第20話 どうしてこうなった。
何度も夢に見た光景だ。
彼女が、自分の寝室にいる。
しかも、昼間のドレス姿ではない。
白いレースがふんだんに使われたネグリジェ姿だ。ふわふわと薄いシフォンの素材を重ねたスカートは、わずかに透けているような気がする。
もちろん直視できないのではっきりしたことは確認できないが。
さらに彼女が動くたびに、ふわり、ふわりと、甘い香りが漂ってくる。
だが、現実は夢のようにはいかない。
頬は上気して、はちみつ色の瞳がわずかに潤んでいて。
そんな彼女がささやくのは愛の言葉……。
では、なかった。
「あなたの愛を買わせてください!」
どうしてこうなった。
クライドは、頭を抱えた。
* * *
エステルは根気強く待った。
金貨と自分の顔を見比べてから、頭を抱えて黙り込んでしまったクライドからの返事を。
ややあって、クライドが深く息を吐いた。
「君は、いったい何を言っているんだ?」
地の底を這うような低い声だった。
どうやら彼は怒っているらしい。
だが、なぜ彼が怒るのか思い当たることがなくてエステルは首を傾げた。
とはいえ、彼に自分の意図が正しく伝わっていないのはよろしくない。
「そのお金で、今夜、あなたの愛を、買いたいのです」
エステルはゆっくりと言葉を切りながら、もう一度説明した。
今度こそ、誤解なく伝わるはずだ。
だが、クライドは頭を抱えたまま、ピクリと肩を動かしただけで、また黙り込んでしまった。
(どうしちゃったのよ)
それほど難しい話ではないはずなのに。
「……頼む。最初から、きちんと説明してくれ」
「最初から?」
いったい何を説明しろというのか。
そこで、エステルははたと気づいた。
「そうでした。ちゃんとお話ししないといけませんね!」
そういえば、大切なことを伝えていなかったかもしれない。
「私は離婚したくないので、あなたの愛を買いたいのです!」
「離婚……?」
「適当な時期に離婚するつもりなのでしょう? あなたがそんな話をしているのを、メイドの一人が聞いていたそうです」
嫁いできてすぐの頃、そんな噂話を耳にした。
だからエステルは離婚を避けるために、夫の愛を金で買うことにしたのだ。
「今さら実家に出戻るのは兄に心配をかけますし、あなたに離婚されてしまったら、次の嫁ぎ先を探すのは至難の業ですから」
絶望的と言ってもいい。
その時には、年老いた貴族の後家に入るか、修道院に入るくらいしか選択肢は残されていないだろう。
それでは兄に申し訳が立たない。
「……なるほど」
ようやくクライドは理解してくれたらしい。
これで誤解は解けた。
「それじゃあ!」
エステルは一歩、クライドに迫った。
ベッドは彼の身体の向こう。
このまま、二人してベッドになだれ込めば、今夜のミッションはクリアだ。
さらに一歩迫る。
「まて。頼む、待ってくれ」
クライドが慌ててたたらを踏んだ。
それ、今だ!
エステルは思い切ってクライドの身体を押した。
勢いをつけすぎて、そのまま彼の身体を巻き込んでベッドに倒れ込む。
──ぼふっ。
柔らかいベッドが二人分の体重を受け止めて、つやつやのシルクのシーツが波打つ。
いつかの夜とは逆だ。
エステルがクライドを押し倒す格好になり、二人は至近距離で見つめ合うことになった。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
(で? この後はどうすればいいの?)
ベッドになだれ込むことには成功したが、そこから何をどうすればいいのか分からず、エステルは眉を寄せた。
男と女がベッドの中で何をするのか、もちろんエステルは知っている。
娼館時代に、ちゃんと教えてもらった。
といっても。
春画を見せてもらった程度のことで、最終的には『男に任せとけば大丈夫よ。それ以上の、とっておきの技はデビューした後に教えてあげるわ』という、なんとも適当な教えだったが。
(とりあえず、服を脱がせればいいのよね?)
