな、目無しのくせに」

「墓穴の中は真っ暗だ。目なんて、何の役にも立ちませんや」墓掘り人は湿った笑い声をあげた。「旦那を案じていたんでさぁ。あっしを罵る元気がありゃ、先ずは一安心だ」

「馬鹿にするな。墓掘り人ごときに同情されるほど落ちぶれてはいない」

「おふたりとも存じ上げておりますからね。そりゃ、心配にもなりますって」

「黙れと言っているだろう! これ以上、おれを侮るのなら、ただではすまんぞ」

「これからどこへお行きになるおつもりで。墓場なら——」


 墓掘り人は脅しなど気にも留めずに尋ねた。それがいっそう男の癇に障った。


「うるさい。墓場などに行くものか」


 男が吐き捨てると同時に、燠火ヘビの赤い舌が捥げた翼に届き、瞬く間に燃え上がった。炎は翼を焼き尽くし、為す術もないまま白い灰に変えた。

 餓えた燠火ヘビの次の獲物は男の手の先の残骸だった。炎の舌がチリチリとまとい付くと、片翼になった残骸は抗うような音を立てた。

 男はカッとなって、火を踏み消そうとした。しかし、燠火ヘビはするりするりと掻い潜り、かつては青年だった遺骸を舐め回している。



—— こいつはおれのものだ。瓦礫の山のヘビになど、これ以上いいようにさせてたまるか。



 躍起になった男は繋いだ手を振り解いた。ごっそりと皮膚と肉を持っていかれたたなごころには白い骨が見えている。血を滴らせながら気が触れたように炎を踏み散らす男の背にも、いつしか漆黒の翼が広がっていた。

 燠火ヘビは男の翼を見て取ると、退き際を悟ったらしく瓦礫の中に戻って行った。

 それでも、男はやめようとはしなかった。両の翼の間で結んだ髪が解け、まるで自らを縛る鎖のように彼の翼に絡んでいく。



—— おまえは、こんな姿ではなかった。こんな真っ黒な残骸が、おまえであるはずはない。


 

 焼けただれた羽根を踏み砕くたびに、男の脳裏に青年のしなやかな肢体や純白の翼が蘇っては消えて行った。



—— おまえの翼は一点の穢れもなく煌めいていた。いつだって、おまえが翼を広げると、おれは胸が痛くなるほど眩しかった。



 しかし、その澄んだ瞳の奥には黒曜石の小さな欠片が潜んでいた。艶やかで鋭利な悪の欠片が、混じり気のない純粋さの中に紛れ込み、男が気付くのを待っていた。

 そして、男がそれに気付いたときに全てが終わり、青年は変わり果てた姿となった。


「旦那方は、もうどこへも行けやしませんぜ。墓場以外には」


 墓掘り人はつぶやき、歌い始めた。身形みなりに似合わず、とても美しい声だ。それもそのはず。彼の通り名は、墓場鳥ナイチンゲール。弔いと愛を夜に歌う鳥だ。


 天から雨が降り始めた。


 男は己が踏み崩いた遺骸の中にがっくりと膝を突いた。目の前の青年の手だけが、まだ辛うじて形を残していた。最後まで男と繋いでいた手だ。

 聖なる雨に打たれながら、男は肉がえぐれた手をその手に重ねた。

 男の翼が雨に解けて、やがて、全てが消えて行った。





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