皆まで言うな
黒実 操
事実(あったること)
真夏。晴天。
庭からの照り返しが痛く思えるほどなのに、広縁から一歩
入ると、じっとりと暗い。
八畳のその部屋。奥に行くに連れ、広がる闇の粒子は細か
く濃く垂れ込めて、今がまだ真っ昼間だということを、忘れ
させる。
女が一人、縫い物をしていた。明るい場所が目の前にある
というのに、廊下の襖の前、薄暗い場所で器用に針を操って
いる。
ほとほとと、襖を訪う者。
女の神経が、音の方向へと走る。しかしその手は緩まず、
むしろ針の運びは早くなる。
糸しごきをしながら、軽く咳払いをした。耳から項に掛け
て、すっと緊張が走る。
「■■■、■■■■■」
細い声が、何やら囁いた。気付きながらも女は縫い物を続
け、最後に玉結びを作り、目立つ大きな左の糸切り歯で、最
後の始末をゆっくりと施した。
九州の、とある山間の小さな村。
女は、庄屋の屋敷の女中だった。八重と名乗っていた。
鄙には稀な美女である。どこか婀娜めいた顔付きでもあり、
女中という仕事に向いた者には見えない。
日暮れてから、その八重と庄屋の息子が連れ立っているの
を、多くの村人が目撃していた。隠れる努力などしていない
ようだった。
女の容色も手伝って、良からぬ噂は静かに、実しやかに浸
透する。それでも、閉鎖的なこの辺りでは、今も庄屋という
ものは村人にとって畏怖の対象だ。陰口の域を超えるものに
はならない。
八重が屋敷で働くようになったのは、去年の今時分であっ
たろう。言葉には、隠しきれない関西訛りがあった。
そして庄屋の一人息子は、昨年春まで大阪に遊学していた。
そうしたこともまた憶測を呼ぶ種となったのだろう。
「ばってん」
口さがない村人達は、こっそりと陰でこう言い合った。
「妙なか素性の女ば、家に上ぐっどか?」
「どっか、良かとこの娘さんじゃなかと。息子ン子に惚れて
から、押し掛けてきたとか」
「んにゃ、あの顔ば見てみ。あるは素人の顔じゃなかよ」
庄屋の家の、他の女中や窯焚たきに尋ねても、八重の素性を
語る者はいなかった。
ただ一度だけ、振舞われた酒に気を良くした、八重より少
し年嵩のシゲという女中が、故郷の言葉丸出しに喋った。
「八重がお坊ちゃまと? ああ、そら、私の口からは言えんじ。
じゃけんど……。庄屋様とお坊ちゃまは、よく似ちょるやろ
が。後ろ姿なんか、うちでん、たまァに間違えるじ」
意味深に上目を遣い、口元を隠して忍び笑った。厭な笑い
方だった。
話の内容もだが、シゲの薄気味悪い様子を、皆はよく記憶
している。
娯楽に飢えた村ではあったが、分からないことが多過ぎる
上に、正解が出ないことが面白くない。村人が詮索にも飽き
果て、八重の存在が自然と村に溶け込んできた、この真夏に
事件は起きた。
炎天下。
首なし死体が見つかった。
頭部を切り落とされ、傷口に蛆が湧いた女の身体だった。
村の道祖神の後ろに、四肢を投げ出して転がっていたそれ
は、臙脂色の銘仙を纏っていた。八重が好んでいた着物に、
村人の誰もが彼女を連想する。
若い者が、庄屋の家に走った。
警官などいないこの村では、相談事や面倒事は庄屋が差配
するのが慣わしとなっていた。しかし、その門も木戸も固く
閉ざされ、どれほど呼ばわっても応答はない。
あからさまな異常。
だが示し合わせるまでもなく、主だった村人達は沈黙を守
ると決めた。麓の町の警察に駆け込むことを禁じたのだ。
もしも警察が絡んで、事件が明るみに出たらなどと、考え
