第4章 愛はお金で買うものですか?
第31話 もしも彼女が変な気を起こせば、その時は俺が呪い殺す
「……本当に、私も?」
「当たり前でしょ、私の
ニヤリと笑ったエステルに、マイヤー女史はヒクリと頬をひきつらせた。
エステルに渡された小瓶の中にはトロリとした透明の液体。マイヤー女史がそれを小さなスプーンですくいとって、唇に塗布する。
プランパー、三十七番目の試作品だ。
マイヤー女史が唇に塗り終わったのを確認してから、エステルも自分の唇に試作品を塗った。
成功すれば、ぷっくりとふくらんだ可愛らしい唇が出来上がるはず。
だが、数分後に出来上がったのは。
見事なたらこ唇が二つ、だった。
侍女とは、貴婦人に付き従い、着替えの手伝いや宝飾品の管理、外出のお供などをする女性を指す。
メイドなどの使用人とは明確に線引きをされており、世話人というよりも秘書に近い仕事を担う。
貴族階級出身の令嬢や未亡人などが務めることが多く、通常の使用人に比べて破格の報酬を支払う必要があるため、普通の貴族が侍女を雇うことはそれほど多くない。
しかし、エステルは公爵夫人だ。
これまでも侍女を雇用する話は何度か持ち上がったが、エステルが面倒がって全て断っていた。
そういうわけで、空いている侍女の席にマイヤー女史を据えることにしたのだ。
ただし、マイヤー女史は罰としてエステルの侍女になったので、報酬は雀の涙。
さらに『休みなく彼女に付き従うこと』、『彼女の命令には絶対に従うこと』など、様々な条件を付けられている。
実験に付き合うのも侍女の仕事だと主人に命じられれば、彼女は断ることができないのだ。
「……これは、治るのですか?」
鏡を見て、マイヤー女史は顔を青くした。
その隣では、テディが二人の顔をじっくり観察しながら状態をメモしている。
「二三日もすれば」
「治るまで、この顔で過ごすのですか?」
「そうよ」
あっけらかんと言い放ったエステルに、マイヤー女史が口をへの字に曲げる。
への字に曲がったところで唇は、たらこ。
そのおかしな顔に、エステルはぶふっと吹き出した。
「笑っておられますけど、奥様も同じお顔ですよ」
「おそろいね。嬉しい?」
「まったく」
マイヤー女史はぶすっと唇を尖らせた。
それを見て、またエステルが腹を抱えて笑う。
「心配するな。この薬を塗れば、一日二日で治る」
テディが魔法薬を差し出すと、マイヤー女史は複雑そうな表情を浮かべてそれを受け取った。
『二三日』が『一日二日』に減ったところで、たいした違いはないだろうと言いたげな表情に、テディが肩を竦める。
「悪いな。なかなか調整がうまくいかない。だが、二人の協力のお陰で新しい調合を思いついた」
「それじゃあ、すぐに次の試作品ができる?」
「そうだな。数日中には」
「よろしくね」
マイヤー女史は『まだやるのか』という感情を隠しもせずに、眉をしかめている。
「レイチェル」
名を呼ばれて、マイヤー女史がさらに眉間の皺を深くした。
エステルは彼女を侍女として雇うようになってから名前の呼び方を改め、ファーストネームで呼んでいる。
それを聞くたび、彼女は複雑そうな表情を浮かべ、それを見たエステルが楽しそうにほくそ笑む。
「お茶のお代わりをお願いできる?」
「承知しました」
マイヤー女史は複雑そうな表情を浮かべながらもきびきびと動き、お茶のおかわりを取りに温室から出て行った。
きびきびと仕事をしているが、いかんせん彼女の唇はパンパンに腫れているため、すれ違った騎士やメイドがぎょっと目を剥いている姿が見えた。
また、エステルが笑みをこぼす。
そんな彼女の表情を見て、テディが呆れた表情を浮かべた。
「どうかしている」
「え?」
「自分を誘拐した挙句、男を使って凌辱しようとした相手だぞ? それを侍女として雇うなど」
同じことを既に多くの人からも言われているらしく、エステルは辟易した様子で肩を竦めた。
ただし、彼女の夫は相変わらずで。
