第15話 どうやら本人だけが理解していないらしい



 エステルは軌道に乗り始めた商売をさらに成功させるための方向性を決めた。


 美容の世界でインフルエンサーになることだ。


 社交界で大きな影響力を持つ人物になって、リリー・ホワイト商会の商品について情報発信するのだ。


 そのためには、女性たちの憧れを一身に集める必要がある。

 いや、女性だけでは足りない。男性も含めて、社交界の憧れの的にならなければ。


 花街のトップに君臨し、『幸運のルビー』と呼ばれるクラリスのように。


 ロールモデルは、すでにイメージできる。

 ならば、あとはやるだけだ。


 エステルは奮起した。


「がっぽり儲けて、なんとしても旦那様の愛を買い取るのよ!」




 * * *




「で、なんでそんな顔になってるの?」


 イアンは今にも笑い出しそうなのをこらえて、震える声でエステルに尋ねた。


「ふむ。やはり配合の加減が難しいな。いや、有効成分の効果を抑えるために他の成分を配合することも考えなければ……」


 その隣では、テディがなにやらぶつぶつ言いながら帳面に何かを書いている。


「……冷やすもの、持ってきてちょうだい」


 エステルはぶすっと唇を尖らせて、メイドに命じた。メイドの方は笑ったりなどせず、気の毒そうな表情を浮かべて、急いで氷とおしぼりを取りに走った。


 さて。

 何が起こっているのかというと。


 エステルの唇が、たらこのように腫れあがってしまったのだ。


 ぷっくりしていてかわいらしい、という程度ではない。

 まさに、美味しそうなたらこが二つ並んで見えるほどに、パンパンに膨れている。


「新商品を試したんだけど、ちょっとこれは……」


 エステルはメイドが持ってきてくれた冷たいおしぼりでヒリヒリと痛む唇を冷やし、頭を抱えたのだった。




 今日は商会の新しい商品について相談するために、エステルとイアン、テディの三人で公爵家の温室に集まっている。


 今日エステルが試したのは、プランパーだ。

 唇を故意に腫れさせて、ぷっくりと立体的に見せよう、という商品だ。


『生まれながらに持っている自分の顔のパーツの形を気軽に変えられる商品』


 エステルは、そんなものがあっても面白いだろうと考えたのだ。これまでに発売された化粧品にはない、新しい発想だ。


 テディに開発を依頼したのだが、どうにも、『唇を故意に、かつ適度に腫れさせる』という加減が難しいらしい。




「なるほど、面白そうだね」


 イアンはサンプルを手に取って感心した。


「君の言うインフルエンサー戦略をとるなら、確かにこれくらいインパクトのある新商品が必要だ」


 彼の言に、エステルも頷いた。

 インフルエンサーとして大きな影響力を維持するためには、次々と目新しいものを発信し、貴族たちの興味を引き続けなければならない。


「成功すれば、大ヒット間違いないと思うんだけどね」


 いかんせん、こんな加減のできていない商品は売れない。


「だからって、君が身体を張る必要がある?」


 これには、周囲でエステルのことを心配そうに見守っていたメイドたちがうんうんと頷いた。


「私たちが代わりますと言ったのですが……」


 メイドの一人がおずおずと言うと、エステルが眉を吊り上げた。


「ダメよ、そんな危ないこと、あなたたちにさせられないわ! だいたい、主人の実験に付き合うのはメイドの仕事じゃないでしょ!」


 彼女たちの仕事は主人の生活の世話なのだ。その分の給金しか払われていないのだから、それ以外の仕事はさせられない、というのがエステルの理論だ。


「まあ、確かに。その通りではある、ね」


 イアンはエステルのセリフに納得しつつ、メイドたちに解散を促した。

 メイドたちはまだエステルのことが心配そうではあるが、主人の仕事を邪魔するわけにはいかないので、渋々といった様子で解散していった。

 去り際、エステルの好きな紅茶や菓子の補充も忘れない。


 この数か月で、メイドをはじめとする使用人たちとエステルの関係性もすっかり変わった。

 彼らは、エステルのことを公爵家の女主人と認め、彼女のことを心から敬うようになったのだ。


「……君ってさ」

「なに?」

「ほんと、良いやつだよね」

「何よ、急に」

「この前のダービージャー伯爵夫人のことだってさぁ、別にあそこまでしてあげる必要、なかったんじゃない?」

「どうしてよ。あれのお陰で、社交界での私の評判は上々よ?」


 地味夫人変身大作戦の成果は上々、エステルは今や社交界の人気者で、毎日のように夜会やお茶会の招待状が届いている。


「私の美的センスが社交界を席巻する日も近いわね!」


