夫の愛を買い取ります

鈴木 桜

第1話 おととい来やがれ、ですわ!


「お前の結婚が決まった」


 兄の言葉に、エステルはぽかんと口を開いて固まった。


(そんなバカな)


 だって、つい数日前に『婚約破棄』されたばかりなのだから──。




 * * *




「エステル・ピアソン嬢、君との婚約は破棄させてもらう!」


 予想はしていた。

 婚約者であるこの伯爵令息とは、そもそも家格が釣り合わないから。


「君のようなアバズレ……、おっと、失礼。花街育ちの女など、誰が本気で相手にするか!」


 だからといって、こんな風に夜会の場、つまり公衆の面前で罵られるのは心外だ。


 ……『花街育ち』であることは事実だが。


 エステルはピアソン伯爵家というれっきとした貴族家の令嬢だが、彼女の生い立ちには複雑な事情がある。


 彼女の両親は金遣いが荒く、全ての財産を金に換えて散財した。金銀も家財も屋敷も、先祖代々受け継いできた領地も、何もかも。

 そして、多額の借金を背負った。

 四歳だったエステルは、その借金を返済するために娼館に売られたのだ。


 以来、十八歳になるまで、娼館の下働きとして働きながら娼婦たちの手で育てられた。

 初めて客をとるという前日、兄だと名乗る男がエステルを迎えに来るまで。


 兄は没落したピアソン伯爵家を再興させ、行方不明になっていたエステルを無事に発見、身請けしてくれたのだった。


 正直、兄のことはよく覚えていなかった。

 だが、


『遅くなってごめんね』


 と、ボロボロ涙をこぼし、ぎゅうぎゅうと自分を抱きしめてくれた彼の温もりは一生忘れないだろう。


 その兄が必死の思いでまとめてくれたのが、この伯爵令息との縁談だった。


 ところが、その伯爵令息はどうやら初めからエステルをまともに相手にするつもりがなかった様子だ。

 彼も、彼の友人たちも、周囲に群がる令嬢たちも、小ばかにしたような表情でクスクスと笑っている。


(なるほど、娯楽に使われたってわけね)


 彼らは、由緒正しい伯爵家に嫁げると思って浮かれたエステルが、振られてみっともなく泣くところを見て大笑いしたかったらしい。


「……そうですか」


 だが、その期待には応えられそうにない。


(お兄様には申し訳ないことをしたわ)


 それだけが気がかりだ。


(私が普通の令嬢だったら……)


 もしかしたら、上手くいったのかもしれない。

 だが、こうなってしまっては仕方がない。


 エステルはバサッと扇子を広げて口元を隠し、できるだけ優雅に見えるように微笑んだ。

 口元を隠さなければ、花街仕込みの凶悪な笑みが見えてしまうから。


「あなたのような性格の悪い男など、こちらから願い下げですわ」


 エステルが言うと、伯爵令息の顔がカッと赤くなった。こんな風に反撃されるとは思っていなかったのだろう。


「なっ!」


 彼の友人や令嬢たちも言葉を失っている。

 それを尻目に、エステルはクルリと踵を返した。彼女が扉に向かって歩き出すと、人波が割れる。


 その中を、エステルは自慢の艶やかな金髪をなびかせながら堂々と闊歩した。

 去り際、チラリと振り返って。

 はちみつ色の瞳が、ついさっきまで婚約者だった男を鋭く睨みつける。


「おととい来やがれ、ですわ。この、クズ男」


 彼女の最後のセリフに、その場が凍り付いた。




 * * *




 それが、三日前の出来事だ。


 一応、反省はした。

 婚約破棄されるにしても、彼らが望んだようにさめざめと泣いて見せれば、周囲の同情を得ることができただろう。


 だが、そんなみっともないことはエステルにはできなかった。

 花街育ちにも『矜持プライド』というものがあるのだ。

 それに、同情から結婚を申し込んでくれるような男性がいたとして、そんな人と上手くやれるとも思えない。


(これはもう、結婚は無理だな)