彼が『君が望むなら』と言って、一も二もなく了承したため、この話は早々に決着したとテディは聞いている。
「貴婦人の誘拐罪だ。平民なら、即刻打ち首だぞ」
「そうねぇ」
「彼女は貴族だから、田舎の修道院送りが妥当だが」
それは、貴婦人にとって最も重い刑罰だ。
刑罰として修道院送りになった女性は、二度と修道院から外に出ることは許されない。
鉄格子のはまった狭い部屋で、昼間は針仕事などの内職を強制され、夜は遅くまで神に祈る生活を送る。
死ぬまで、だ。
「彼女が反省するなら、それでもいいけどね」
テディが首を傾げた。
修道院に送られた女性は、強制される労働と祈りをもって自分の罪を省み、戒めるものだ。
首都の公爵邸という華々しい場所で公爵夫人の侍女として働くことよりも、よほど反省を促すことができるのではないか、とテディは考えたのだが。
「いま彼女を修道院に送ったって、私を恨んで呪って、怨嗟を抱えたまま死ぬだけ。反省なんかしないわよ」
女とはそういう生き物だと言いたいのだろう。
「そんな効果があるかどうかも分からない罰なんかより、大っ嫌いな女に命令されてあくせく働かされて、悔しそうな顔してるのを眺める方がいいじゃない!」
「……そうか?」
罰は罰だ。
罪を犯した当然の報いであり、その結果、醜い死を遂げるならば、それが相応だ。
だが、エステルの考えは違うようだ。
「被害者である私が彼女に望む罰はこれなの。だから、これでいいのよ!」
確かに、彼女がいいと言うなら、それがすべてだ。
それに彼女の言うことも分からないわけではない。テディも花街を知っている人間。彼女らの性質は、なんとなく理解できる。
もしもマイヤー女史が自分の行いを心から悔い、生き方を改める方法があるとしたら。
それは、エステルの側で彼女の生き方を見て学ぶことだけだ。
とはいえ。
エステルの安全は確実に守られなければならない。
「もしも彼女が変な気を起こせば、その時は俺が呪い殺す」
「物騒なこと言わないでよ!」
テディは素直に思ったことを言っただけだが、エステルはそれを聞いてげんなりした。
「イアンも似たようなこと言ってたのよねぇ。……これだから男は」
ぶつぶつと文句を言うエステルに、テディが苦笑いを浮かべる。
おそらく、彼女は自分の言葉の深くにある真意に気づいていない。
(だが、それで構わない)
彼女に真意を明かすつもりなど、彼には微塵もないのだから。
(あの、遊び人の男も……)
彼女に本当に気持ちを告げることは、生涯ないだろう。
それが、正しい。
テディはチクリと痛む胸を、知らず知らずのうちにギュッと握りしめていた。
* * *
リリー・ホワイト商会は、それからも順調に業績を伸ばしていった。
この冬からは、貴族相手に高級志向の化粧品を流通させる傍ら、それらのノウハウを元に開発した廉価版を平民の街でも売るようになった。
やや高値ではあるが、商家の娘の小遣いでも手が届くハンドクリームや美容液は、あっという間に評判になった。
さらに、今や市民の憧れの存在であるグレシャム公爵夫人がプロデュースし、花街きっての人気娼婦である『幸運のルビー』クラリスも愛用しているという宣伝文句に、人々は熱狂した。
ところが、春を迎える少し前。
これらの事業は足踏みを余儀なくされることになった。
* * *
まもなく冬が終わる。
そんな予感を感じさせる、うららかな午後。エステルのもとに一羽のカラスが飛んできた。
カラスの首にはテディの杖と同じ、虹色の宝石をあしらったブローチが下がっていたので、すぐに彼の使いだと分かった。
だが、彼がこうした魔法使い
(嫌な予感がするわね)
カラスが運んできた手紙を開封する間、エステルの胸がドキドキと音を立てた。
こういう時の予感は、たいてい当たってしまうのだ。
『花街デ疫病、封鎖サレタ』
走り書きの、メモのような手紙だった。
だが、それだけで十分だった。
状況は、最悪だ。
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