 エステルは得意満面だが。


 実は美容やファッションのセンスを認められただけでなく、彼女の人柄に惹かれた人が多いということを、どうやら本人だけが理解していないらしい。


 ダービージャー伯爵夫人にまつわるエピソードは、夫人だけでなく夫である伯爵も深く感謝している、という話だ。


『いつも自信がなさそうに背を丸める妻が、かわいそうでした。どれだけ愛していると伝えても伝わらなくて、だんだん心も離れていったのに……。それが、あんなにも堂々と胸を張って歩けるようになるなんて。公爵夫人には感謝してもしきれません』


 と、話しているらしい。

 ちなみに、伯爵夫妻の関係性も改善し、二人は常に連れ立って歩くようにもなった。


 そういう話もエステルの耳に入っているはずだが。


(夫は妻がきれいになったことを喜んでいる、程度に思っているんだろうな、きっと)


 エステルはなんだかちょっと……、いや、大分、ズレている。

 そもそも、これらの美容グッズを使って夫を誘惑しよう、ではなく、金を儲けて夫の愛を買おうと考えるような人だ。


(まあ、そういうところも可愛いんだけどね)


 イアンは、エステルとの約束通り、クライドには商売の目的については話していない。

 彼は『エステルがやりたいことなら何をしても構わない』と考えているので、これからもその目的について言及することはないはずだ。


 つまり、エステルのズレた感覚とクライドの妙に初心な恋心のせいで、二人の気持ちは決定的にすれ違っている。

 これからもすれ違い続けるだろう。


(面白いなぁ、本当に)


 イアンは二人の関係を観察することに、すっかりはまっていた。

 同時に、エステルという人物の魅力そのものに惹かれ始めているということも、ちゃんと自覚していた。


(……本気にならないようにしないとね)


 もしも、そんなことになったら。

 口では『他の男と幸せになってほしい』などと言っている、あの恐ろしい親友に殺されてしまう。


 などと考えていると、温室の入り口がにわかに騒がしくなった。

 執事が『旦那様がいらっしゃいました』と告げる。


 クライドが来たのだ。


 この三人が集まっているところに彼が来ることは珍しい。というか初めてのことで、三人は驚いて顔を見合わせた。


 その際、エステルのたらこ唇が視界に入って、イアンとテディが思わず吹き出したものだから、エステルはまたぶすっと唇を尖らせた。


「……どうぞ」


 エステルが告げると、クライドが足早に温室に入ってきた。

 その手には、なにやら手紙らしいものが握られている。


「何かご用ですか?」


 エステルは腫れた唇を見られるのが恥ずかしいのか、クライドから顔をそむけたまま、つっけんどんに尋ねた。


 クライドはその態度を気にした様子は見せず──実際にはとても気にしているが、態度に出すことができないだけだ──、持っていた手紙をエステルに差し出した。


「王宮からの呼び出し状だ」

「王宮から!?」


 驚いたエステルが思わず振り返る。

 すると。

 彼女のたらこ唇が、クライドにもはっきりと見えた。


「……」


 気まずい沈黙が落ちる。


「……どうしたんだ、その、唇は」


 気まずい沈黙を破るようにクライドが訪ねると、エステルはふわふわと目を泳がせた。


「ちょっと、実験に失敗して」

「実験?」


 クライドは眉を寄せてテディを睨みつけたが、それをエステルが遮った。


「私がやると言ったんです、彼は悪くありません」

「だが」

「私のやることに口を挟まないでください!」


 これを言われると、クライドは何も言い返せなくなってしまう。


「……」


 再び沈黙が落ち、その様子にテディが呆れ顔を浮かべた。

 そして、深いため息を吐いて、エステルの代わりにクライドの手から手紙を受け取って中身を確認してしまう。


「なるほど。やはり」


 手紙を読んだテディは納得して頷いた。


「どうやら、もぐりの魔法使いを使った商品開発に、国王陛下はお怒りのようだ」


 それで、エステルとイアン、テディの三人は王宮から呼び出されたらしい。


「では、行くか」


 テディが軽い足取りで今すぐにでも出かけようとするので、思わずエステルはその腕を掴んで引き留めた。


「今すぐ!?」

「早く済ませた方がいい」

「そうだけど……」


 もじもじと顔を俯けたままのエステルに、テディは首を傾げた。


「この顔じゃ、行けないわ」


 確かに。

 彼らは全く望んですらいなかったが、この時はじめて、男三人の気持ちが一つになった。

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