踏切りの先へ

わぎちま

本編





 ザッザッザッ…。おおむねこんな音を立てながら歩く。時間は深夜。場所は住宅街らしい。人は当然ながらいない。遠くに見える幹線道路も明かり一つない。とても静かだ。


 さっき深夜と言ったが、もしかしたら朝方が近いのかもしれない。

 朝が近づく頃の、ほんの少し明るく青みがかった色合いが家の並びを覆っている。このくらいになれば人気ひとけも出てきそうだが、やはり何も感じない。とても静かだ。


 やがて踏切りが近づいてきた。こうして歩み寄っている間にも信号が赤く点滅することは一度もなかった。少なくとも今は四時か五時じゃないのか。始発は何時からだったかな。

 踏切りの寸前に立つ。ここを越えてそのまま坂を登ってしまえば…と思うが、どうにも一歩を踏み出せない。なぜと考えると、やはりここが「踏切りだから」だ。


 昔から踏切りが怖かった。電車に轢かれるんじゃないかとか、不安症の妄想があったわけではなく。なんというか、踏切りを通るのはいつも陽が傾ききった赤い時間だった。それを渡るとき不意に、電車が来るほうを見てしまった。何もなかった。


 何もなく、どこかがっかりした気持ちになって前を見たら、遮断機が下りていて「カンカンカン!」と警告音がうるさく鳴っていた。それを聞いて怖くなって動けなくなった。

 いや…本当に怖かったのだろうか。ともかくあの警告音を聞いてると不安があたまに浸透してきて、視界がぼやけてものを考えられなくなって、動けなくなった。


 そうしていると音はどんどん大きくなって、ぼやけた視界が真っ赤になる。夕陽の色とは違う、もっと黒い赤色。それで視界と聴覚がくっついて、ぜんぶ真っ赤になって…気づけば電車に撥ねられるところだった。

 そんな状況から脱出させてくれたのは母だった。赤に塗れて自分がわからなくなったところに鋭い叫び声を浴びせて、瞬時に帰された。慌てて遮断機を棒高跳びみたいに越えるとその母に叱りつけられる。


「あんた、もうすぐ帰れるんだから」


 気が済むと母はどこかに行ってしまった。結局その踏切りは振り返らず…振り返れず、それから踏切りが怖くなった。記憶のそれとは違うが、いま踏切りが目と鼻の先にある。

 また、電車が来るほうを見たら、あんなことになるのだろうか。まだ色の濃い薄暗がりが、目がつぶれるほどの赤でいっぱいになるのだろうか。


 そう思い気後れしていると足が動いた。それまでの道程と変わらない足どりで踏切りを進む。不思議と変な感じはしない。いざ踏み入ってしまえば、ここを歩くのが当然のことだという気がして、ますます足が軽くなった。

 視界は赤くない。遮断機は下りていない。警告音もしていない。右も左も見えない。何もおかしくない。踏切りを越えられる。


 次の瞬間、事は起こった。起こったのか?

 踏切りの終わり際、最後の一歩を踏み出し、次の一歩が着いた地面は踏切りの入り口だった。


 とても静かだ。遮断機もないし警告音もない。またも左右は見えないが、おかしさはない。いつものように歩き出す。踏切りを進む。素早くひとりでに。


 だが踏切りの真ん中で、突然左が見えた。何もない。線路沿いの自転車道と、黒ずんだ住宅街が視界の端に映るだけだ。


 そして前を見た。遮断機は下りていた。けたたましい警告音と赤、電車の絶叫が迫る。逃げられない。こんどは母もいない。踏切りだけが世界のすべてで、轢かれるしかない。


 だけどもう怖くはなかった。だってこれで、


「…ただいま」


 これでやっと、帰れるんだから。






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