第3章 人の価値は身分や育ちで決まる? そんなはずないでしょ!
第21話 どうしてこんなに胸が痛むのか。
「彼女とは、いずれ離婚するつもりだ」
扉の向こうから聞こえてきた冷たい声に、エステルの背筋が震えた。
メイドたちから『公爵家の親族から教育係が送り込まれてきたみたいです!』と教えてもらい、エステルは『受けて立つ!』という気持ちでこの書斎までやって来たのだが。
扉のノブに手をかけたまま、彼女は動けなくなってしまった。
その様子を、執事長が心配顔で見ている。
中の会話は、彼にも聞こえたはずだ。
いや、彼はクライドの側近。おそらく、彼が考えていることは以前から知っていただろう。
エステルだって知っていた。
彼が離婚するつもりなのは。
あの夜も、はっきりとは明言されなかったが、彼は『エステルの同意があればすぐにでも離婚する』と言った。それはつまり、彼の方は離婚するつもりがあるということだ。
今更、だ。
それなのに。
どうしてこんなに胸が痛むのか。
エステルは、ドクドクと痛みと共に拍動する胸を押さえて俯いた。
「奥様……」
執事長の気づかわしげな声に、エステルはパット顔を上げて。
「大事なお話をしているみたいだし、私は失礼するわ」
口早に言って、エステルは早々に退散したのだった。
もやもやした気持ちを抱えたまま部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、ちょうどイアンがやって来た。
「やあ、エステル」
いつものように気障っぽい笑顔を向けてくるイアン。そんな彼の顔を見ると、無性にホッとした。
「ごきげんよう、イアン」
エステルも、いつものように挨拶を返した。
だが、もともと人の感情の機微に敏感な彼のことは誤魔化せなかった。
「何かあったの、エステル?」
「え?」
「なんだか、いつもより気が抜けてるよ?」
「そう、かしら?」
「うん。……ちょっと、庭を歩こうか」
イアンに誘われて、二人は庭に出た。
公爵家の庭は広大で、どこもかしこも手入れが行き届いている。
今は秋咲きのバラが見ごろだ。
「これはグレーテル。こっちはアシュラム、シュペールバルク。ああ、フレンチレースも咲いているね」
イアンが教えてくれる花の名前をぼんやり聞きながら、エステルは彼に手を引かれて庭園の中を進んだ。
しばらく進むと、エステルのお気に入りの場所に到着した。バラに囲まれる白亜のガゼボだ。
イアンやテディと内緒の話をするための定番の場所でもある。
エステルを座らせてから、イアンはメイドから茶道具と茶菓子の乗った盆を受け取った。
優秀な公爵家のメイドたちは、二人が庭園に向かったのを見てとって、すぐさまお茶の準備をしてくれていたのだ。
「今日は僕がいれてあげるね」
お客様に、しかも男性にお茶をいれさせるなんて失礼極まりないが、彼の方はなんだか嬉しそうだったので、エステルはそのまま任せることにした。
妙に慣れた手つきだ。
(女を口説く時、こうやってお茶をいれてあげるのね)
きっとそうに違いない。
女は自分だけに優しくて、かいがいしく世話を焼いてくれる男がけっこう好きなのだ。
イアンが入れてくれた紅茶を一口飲むと、エステエルの荒んでいた心もいくばくか落ち着きを取り戻した。
「で? 何があったの?」
「……今日、レイチェル・マイヤーという人が来ているのよ」
その名を聞いた途端、イアンの表情が歪んだ。
「うわぁ」
家の中で羽虫を見つけた時のような表情だ。
「知ってるの?」
「もちろん。クライドから話を聞いてるし、あちこちから噂話も聞くよ。マイヤー女史は優秀な家庭教師だけど、すっごく厳しいって。その上、すっごく嫌なカンジなんだって!」
なるほど、とエステルは頷いた。そんな彼女に、イアンが眉を寄せる。
「彼女に何か言われたの?」
この問いには首を横に振って答える。
「私はまだ会ってないの」
「うん?」
不思議そうに首を傾げるイアンに、エステルは一つ溜息を吐いた。
「旦那様がね、彼女に話しているのを盗み聞きしちゃったのよ。いずれ離婚するつもりだから、私に教育は必要ないって」
顔を俯けてしまったエステルに、イアンはまた首を傾げた。
「どうしたの? クライドが離婚するつもりだってことは、前から知っていたでしょ?」
あの夜の出来事についてはイアンにもかいつまんで話してある。だからもっと稼ぐ必要があるのだと言ったら、彼は腹を抱えて大爆笑していた。
クライドが『いつか離婚する』と考えていることは、以前から把握していた『事実』であり、二人の共通認識だ。