るだけでも恐ろしい。騒動は御免だ。
そう。皆は、庄屋の家に疑いを持ってしまったのだ。
――首がなくとも、着物が八重のものであったこと。
――死体が見つかる一寸前より、八重の姿を見た者がいな
いこと。
――死体が見つかったその日より、庄屋の息子を見た者が
いないこと。
――庄屋の家が静まり返り、出入口が閉ざされてしまった
こと。
これらの材料から、早々に村人の大多数が同じ結論に至っ
ていた。
死体の発見者は、幼い子供達だった。道祖神を終着とした、
早駆け遊びに興じていたのだ。
大人が見ても生涯悪夢に苦しむだろう、紫の肌と乱雑な切
り口を晒す首のない女の死体を、お天道様の下、子供らは見
てしまった。
日数が経っても、夜中に痙攣を起こす子らがいた。
怯えの感情は、大人も味わう。
「庄屋さん家は恐ろしか。息子ン子の惚れとる、八重が邪魔
になったったい」
「ばってん、殺さんでん良かろて。首ば切るて。鬼ンごたる」
肝心の庄屋は、沈黙したままだ。
息子は勿論、庄屋本人もその妻も、使用人さえも外出の気
配がない。
――元々、庄屋の家の人間が村を出歩くことも少なかった
ので、いつからその姿を見ていないのか、はっきりと言える
者はいなかった。例外は息子だけで、死体が見つかる前の晩
にふらふらと歩いているところを、小便に立った年寄りに目
撃されている。
首のない女の死体は、寺が引き取り無縁仏として供養した。
庄屋の家に持っていこうと息巻く若者もいたのだが、年寄り
連中に窘められた。
「何で、首ば切ったとだろか?」
その疑問は、当然皆の持つところである。
首を切って正体を隠す手間を考えれば、着せ替える――脱
がせるだけでもいい。着物で八重だと知らせてどうする。
女達でさえ井戸端で議論する。
勿論、答えなど出ない。
どんなにもっともらしい案が出ようが、それを確かめる術
などない。
せめて使用人を捕まえようと、目を光らせてる人間もいる
が、屋敷の門は疎か、お勝手さえも開かない。
朝夕に竈の煙が上がるのは、確認されている。出入りがな
くとも、そこで生活しているのは間違いない。
この状況が恐ろしい。
村人達は挙って、なるほどと、庄屋の家の有罪を頷き合う
のだった。
それから、半月近くが経ったある日の早朝。
この日も晴天。
今度は寺の土壁に寄り掛かるように座した、首のない女の
死体が見つかった。傷口はまだ生々しく、切りたてと言って
もいいくらいだった。
発見は、またも子供達であった。道祖神を避け、反対方向
にあるこの寺に、わざわざ遊びに来てのこと。
悲鳴を聞きつけた寺男が、素早く死体を門の中へと運んで
いった。子供らは口々に親を呼び、叫びながら、散り散りに
逃げ去った。
忽ちのうちに、寺に村人が押し寄せた。
「お内儀様が着物たい!」
死体が纏っていたのは、この辺では確かに庄屋の妻しか持
つはずのない、粋(ハイカラ)な色合いのお召しだった。
「んにゃ。こら、おかしか」
じっと死体の手先を見つめていた髭の濃い青年が、大胆に
も着物の襟を掴み、ぐっと下げる。
「お内儀様に、何ばすっと」
年寄り連中が、声を荒らげる。
青年はそれを片手で制した。彼の名は川畑辰男という。こ
の村の大半が西村姓だが、彼は違った。
「こら、お内儀様じゃなか。肌ば見てみ」
露わになった胸元を指差す。
張りのある乳房。死体とはいえ、瑞々しさの残る若い肌。
「こら若か女たい」
しん、と、場が凍った。