エステルがクライドの寝間着の襟に触れる。
すると、クライドの藍色の瞳がギンッと見開かれた。
「な、なにをしている」
「何って、服を脱がないと」
「ぬ……っ!」
今度はクライドの顔が真っ赤になった。
「ちょっと、そんな顔しないでくださいよ」
エステルはぎょっとして、襟に触れた手を離した。
「私がいかがわしいことしてるみたいじゃないですか!」
正に、いかがわしいことをしようとしているのだが。彼女にそんな自覚はない。
離婚したくない、そのために夫の愛を金で買う。
これは、彼女にとってはいかがわしいことでもなんでもなくて、商業活動の延長でしかないのだ。
「……勘弁してくれ」
クライドが両手で顔を覆って、天を仰いだ。
数秒の沈黙の後、クライドの瞳がエステルの瞳を捉えた。
鋭い眼光に射抜かれて、エステルの身体がビクリと震える。
「エステル」
低い声で名を呼ばれて。
また、エステルの身体が震えた。
胸の奥で、熱い何かが暴れ出す。
今度はエステルの顔が真っ赤になった。
「旦那様……」
クライドがエステルの腕を引く。
二人の顔が近づいて、そして……、
クライドは、彼女を投げ飛ばした。
「きゃあ!」
エステルの小さな身体は、あっという間にベッドの端に転がされてしまった。
「なにするのよ!」
文句を言うために顔を上げたエステルの顔に、今度はクッションが投げつけられる。
とはいえ、たかがクッションだ。
エステルはすぐさま視界をふさぐクッションをどかして、顔を上げた。
だが、そこにクライドはいなかった。
「え?」
なんと彼は、この一瞬の間にベッドから逃げ出していたのだ。
「ちょっと、どこ行くんですか!」
背を向けるクライドに文句を言うが、クライドは頑としてエステルの方を振り返らなかった。
「馬鹿なことを言っていないで、さっさと部屋に戻れ」
「どうしてですか! お金なら払いましたよ!」
「そんなつもりで受け取ったわけではない」
クライドはこのすったもんだの間も手に握ったままだった例の宝石箱を、エステルの手に押し付けた。
「金は受け取らない」
「それって……」
「君と寝るつもりはない、ということだ」
ピシャリと言い放ったクライドは、再びエステルに背を向けた。
「君が同意しない限り離婚はしない。約束する。だから、こんなバカなことはやめるんだ」
エステルはグッと言葉を詰まらせた。
それは、彼女の望み通りの約束だと言える。
彼女の望みは『離婚しない』ことであり、彼に『愛される』ことではないから。
離婚しないと約束してくれるなら、なにも心配することはない。
だが。
「それって、私が同意したら、いつでも離婚するってことですか?」
「……その通りだ」
それはそれで困る。
相変わらず、エステルとクライドの立場は対等ではないのだ。
もしも彼が離婚を望めば。
エステルが同意せざるを得ない状況を作り出すことは、それほど難しいことではない。
全面的に安心できるような約束ではない。
「……」
「……」
再び沈黙が落ちる。
クライドの方は、これ以上話をするつもりがないようだ。
(今夜はここまでね)
エステルは小さく息を吐いてから、もぞもぞとベッドから下りた。
『引き際を弁えなければ、男も商機も逃げていく』
お姐さんたちの教えの一つだ。
「分かりました。部屋に戻ります」
エステルは宝石箱を手に、とぼとぼと扉に向かった。
だが、去り際に振り返って、クライドをひと睨み。
「絶対に、諦めませんからね!」
捨て台詞のように宣言してから、エステルはクライドの寝室を出た。
部屋へ戻る道すがら、彼女を憐れむメイドたちの視線が、痛かった。
だが、それでもエステルは胸を張って堂々と廊下を闊歩した。
(必ず、あの人の愛を買ってやるんだから!)
そのためには、もっと金を稼がなければ。
もっともっと稼いで、両手に抱えきれないほどの金貨を差し出すことができれば、きっと彼も断らないだろう!
エステルは明日からはもっと頑張ろうと心に決めて、拳を握りしめた。
「負けないわよ!」
決意を新たにしたエステルだった。
この時の彼女は、数日後には新たな嵐がやって来ることなど、知る由もなかった──。
* * *
数日後、公爵邸にやって来たその人を前に、クライドは内心で深いため息を吐いた。
彼にとって、良い思い出のある相手ではない。
「お久しぶりですね、閣下」
その人は、『厳しい』を絵にかいたような女性だった。
黒髪をひっつめ、メガネをかけ、皺ひとつ寄っていないビシッとした濃紺のドレスに身を包んだ、壮年の淑女。
彼女の名は、レイチェル・マイヤー。
幼少期、クライドに礼儀作法を教えてくれた家庭教師だ。
「急に訪ねていらっしゃるとは、どうされたのですか?」
クライドは、ちらりと彼女の手元を見た。
大きなトランクを片手にやって来たということは、『ちょっと近くに来たから寄っただけ』というわけではないだろう。
「ご親族様からご依頼を受けまして」
レイチェルの言に、クライドの眉がピクリと動く。彼女の言う『ご親族様』とは、おそらく西部の田舎で隠居している大叔母のことだろう。
若くして公爵の名を継いだクライドに何かと口うるさい人で、エステルとの結婚についても苦言を呈する手紙を何度も送ってきていた。
全て無視したが。
そんな目の上のたんこぶのような親族が、レイチェルを寄越した。
となれば、その用件は……。
「奥様は少しばかりお転婆が過ぎるということで。再教育を、と承っております」
嫌味っぽく言ったレイチェルに、今度こそクライドは深いため息を吐いた。
「必要ない」
だが、この返事は織り込み済みだったのだろう。
レイチェルは淡々とした様子で答えた。
「いいえ。必要です。奥様には、公爵家に相応しくない振る舞いは慎んでいただかなければなりません。たとえ、閣下が好き好んでお選びになった女性だとしても。ご親族様は、そのようにお考えです」
つまり、大叔母はこう言いたいのだ。
『エステルは公爵夫人に相応しくない。離婚するか、さもなければ相応しい教育を受けさせなさい』
と。
そのためにレイチェルを教育係として送り込んできた、というわけだ。
彼女に厳しくあたられたエステルが根を上げて、公爵家を去って行くことを狙っているのかもしれない。
(……まったく、見当違いも甚だしい)
また、クライドは深く息を吐いた。
「彼女に教育は必要ない」
「閣下……」
レイチェルはさらに言い募ろうとしたが、クライドがさっと手を上げてそれを制した。
「彼女とは、いずれ離婚するつもりだ」
彼女自身が幸せになるために。
クライドにとってそれは、決定事項なのだ──。
第3章へ……つづく!
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