今更それを聞いてショックを受けるなんて、イアンが不思議に思っても仕方がない。
「私にも分からないのよ。今更、なんでこんなに動揺してるのか……」
エステルがポツリと告げると、イアンも複雑そうな表情で黙り込んだ。
そして、
「……なるほどねぇ」
と、つぶやき、じっとエステルの顔を見つめる。
「クライドが君や僕に話すのと、外の人間に話すのとじゃわけが違う。だから、ショックだったんじゃない?」
「え?」
「公爵家の親族とつながりのある人に『離婚します!』って宣言したってことは、すぐに噂が広まっちゃうよ。だから、焦ったんじゃない?」
『焦り』
そう言われれば、確かにそれが原因のような気がしてきた。
人は焦ると胸がドキドキする。エステルにも、もちろん経験がある。
(でも、この胸の痛みは、それとは少し違うような)
そんな気もしたが、考えたところで仕方がないことだ。
「うん、そうね」
エステルはイアンの言う『焦り』で動揺していたのだと、納得することにした。
少し表情が晴れて、笑顔で頷いたエステルにイアンも嬉しそうに頷く。
「マイヤー女史のことは、クライドに任せとけばいいよ。適当に追い返してくれるさ」
「でも、いいのかしら?」
「いいの、いいの。あんな人の教育を受けたら、エステルがいくら強い女の子だっていっても、まいっちゃうよ!」
「そこまで?」
「うん。何人もの令嬢や令息を泣かせてきた人なんだから……」
イアンが低い声で言うので、エステルはゴクリと喉を鳴らした。
(だけど……)
焦りが落ち着いて冷静になってくると、少しずつ状況が分かってきた。
マイヤー女史は親族からの依頼で派遣されてきた家庭教師だ。
つまり……。
「もしも彼女に認められたら、親族から公爵夫人として認められることに、ならない?」
エステルの問いに、イアンは顔をしかめてから、渋々といった様子で頷いた。
「まあ、たしかに。そうとも言える。……というか、間違いない。マイヤー女史の淑女教育をこなしたとなれば、社交界でも一目を置かれることになるし」
でもね、とイアンは続けた。
「彼女の淑女教育を最後まで受けられた令嬢は、ほんの数人! ほとんどの人が途中で音を上げるんだよ!」
エステルはうっと言葉に詰まった。
そんな人の教育など、エステルだって好き好んで受けたいわけではない。むしろ、避けられるものなら避けて通りたい。
だが。
エステルの身体がブルリと震えた。
恐怖ではない。
──武者震いだ。
「私の目標は離婚しないこと。……そのために外堀を埋める努力をするのも、悪くないわよね?」
ニヤリとほほ笑んだエステルに、イアンは呆れた表情を浮かべてから、
「……そういうとこ、ほんと好きだなぁ」
と、エステルにも聞こえないような小さな声で呟いた。
* * *
エステルとイアンが屋敷の本館に戻ると、ちょうどマイヤー女史が客室に案内されているところだった。
それに付き添っていたクライドは、二人の顔を見た途端、眉間に深い皺を寄せた。
マイヤー女史とエステルを会わせるつもりがなかったのだろう。
「ごきげんよう、マイヤーさん」
エステルがにこやかに挨拶をすると、マイヤー女史は片眉をピクリと上げてから、優雅な仕草で膝を折った。
「お目にかかれて光栄です、公爵夫人」
二人の淑女が挨拶を交わしている。
たったそれだけの、ありふれた光景なのに。
まるで、真剣による競技試合のような緊張感が走った。
「私のためにわざわざお越しいただき、恐縮ですわ」
「何をおっしゃいます。公爵家の繁栄のためでございます」
マイヤー女史のセリフを言葉通りにとってはいけない。『お前のためではない、公爵家のためだ、調子に乗るな』と言いたいのだと、エステルにはすぐに分かった。
(なるほど、これは手ごわそうね)
エステルは彼女の嫌味にもめげずに、ニコリとほほ笑んだ。
「ええ。公爵家のために、どうぞよろしくお願いいたします」
もちろん、彼女の言葉もそのままの意味ではない。『家庭教師ごときが公爵家の未来を語るな、私は公爵夫人だぞ』である。
マイヤー女史の頬がヒクリと引きつる。
それを見て、エステルはさらに笑みを深くした。
(絶対に、認めさせてやるんだから!)
女二人の静かな戦いを前に、イアンはニヤリとほほ笑んだ。
(これは、いい勝負になるかも……!)
対するクライドは、表情を引きつらせて固まることしかできなかったのだった。
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