庄屋の家の使用人は、全て余そ所者だった。
二十数年前までは、村人を雇っていたのだが、息子が生ま
れたときを境に、全員に暇が出された。
おかしな話は、遡ればその頃から既にあった。
息子が生まれたときに呼ばれた産婆が、その二日後、予告
もなしに村を出た。一家揃っての、夜逃げ同然の有様だった。
産婆一家の出奔と庄屋の家の出産と、更に使用人の総入れ
替え。これより庄屋の家の出産に、何らかの不都合があった
のではないかとの憶測が生まれた。
だが、お七夜は無事に行われた。
惣領息子のお披露目だった。
その後、すくすくと健康に育つその姿を見る限り、子供に
関しての隠し事ではないのだと村人は信じた。
では何故、産婆は唐突に村を出たのか。使用人を余所者に
替えたのか。
庄屋は隠し事をしている。ただし何かは分からない。
子供ではないなら、金儲けに繋がる何かだろうと勘繰って
も、具体的には何も挙がらない。麓の町から、役人や商売人
が朔日にやってくるのが慣わしだったが、それは先代より続
いてきたことだ。
産婆と使用人の問題を除けば、特に変わったことなどな
かったのだと、皆は信じたくなった。
何かがあったとしても、下々には関係のないことだろうと、
考えるのをやめた。
そして、今――。
流石に知らぬ振りなど、もう――。
「庄屋様に話ば、せんといかん」
議論を尽くしたのち、そう結論が出た。朔日まで待てば、
麓から役人が来るではないかと止める者もいた。が、若い者
らを中心に一刻も早く事実を知りたいとの声が高まったのだ。
その多くは、死体を見てしまった子供らの親だ。
町から警官を呼ぼうと息巻いた者もいたが、賛同はされな
かった。真実は知りたし、事を大きくしたくはなし。庄屋を
断罪して、結果、この村が潰れる羽目になるのは避けたいこ
となのだ。
先送りに過ぎないという勇ましい声は、黙殺された。
二転三転の話し合いだった。
まずは庄屋の妻が、八重殺しの犯人だと決め付けられた。
母親が、息子から引き離す意図で、八重を始末した。そし
て自分に疑いが掛からぬように着物を変えて、殺されたのは
自分でございという筋書きを施したのではないか。
己には学があると自負する年寄り――西村久助が、得意顔
をする。
当然最初に現れた、八重の着物を着た女の死体はどうなる
と反論が出る。
あのときは碌に検分などしていない。しかも死んでから時
間が経っていた節がある。若いか中年かさえ、見ただけでは
分からない状態だった。
では、こういう考えはどうだ。
息子は八重に唆され、邪魔な母親を殺した。八重に疑いが
掛からないよう、死体を身代わりに使う。首を切り、死体が
痛むのを待ち、八重の着物を着せて人目に付くように捨てる。
しかし日が経つに連れ、八重のことが恐ろしくなった息子
は、彼女を殺す。だが八重は、既に死んだことになっている。
だから再度、首を切り、母親の着物を着せて人目に付くよう
に捨てた。
辻褄は合う。
だが、男が女の着物をそう簡単に着せることができるだろ
うか。死体の身嗜みは、きっちりとしていた。
手伝った女がいるということに、なる。
――他の使用人はどうしているのだろうか。
老境に差し掛かった窯焚き男が一人と、中年の女中が一人、
そしてシゲ。誰も村を出た様子はない。未だ屋敷にいるはずだ。
待て。
何より、庄屋本人はどうしている。
この状況を、どう見ているのだ。
皆で跡継ぎ息子を庇おうと、沈黙しているというのか?