 エステルは、すっかり諦めていた。

 まさか新たな縁談が舞い込んでくるとは思ってもみなかったのだ。


「お相手は、どなたですか?」


 エステルが尋ねると、兄は緊張した面持ちで一通の手紙を見せてくれた。

 当主である兄に宛てて送られてきた、求婚状だ。


 そこには立派な印章と華やかな署名が添えられている。


「……どなたですか?」


 残念ながら、エステルには印章や署名だけで家柄が分かるような教養はない。改めて尋ねたエステルに、兄はゴクリと唾を飲み込んだ。


「グレシャム公爵家の当主、クライド様だ」


 その名は、エルテルも知っていた。

 国内随一の大貴族だ。

 王家とも縁戚関係にある、由緒正しい家柄。


 まさか、こんな弱小伯爵家の令嬢が嫁げるような家ではない。


「冗談ですか?」

「俺も、最初は疑った。が、どうも、そうではないらしい」


 次に兄が取り出したのは、なんだか立派な雰囲気の羊皮紙のスクロールだった。

 そこに押されている印章が誰のものなのかは、さすがのエステルも一目でわかった。


「既に国王陛下が、この婚姻の許可を下した」


 つまり、この結婚は既に決定事項ということだ。




 * * *




 それから一か月後、エステルはあれよあれよという間に公爵夫人になってしまった。


 結婚式当日、初めて会ったクライド・グレシャム公爵は、これまで見たどんな男性より立派な人だった。


 身長は見上げなければ目が合わないほど高いし、肩も腕も足も筋肉質で、いかにも騎士、という出で立ちだ。

 といっても野性的な感じはしない。

 わずかにウェーブする黒髪は上品に整えられ、精悍な顔立ちも相まって、貴公子然としている。深い藍色の瞳からは思慮深さがうかがえる。


 つまるところ、とんでもなく『いい男』だったのだ。


 といっても、結婚式の最中もその後も、エステルと目が合うことは一度もなかったが。


(何か事情があって適当な相手が必要だったのね)


 突然求婚してきた相手ではあるが、彼からは愛情のようなものは微塵も感じられない。


 つまり、そういうことなのだ。


(はいはい。私は、わきまえていますよ)


 たとえ愛されなくても、そんなことは気にしない。




 結婚式当日は、そう思っていたのだ。




 だが、実際に離婚の危機に陥ると、そうは言っていられない。


 結婚式当日の夜、つまり初夜は一緒に過ごした。

 エステルは酒に酔っていてよく覚えていないが、とにかく一夜を共に過ごした。

 それは間違いない。

 つまり、……そういうことだ。


 ところが。


 それ以降、夫はエステルの寝室に来ないのだ。

 それ自体は想定内だ。

 何か事情があって仕方なく結婚した相手なのだから、そういうこともあるだろう。


 だが、屋敷中の使用人たちが噂を始めたのだ。


『旦那様は、早々に離婚するつもりらしい』


 と。


 結婚してたった数日、屋敷の中でこんな噂話を聞かされた新妻の気持ちが誰に分かるだろうか。


「どうしよう」


 この結婚のために、兄は精いっぱいの支度をしてくれたのだ。

 持参金については公爵家が便宜を図ってくれたので少額で済んだと聞いているが、結婚式のための花嫁衣装は兄が大枚をはたいて首都の名店で注文してくれた。その他の花嫁道具も、ある程度の体裁を整えるために親戚中に頭を下げて回り、かき集めてくれた。


 そんな兄に『出戻ります』とは、とても言えない。言えるはずがない。


 第一、せっかく掴んだ『まともな貴族になれるチャンス』を、みすみす逃すのはイヤだ。


「……離婚なんか、したくないっ!」


 だが、いったいどうすればいいのだろうか。


 もちろん、離婚は簡単なことではない。

 結婚のために必要な結婚契約書には、夫も確かにサインしたのだから。


 魔法を使った、厳正な契約書だ。


 エステルは魔法使いではないので詳しい仕組みは分からないが、たとえ公爵であろうと相応の理由がなければ破ることはできないはずだ。


 ただし、この結婚契約はそもそも対等ではない。

 エステルの方には離婚したくない理由が山ほどあるが、逆に夫の方にはそれが一つもないのだから。

 たとえ離婚したとしても、夫はすぐに新しい妻を見つけることができるだろう。


「どうにかしなくちゃ」


 エステルは一人頭を抱えた。

 ぐるぐるぐるぐる、思い悩むこと三日三晩。


 彼女は、ふと、一つの答えに辿り着いた。




「私が、旦那様の愛をお金で買えばいいのでは?」




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