いや、無理がある。
ならば息子の手によって、他の使用人や庄屋本人も殺され
ているのでは。息子は父親によく似て小柄で華奢な男なのだ
が、自棄になり我を忘れたとしたら、そのくらいの所業は可
能だと思われた。そして死体は屋敷の敷地内に――、
待て。
だったら女の死体を表に出したのは、何故だ。
女の、それが八重であれ庄屋の妻であれ、その死を村中に
知らしめることに、一体何の意味があるというのだ。
誰も説明できない。久助でさえ、黙り込んだ。
――説明などできない。
皆、ここで考えることをやめた。厭になったのだ。
この村は、とっくに倦んでいた。
訪問するのは、かつて庄屋に仕えていた者の中から、窯焚
きだった老人と、女中頭だった老女とした。
塀のすぐ外に青年達を待機させる。物騒なことだが、手に
は長い棒。鎌を持ってきた者もいた。
「暴るるなら、大変(たいせつ)だけん。用心ばせんと」
「何かあったら、すぅぐ大声ば出すとよ」
「俺達が飛んでくけんな」
村人達が、これほどにまで団結したのは初めてかもしれな
かった。
庄屋の家は、寺と同じように土塀に囲まれている。その長
い塀に沿って、村人達がひたひたと列を作って歩いている。
この日も晴天。炎天下。刻は午後二時に差し掛かったくら
いだ。直談判に行く二人は、日の高いうちでないと絶対に厭
だと主張した。
八重の着物を着た死体が見つかった日から、雨らしい雨は
降っていない。この季節、激しい夕立が降ることが当たり前
の土地柄なのだが、この半月というもの纏まった雨はなかった。
稲や葉物野菜などの作物を心配する声もあったが、首のな
い女の死体には敵わない。目下の懸念は、全てそちらへと向
けられていた。
だから、土もだが木も―― 木でできた家も乾ききってい
たことに、注視していた者はいなかった。
皆が、木戸の前で足を止めた。ここが勝手口になる。髭の
濃い青年――辰男が、深呼吸をして取っ手を引いた。
簡単に開いた。
顔を見合わせる。
頷き合う。
決められていた二人の訪問者が入り口を潜った、そのとき。
「待たんね。こら、何の臭いね」
久助が、押し留める。
焦げ臭い。
「見らんね! 煙たい」
かつての女中頭が指差すのは、母屋の外れだ。
「お風呂場のほうたい!」
若い連中が、棒を握り締めて駆け出した。
お内儀の着物を着た死体に疑問を呈した、辰男が先頭を行く。
まだ独り身の彼は、無鉄砲とも言える勢いのままに走る。
自身でも理解し難い衝動が、身内から突き上げていた。
「ぅおらああぁああああああ!」
握った長い棒を振り上げる。地面を蹴る。砂埃が舞う。土
足で目の前の広縁へと駆け上り、ぎょっとその場で、蹈鞴を
踏んだ
抜けるような青空。強い日差しは、容赦なく首筋を焼く。
しかしその座敷の中には、闇が鎮座していた。
八畳のその部屋。奥に行くに連れ、広がる闇の粒子は細か
く濃く垂れ込めて、今がまだ真っ昼間だということを、忘れ
させる。
その奥の、丁度襖の前。
天井から、女の首が、逆さまに下がっていた。
陽光を拒む一角で、ぼぅと浮かぶ、逆さ首。
粒子の粗い闇と絡み合うように、長い黒髪が揺れていた。
婀娜っぽい顔付きの、若い女。その唇がゆっくりと開き、
――薄く笑った。
辰男は、立ち竦む。
女は、すぅっと真顔に戻る。が、唇が斜めに歪んでいる。
左の上唇が上がったままなのだ。ああ、あの大きな糸切り歯
に引っ掛かっているんだなと、彼は察する。
「何ばしよっとや! 火元はあっちたい」
背後からの不意の大声に、つい、目を離した。
すぐに視線を戻したが、首は消えていた。
辰男は、土足のまま畳に踏み出した。躊躇いはない。首が
あった場所まで歩き、天井を見上げ、板を棒で突いた。
かたん。
何の抵抗もなく、ずれた。
「水、水! 井戸は!」
「入れ物ば、探さんと」
母屋の裏手は、轟々と音を立てて燃えていた。確かに、さっ
きまでは大した燃え方ではなかったはずなのに、あっという
間に屋敷全体が炎に呑み込まれようとしている。
久助初め、年寄り連中はおろおろと慌てるだけで、役には
立たない。腰を抜かす者さえいた。
女中頭だったという老女が、叫んだ。
「井戸はあっちたい。早ぅ、水ば汲んで!」
と、それを遮るように、走り込んで来た辰男が、棒を振り
回しながら叫ぶ。
「こら、無理たい! 逃げんね。死ぬばい!」
その声と同時に、大きな柱が崩れた。ぶわっと炎が膨らむ。
屋根にまで達し、ありえない大きさの陽炎が立つ。
煙が、村人達の目を喉を刺した。
限界だった。
一斉に踵を返す。
若いも年寄りも、男も女もない。転がるように逃げた。子
供のように泣き声を上げる者もいた
入ってきた木戸から、最後の一人が転げ出たとき、轟音と
共に屋敷の大屋根を飾る瓦が一斉に崩れ落ちた。
辰男は振り返る。屋敷は右半分が大きく潰れ、朱色に染まっ
ていた。
吐き出される猛烈な真っ黒い煤煙と、嘘のように青い空。
辰男は目を閉じ、その光景に、先に見た逆さ首を重ねる。
闇の粒子の中に、ぼぅと浮かぶ女の顔、白く大きな糸切り
歯。炎。瞼の裏の美しい地獄絵は、深く深く彼の内に留まった。
それからの村は、後始末に追われた。
大勢の警官や役人が、麓の町よりやって来た。若い連中に
は、警官を初めて見る者さえいた。主だった年寄り達は彼ら
の対応に追われ、他の者は田畑の仕事、そして庄屋の家の後
片付けに精を出した。
焼け跡からは、生焼けの男女の死体が一体ずつと、消し炭
のように焼け焦げた死体が二体。計四人分の死体が出た。
生焼けは、男が窯焚きで、女が中年の女中だった。どうや
ら油の入った風呂桶に浸け込まれた上で焼かれたらしいが、
一番上に乗っていた二人が生焼けに終わったようだ。
問題は、黒焦げ死体のほうである。余りによく焼けていて、
男か女かの区別さえ付かない。
――庄屋様。
――庄屋様の息子ン子。
――庄屋様のお内儀様。
――シゲ。
――八重。
行方が分からないのは、この五人。
身元の知れない焼死体が、二体。
身元の知れない首なし死体が、二体。
一人、足りない。
首なしの身体は、間違いなく女だった。警官が墓を暴き、
改めて確かめもした。
痛みが激し過ぎる為、麓まで運ぶことは諦めた。墓場での
検視の結果、八重の着物を着ていたほうが、庄屋の妻かもし
れないということだった。
警察は、何としても首の在り処を捜さんと、村の中だけに
終わらず周囲の山林も探索した。
しかし、首は疎か、手掛かりさえ何一つ見つからない。
――辰男は、あの日見た八重の逆さ首のことを他言しな
かった。
そんなある日。夕刻。
そろそろ遊びやめて家路に就こうとしていた幼子達が、見
慣れない大人に声を掛けられた。
「坊ちゃん、嬢ちゃん、こんにちは」
くぐもった声だった。
額に下がる帽子の鍔で、顔全体が影に覆われていた。瓶の
底を思わせる、大きな鏡(レンズ)の眼鏡を掛けて、立派な
洋服の襟を立てている。この辺では珍しい、自転車を押して
いた。
似たような格好の人間が、ここ最近、村へと激しく出入り
していることを、子供らも知っている。
「おっちゃんは、お巡りさんね?」
虎刈り頭の男の子が、勇気を出して訊いた。
「そうたい、そうたい。坊ちゃんはお利口さんね」
愛想よく答えてきたが、その声が作り声のようで気味が悪
いと、子供ら皆が感じていた。
不安そうな眼差しを受け流し、大きな眼鏡が子供らの上を
巡る。
一人の女の子を認めた。
「嬢ちゃんは賢かごたるね。こるば、やろか」
背負っていた風呂敷包みを下ろして、差し出した。四角い、
大きめの箱のようなものが包まれているようだ。
女の子は、暫く躊躇する。
「あの、知らん人から、物ば貰たらいかんけん」
と、小さくだがきっぱりと言い、両手を後ろ手に組んだ。
「ふん」
さも面白くなさそうに、その不気味な大人は鼻を鳴らすと、
再び風呂敷を背負い直す。
そして、幼いながらも意志の強い瞳から、背を向けた。
「バイバイね」
自転車に跨り、すーっと子供らの脇を通り抜け、去った。
子供らは家に帰ると口々に、今、会った薄気味の悪い【知
らない人】のことを親に告げた。
夜、村中の成人した男が集まり、危険と不安を口にする。
久助が場を仕切り、意見を纏め上げる。
「こるは警察に言わんといかん。知らん人間が村に入り込ん
どったなんか、今までなかったことばい。ただでさえ物騒な
ときだけん。明日、誰か麓に行ってくれんね」
「俺が行くたい」
辰男が手を挙げた。
そのとき。
「ん?」
部屋の北側にいた者達が、天井を見る。
「どんなしたとね?」
「んにゃ、何か音がしたごたる」
「鼠だろか」
「日照りの続きよるけんね」
それを盗むように、辰男は見遣った。
翌朝。晴天。
早朝にも関わらず、既に汗ばむ暑さだった。
辰男が、麓に行くべく歩いていた。その道の先から、泳ぐ
ように両腕を振り回しつつ走り込んでくる者がいる。
見た顔だ。
警官だった。本物だ。
「わっ、くっ、くくく、くっ、」
呂律が回っていない。白目を剥き掛けている。人に出会っ
たことさえ、理解できていないようだ。
異常を察した辰男は、警官に体当たりした。
足は止まったが、両手は止まらない。滅茶苦茶に振り回し
ながら、警官は叫んだ。
「くくく、首! 首、首首ぃひぃぃ!」
その警官は人心地を取り戻すまで、短くはない時間を掛け
ることになった。
己の職務を思い出すと、息荒く語った。
村への途中に小川がある。板を渡しただけの橋で充分な、
細く浅い川だった。
この朝、この警官は【八重】を仲介した口入れ屋から取っ
た供述書を手に、村へと急いでいた。予定にはない訪問だった。
自転車だったが、慣れない山道のこと。辛抱堪らず、自転
車を降りた。押して歩く。
上り坂の先に、粗末な板が横たわっている。あそこを越え
ると、すぐだ。
奮起した。足早になる。
「ん?」
板の向こう側に、真っ黒な塊が見えた。丸っこくて、ふさ
ふさしていて、最初は猫だと思ったそうだ。
しかし、近付くにつれ違和感が膨らむ。まず、毛足が長過
ぎた。第一、猫が何故こんなところで丸くなっているのか。
「猫じゃない」
猫じゃなかった。
丸くて、黒い長い毛が生えた、それ。
目玉が腐り落ち、眼窩がぽかり。唇も腐り落ち、真っ黒な
口腔。前歯が一本もない。
「っく、く、くび、んなっ、生首だあぁあああ!」
それからの確かな記憶が、警官にはなかった。気が付くと、
髭の濃い男に抱えられていた。頬が、じんと痺れている。一
発張られたようだった。
落ち着きを取り戻した警官を伴い、村の青年達が総出で現
場へと足を運んだ。
制帽は板の橋の上で、ひしゃげていた。靴跡がくっきりと
付いている。この辺で靴を履いている者はいない。警官自ら
が踏んだのか。
自転車が、道の真ん中で倒れていた。
皆が「首は、首は」と喧しいなか、辰男だけは、緊張した
面持ちで辺りを注意深く見回す。
板の橋の陰、草に隠すようにして、紙切れがあった。素早
く拾う。鉛筆での走り書きがしてあるようだ。
辰男は普段から、己には学がないと零していた。平仮名と
片仮名と、ほんの僅かな簡単な漢字をやっと読める程度なの
だと――。
懐に紙片を隠し、素知らぬ振りで皆の後ろに戻る。
警官が喚く。
「ここに、生首ンあったったい!」
どこにもなかった。
寺の一部屋を借りて、男連中で警官を囲んだ。
どんなに警官が生首のことを主張しても、実際にないもの
はないのだ。
猫か狸、そのような獣を見間違えたということで場が収
まった。
まだ心瑤瑤としている警官が、口入れ屋からの情報を訥々
と語る。この為に村を訪れたのだ。
【八重】は、大阪のとある商人の娘だった。娘といっても貰
われ子の身の上で、知らぬは本人ばかり也という状況だった
らしい。
しかし、女学校の中級で己の出生を知った八重は、家を出
てしまう。義母と大きく揉めたことが原因らしいが、詳しい
ことは分かっていなかった。
「不良者のごたる男と、一緒だったて。瓶底眼鏡ば掛けてから、
暑か日にでん、口元まで首巻きば巻いとるような男で。その
男がさせたとかもしれんばってん、八重は軽業の真似事とか
女給のごたる仕事ばしよったとか、妙なか噂もある」
「そら、親はお上に訴えて、娘を取り返せば良かろ」
「いや、実は……八重の両親は揃って川に身投げして、死ん
だったい」
皆が息を飲んだ。
「殺されたッじゃなかかて、言われとったらしか。ばってん
二人揃っては、おかしかろ。それに跡取り娘を失って、かな
り憔悴しとったごたるし」
言うと、大仰に首を捻り、黙り込んだ。
重い沈黙が、場を覆った。
「ちょっと、よかろか?」
久助が、長い間を破る。険しい顔をしていた。
「その八重に付いとった男は、もしかしたら八重の兄
者(あんじゃもん)じゃなかね」
一同が顔を見合わせる。
久助は、搾り出すように、続く言葉を発する。
「庄屋様の息子ン子は、確か大阪に行っとったろ」
それを聞いた村人皆が、すっと、同じ表情になった。
警官だけが用心深そうに首を捻っていたが、思い切ったよ
うに喋りだした。
「口入れ屋が言うには、ある日、八重本人が尋ねてきて、庄
屋さんの家に自分ば斡旋してくれろと、立派な紹介状を持っ
てから。で、この口入れ屋も馬鹿じゃなかけん、色々とこの
八重て女のことば、調べたそうで。さっき話した内容は、そ
こからたい。ただ紹介状が、逆らえんお人からのもんで。怪
しかと思いつつも言う通りにしたごたる。この口入れ屋は大
阪に居るとばってん、庄屋さんとの縁が深からしか。何でん、
婆ちゃんがこの村出身らしかばい」
そして少しの間、逡巡したが、再び口を開く。
「こるは、他からの聞込みでの話ばってん、八重を養女に出
したとは、九州のとある偉か家だったてばい。赤ん坊の八重
ば連れてきたとが九州訛りの酷か婆さんで、確か小さな山村
で産婆ばしよったとか」
皆が、一斉に顔を上げた。
「……畜生腹」
警官と入れ替わるように、久助が、ぽつり。
「双子のこつたい。昔は酷く嫌いよったもんなぁ。庄屋様と
もなれば、体面ば重んじなさるもんな。あんとき息子ン子ば
残して、女ば他所にやったったい」
頷きながら、言い切った。
頼りにしている久助に力強く断じられ、村人達の想像は禁
忌を破った。
「大阪で会うて、兄妹て分からんかったッばいな。恐ろしか」
堰を切ったように、憶測を吐き出し始める。遠慮のない言
葉の洪(おおみず)。
「兄妹で」
「父親まで」
「外道たい」
「畜生たい」
辰男だけは、その輪からそっと外れる。
「息子ン子と八重は、いっちょん似とらん」
と、一人吐き捨てた。誰の耳にも届かない。
「何ね、何ね。みんな、何ば言いよるとね。そぎゃん恐ろし
かことば。やめんね!」
警官は展開についていけず、堪らず大声で制した。
村人達は、ぴたりと黙る。
そして警官のことを、憐れむように見つめた。辰男だけが、
目を伏せる。
「皆まで言うな、て」
久助が、呟いた。
丁度、その頃。
大人達が警官と、血相を変えて騒いでいたことは、既に子
供らの知るところであった。
怖い目に遭ってもなお、群れているときは好奇心を抑えら
れない。麓に直接繋がるあの道で、村の外まで様子を見に行
こうかどうしようか、小さな頭を悩ませていたのだ。
ちりんちりん。
そこへ、自転車がやって来た。
昨日の、薄気味悪い大人が跨っていた。
子らを目に止める。
「バイバイね」
にぃっと歯を剥いて笑った。
昨日と同じく靴を履き、洋服を着ていた。
振り返ったまま、器用に把手(ハンドル)を捌き、村を
出ていった。
昨日は夕暮れ。大きな眼鏡を掛けて洋服の襟を立てていた、
だから顔はよく見えなかった。
だが、今は真っ昼間。しかも晴天。
眼鏡を掛けていた。襟も立てていた。
だが、歯を剥いて笑った。
子供の目にも、はっきりと映った。
皆、わっと叫び、それぞれの家に向かって走っていった。
「お母ちゃん!」
母と呼ばれたその女は、竈掃除の手を止めた。顔を上げる
よりも早く、遊びに行ったはずの息子が、胸に飛び込んできた。
様子が変だ。
不審に思い、問うより早く、
「昨日のお巡りさんが居った。バイバイって言うて、村ば出
てった!」
叫ぶと、固く、しがみついた。
「笑ろうて、大きか歯が」
母の胸に顔を埋めながらの言葉は、よく聞き取れなかった。
女は問い返すことはせず、震える虎刈り頭を、そぅっと撫
でる。
この子は、首なし死体を二体とも見ているのだ。
毎夜毎夜、魘されていた。悲鳴を上げる。逃れようと暴れ
る。母の細腕では抑えきれない。加えて父も抱き締める。
それでも幼子は、目を見開いたまま叫び続ける。夢から覚
めることができない。叫び続ける。
母親は瞼を強く閉じ、眼球に焼き付いた夜毎の光景を振り
払うべく、下唇を噛む。
薄皮はいとも容易く破れ、真紅の珠がぽつりと浮かんだ。
この日、辰男が誰にも告げずに村を出た。老いた両親も何
も知らされておらず、ただただ嘆くばかりだった。
最後に彼を見たのは、麓の町に野菜を売りに出掛けていた
村人だ。
「駅の人ごみの中でばってん、女と一緒だったばい。……ん
にゃ、女の顔は見えんかった」
庄屋の家は廃されることとなり、村の総意で、久助を村長
に据えた。
この度の事件は、道ならぬ恋に悩んだ庄屋の息子が人生を
悲観し、一家心中を試みた結果だと役人が決定付けた。
庄屋と窯焚きと女中二名が焼死、庄屋の妻と八重が首を切
られて死亡、犯人と思われる庄屋の息子は行方不明、自殺の
疑いありとのことだった。
村人の誰からも、異論は出なかった。
事件が、新聞に大きくは載らなかったことは幸いだった。
騒ぎになることを好む者など、いないのだ。
一部の年寄りだけに知らされた事実だが、庄屋の家で所蔵
していた証券類、夫人の装身具等が持ち出されて、麓の町で
換金されていた。
どれも、最初の首なし死体が見つかる直前、庄屋の息子本
人が父の代理を名乗り、行ったことらしい。逃走資金を作っ
たのだと、誰もが信じた。
尚、二つの死体の首も、警官が見たという首も、今日まで
見つかってはいない。
こうして事件は幕引きされた。
この年の晩秋、時の首相が東京駅乗車口で刺殺される。
混沌とした時代であった。
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